5話目 ヴァッサーレ城塞 ③
翌朝、西翼にある執務室にレオネルが護衛騎士のフィトと共に足を踏み入れると、文官の一人として先日紹介されたばかりのダリオが、執務机の傍に所在なさげな様子で立っているのが見えた。
「ええと、確かダリオと言ったな? 随分と早いが、何かあったのか?」
歩みを進めながら、レオネルが訝しげに尋ねれば、その特徴的な赤髪と同じくらい緊張で顔を赤く染めたダリオは、手に持っていたものをレオネルに差し出し、しどろもどろに答える。
「な、なま、名前……っあ、ありがとうございます。そ、その、今朝早く叩き起こされて、何がなんだか分からないまま、これをエ、エリアス様に頼まれまして、その……」
レオネルがそれに目を向ければ、一枚の紙切れのようなものだと分かった。
「レオネル殿下。ダリオは、あがり症なんですよ。ただでさえ殿下は眼光鋭いんで、あんまり、じいっと見ないでやってくれませんかね?」
「フ、フィト……ッ?! 君は、殿下に何を……そ、それに余りにも無礼な態度を」
慌てふためくダリオと、一向に悪びれることのない様子で肩を竦めるフィトの二人に向かって、鷹揚に手をひと振りして黙らせたレオネルは、差し出されたものを手に椅子に腰を下ろした。
それに目を落とせば、エリアスの文字で図書室へ来いとだけ書かれている。無論、ひどく丁寧な言葉遣いではあったが。
紙一枚で呼びつけるとは。
手に持つ紙から、掬い上げるようにダリオを見れば、今にも気絶するのではないかと思うほどに震えている。
エリアスのことだ。なるほど大した説明もなしに、単に紙切れを預けたに違いない。何気なく預かり、手渡す前になってそれに目を通したと思われるダリオにしてみれば、たまったものではないだろうとレオネルは、震える彼を横目に唇の端を持ち上げた。
レオネルが王宮から連れて来ることが出来たのは、乳兄弟であり幼い頃からの側近とはいえ、エリアスだけである。新しい領地に着くや、これまで馴染んでいた護衛騎士も入れ替わり、ヴァッサーレ城塞に勤める騎士や官吏たちとは顔を合わせたばかりだ。
これらの処遇について、エリアスが色々と勘繰りたくなるのも分かるというものだが、レオネルは
そもそも王位を望まないのだから考えるだけ無駄だ。レオネルは一度たりとも王の椅子に座りたいなどと思ったことはない。国内に不要な対立を生むと分かっていて臣に下らないのは、母を殺した
そのようなこともあって、現在ヴァッサーレ城塞に勤める者達とはまだ馴染みなく、彼らもまたレオネルのことを、国の内外で囁かれる噂程度にしか知らない。
それ故に無闇に畏れる者、侮る者、媚びへつらう者、やたらと崇める者……それから、フィトのような変わり者といった面々と暫くの間、顔を合わせることになる。
とはいえ、レオネルの
昨夜……時間からすれば未明頃の、あのやり取りから姿を見せることなく例の調べ物をするエリアスが、怒り半分に寝る間なく精を出していると知ってはいたが、レオネルが急がせたとはいえ早くも何かを見つけたのだろうか。
紙を机の上に置き、肩肘を突き顎を乗せると、もう一方の手の指先でコツコツと机を叩くレオネルを見て、何を思ったのかダリオは、それまで真っ赤だった顔を青くさせた。
「……ダリオ」
「はッ、はぃぃい……ッ!」
叱責を恐れるあまり、固く両眼を瞑り身体を真っ直ぐに強張らせているダリオは、滑稽極まりなく見える。
この者は、果たして、このままずっと変わらないのだろうか?
「先に今日の分の執務を済ませてから……そうだな、午後の休憩前までには図書室へ顔を出すとエリアスに伝えろ」
「は、は、は……い?」
机の上に両肘を突き指を組み合わせた精悍で美しいレオネルと計らずも目が合い、その双眸の鋭さに堪えようもなく、ビクッと身体を震わせてしまう。
赤くなったり青くなったりと忙しいダリオに、思わずレオネルの唇が緩む。
「ふうん。エリアスが揶揄いたくなるのも、分かるな」
「……え?」
「ダリオには気の毒だが、エリアスはお前のことを気に入ったようだ」
「な、えッ……え?」
あたふたとダリオが助けを求めるように、レオネルの後ろに立つフィトを見上げれば、にやりと笑い顔が返ってきた。
「まあ、あれですよ。これで殿下も、よおぉく分かったと思いますが、ダリオにゃ腹芸は無理ですからね」
「……ッ?! ってフィト、またそんな言葉遣いを」
「しっかしダリオ、良かったよなあ。エリアス様に敵に回されちゃ、きっと命がひとつであることに感謝したくなるからな」
「それって……?」
「間違いなく、死にたくなるってヤツだよ。いや、いっそ殺してくれって頼む方かもな」
丁度そのとき、前日に頼んでいた報告書を抱えた残り二人の文官が執務室に入って来るや否や、絶句するダリオを前に呵呵と笑い声を上げているフィトを見て、あからさまに嫌なものを目にしてしまったとばかりに顔を顰めたのを、レオネルは見逃さなかった。
レオネルの唇の端が持ち上がる。
ダリオには「図書室へ行け」と言って払うように片手を動かし、二人の文官には目線で持っている物を机の上に置くように促す。
そうした後でレオネルは、唇の端を持ち上げたまま報告書の一つを手に取り、その日の執務を始めることにしたのだった。
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