3話目 ヴァッサーレ城塞 ①



 レオネルが此度こたび新たな城主となったヴァッサーレ城塞に、エリアスともう一人を連れ、戻ったのは深夜を回った頃だった。


 『辺境の地の古城』と王都で呼ばれているヴァッサーレ城塞は、その名を聞くだけなら鄙びた城のようだったが、実のところは美しさと戦闘設備の充実した城塞として、騎士の間で知らない者はいない。

 街を見下ろす『魔王の角』と呼ばれる山の斜面に建てられているこの城のもとは、滅亡したレイズ王国の王宮であったが、当時隣国の辺境伯であったロランドの侵略により陥落。加えてヴェネセティオ王国の建国に伴い王の居城と定め、手狭だった宮廷を拡張したことに端を発する。

 建国王ロランドは、この城を拠点とし更なる領土を拡大。晩年、王都を現在の場所に移動した後もヴァッサーレ城は城塞として活躍。隣国の侵略や内紛などの度重なる戦争による破壊と再建を繰り返し、九十年ほど前より今の姿となったのである。


 城は西翼と東翼に分かれており、レオネルの私室がある住居部分は東翼にある。また、執務を執り行うための様々な部屋は西翼にあり、加えて図書室、兵器庫や倉庫、騎士達の居室なども同じく西翼にあった。


 領土の視察後の遅い帰宅を恭しく出迎えた家令だったが、エリアスの抱えているものを目にした途端、その取り澄ました顔を変えることなく、ただ僅かに左眉に戸惑いの感情を浮かべて見せただけで済んだのは流石ともいえる。

 その家令を鋭く一瞥しながらレオネルは、近侍に向かって脱いだケープを放ると、長い指で乱れた髪を優雅な仕草で掻き上げた。汗ばんだ艶めかしい額が覗く。

 

「何も聞くな。とりあえず、客人として扱え。ああ、だが部屋は客室でなく……そうだ、エリアスの隣を与えろ」


 畏まりました、と家令が軽く腰を折り顔を上げる頃には、主人であるレオネルは私室へ足を向けており、姿勢の良いその広い背中が見えるだけだった。


 レオネルの私室がある三階に、側近であるエリアスの部屋が与えられている。その部屋と隣り合う部屋に、家政婦長の指揮の下、慌ただしく部屋が用意された。

 女中メイド達が、意識のない悪臭を放つ客人を清めるという重労働を終え、その部屋に運び入れる頃には長い夜も終わろうとしていた。

野薔薇ノイバラの姫は、まだ目を覚さないのか?」

「殿下。何者かも分からないものに、そのような名前をつけるとは……」

「エリアスそう、怒るな。冗談だ。そうは言ってもに呼び名が無くては、困るだろう?」

「困りはしません。不便なだけですよ」


 ははッと機嫌良く笑ったレオネルは、寝台の上に横たわるものに視線を落とし

「未だ枯れ枝のようだが、しかし、汚れを落とし、薬湯を無理矢理に与えたただけで、これほど見違えるとはな」

と、面白そうに目を細めた。


 固く縺れていた髪は、月を溶かした絹糸のように、とろりと艶を帯びて寝台の上に広がり、汚れていた肌は、透き通るほど白く、さらには美しく造作の整った顔が、いまや露わになっている。


「いっそ恐ろしいほどですよ。汚らしい皮と骨でしかなかったものが僅かの間に、それも湯浴みと薬湯のたったそれだけで、皮膚に柔らかな張りがでて充分に人間らしくなりましたからね」

「色々と手厳しいな」

「しかも、客人などと」


 呆れているようにも怒っているようでもあるエリアスは、恐ろしいと言いながらも目の前の女人ではなく何か別のものを怖がっているようだった。

 いったい何を恐れているというのだろう。

 エリアスが怖がるのは、物心ついた頃から常に、レオネルに関することだけである。それを知っているレオネルは、過保護な乳兄弟の背中を安心させるように軽く叩いた。


「エリアス。言い伝えには真実と信じられる物事、さらにはそれにまつわる話があると言ったな?」

「……ええ、そうです」

「不安に思うなら、取り急ぎ調べろ。俺もが完全に目を覚ます前に、少しでも分かったことがあれば知りたいが……ああ、どうやらその時間はあまりないようだな」

 

 その言葉を受けたエリアスが、不承不承に部屋を出て行く気配を背中で感じながらもレオネルは寝台の上から目を離すことが出来ずに、急げ、と最後の言葉を口の中で呟いた。

 間を置かずして閉じていた長い睫毛が、細かく震えているのをレオネルは目敏く見て取ると、待ち侘びた蕾の綻びの瞬間を目にすることがようやく出来ると言わんばかりに、そっと寝台に腰を下ろし、まるで口付けを落とさんとばかりの仕草でもって、覆い被さるように顔を近づける。

 次いで、レオネルの蠱惑的な唇は自然と弧を描いたのだった。

 やがて花の開くが如く、ゆっくりと目蓋が持ち上がり、露を浮かべた焦点の合わない瞳が現れた。その黄金に赤い薔薇の花弁を散らしたような珍しい虹彩に、レオネルは思わず息を呑んだ。さらには、瞳が焦点を結ぶと忽ちに何かを認め、憂いで翳り僅かに揺れたのを、見逃すことはなかった。

 

「……ロラン……ド?」


 掠れた声が、レオネルの耳朶に触れた。

 ロランド、と確かに聞こえたが、目の前の美しい瞳が映し出しているのは、眉を顰めるレオネルの姿である。

 憮然とした顔のレオネルを映す美しい瞳が、緩々と、緊張を孕み驚愕の色を帯びるのをじっと見ていることしか出来なかった。


「ま……さ、か。生き帰っ……たの、か?」


 絞り出す声で細く白い咽喉が震えている。

 違う、と即座に言おうとしたレオネルだったが、声にならなかった。レオネルの姿をひと目見て、すぐさま建国王の名を呼んだ。それも、敬称もなしに。不遜で女人らしからぬ物言いもまた、気になるところである。

 親しい間柄だというのだろうか?

 ならば、あの塔の部屋は?

 建国王は、なぜ彼女を鎖に繋ぎ厳重に閉じ込めていたのだろう?

 様々な疑問と共に、自分の胸に湧き上がるこの戸惑い似た感情が何なのか、レオネルには分からなかった。


 視線を未だ細く折れそうな身体や顔に落とし、今の姿からは想像もつかない建国王を誘っていたであろう当時の姿を思い浮かべようとしてやめる。

 問いかけるような黄金の眼差しにぶつかり、レオネルは静かに口を開いた。


「……聞いてどう思うのかは、分からないが俺は、ロランド王ではない」


 動かない身体で、その言葉を受け止めようと、忙しなく瞳を動かし何かを逡巡している様子だったが、ふっと柔らかく小さな息を吐き出すと、レオネルの見ている前で、また再び気を失ってしまった。


 気を失う前のそれは安堵か、失意か。


 あの黄金の瞳が映し出すのは、自分だけならば良いのに。

 閉じてしまった目蓋に触れようと手を伸ばしていたことに気づいたレオネルは、そのことに驚き、慌てて指先を丸め掌を握りしめたのだった。









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