第18章 回顧

 車はゆっくりとカーブを曲がった。

 沙耶にとっては、数えきれない程通った見慣れた道だった。

 だがこの道も、しばらく通ることはないだろう。

 沙耶は自分の手首につながれた手錠に目を落とした。彼女を挟むようにして、二人の女性の刑事が据わっている。一人は三十代前半、もう一人は二十代前半位か。

 どちらも沙耶に話し掛ける事無く、能面の様に無表情のまま、沈黙を固持している。

 覆面パトカーを運転しているのは彼女たちの上司らしい。白髪混じりの頭髪に日焼けした顔には深い皺が刻まれている。

(自分の父親と同じ位の歳だろうか)

 泣き崩れる母の横で、深い悲しみに沈みながらも、気丈に彼女を見送る父の顔が、鮮明に脳裏に焼き付いていた。

 沙耶は自首したのだ。兄の生命維持装置を外しに病室に向かう姿が廊下に設置された監視カメラに写っているのを、彼女は知っていた。いずれ、自分に捜査の手が届くのは極めて明確な事を。家族に相談するまでもなく、自身で決断したのだった。

 今のところ、今回の一連の事件と彼女の犯した罪は、全く無関係な扱いになっている。

 美汐と美汐の両親を殺したのは、美汐に刺された男と言う事になっていた。

 その彼も、今はこの世にはいない。あの後、彼は都賀葉月が転落した崖から身を投げたのだ。

 彼の住んでいたアパートからは、都賀葉月を死に追いやった上司とその家族を殺害し、自身も命を絶つと書き残されていた。

 一連の事件は決して兄が企てたものではなかった事が、唯一の救いだった。元々殺意のあった男に便乗しただけなのだ。そう、思いたかった。実際、兄の生霊が彼に憑依して、一連の事件に加担したのだと警察に話したところで、相手にされないのは明白だった。

 でも。

 沙耶は噛みしめていた。

 自分の行いが、決して許されるものではない事を。

 自分の過ちが、兄を美汐に導き、彼女の弟を死なせてしまった。それがもとで、美汐は引っ越しを余儀なくされただけでなく、移転先で彼女の父は都賀と係わり、一方的な歪んだ愛情に苦しめられる結果となったのだ。

 そして最後に、全てを失ってしまった。

(みんな、私のせいだ)

 沙耶は車窓に目を向けた。暗雲が重く垂れ込む彼女の心情を嘲笑うかの様に雲一つ無い青空が広がっている。

 もう少し行けば、美汐の屋敷のあった小高い丘を通り過ぎる。

 あの日、火は瞬く間に広がり、人目を避けて海側の崖下に逃れた時には、屋敷は完全に火に包まれていた。テレビのニュースでも大きく取り上げられ、崖に身を投じた男が火をつけたのではとの方向で捜査は進んでいるらしかった。

 鎮火した後の映像が流れた時、沙耶はとてつもない寂寥感と虚無感に囚われ、床に座り込んだまましばらく立つ事が出来無かった。

 そこには何も残っていない、炭化した残骸だけが、唯一屋敷の存在を示していた。

 道路からはそこまでは確認出来無いだろう。だが、何もない空間だけは、はっきりと目に映るのは明白だった。

 沙耶はじっと外を見つめた。

 目を背けてやり過ごしたい思いと、現実を目の当たりにしなければならない葛藤に挟まれ、当惑しながらも、彼女の潜在意識は後者を選択していた。

(あと、もう少し)

(もう少しだ)

 沙耶は、沈痛な面持ちで車窓を見つめた。

「あっ……」

 沙耶は思わず驚きの声を漏らした。それは吐息の様に小さく、か細いものだったからか、両サイドの刑事達は少しも関心を示さなかった。

 彼女は食い入る様に車窓を見つめた。

 見えるはずの無いものを、彼女の眼は、はっきりと捉えていた。

 丘の上に、屋敷が立っていた。劫火に焼け崩れ落ちたはずの、あの家が。

(燃えていない、まさか?)

(今までの出来事は夢? リアリティーに富んだ妄想?)

 戸惑う沙耶の思考が、一つの結論を導き出した。

(現実なんだ、これは)

(現実なんだ、これが)

(今までの一連の苦悩は、みんな私の妄想なんだ)

(美汐は生きている)

(あの屋敷にいけば、きっと美汐に会える)

(会いたい)

(会いたい)

(会いたい)


「きゃああああああっ!」

 若い女性刑事の絶叫が車中に響いた。

「どうした?」

 塚原は彼女に声を掛けながら覆面パトカーを路肩に停車させた。

「係長、容疑者がっ!」

「消えたんだろ」

 上司の落ち着き払った反応に、彼女は見開いた眼を震わせながら、取り乱しているのが自分だけである事に気付いた。

「咲田ごめん、説明するの忘れてた」

 鈴村は、申し訳なさそうに手を合わせた。

「悪かったなあ、そうか、何も知らなきゃ驚くわな」

 塚原は、あっけにとられている咲田に、笑みを浮かべながら詫びた。

「え、どういう事なんですか? 」

 咲田は状況が呑み込めず、二人の顔を交互に見た。

「彼女は、もうこの世にいないんだ」

 塚原の言葉に、咲田は絶句した。

「いないって・・・そんな、まさか」

「その、まさかさ」

 塚原が目を細めながら、ぽつりと答えた。

「右手の小高い丘に、屋敷がぽつんと一軒建っているのが見えるだろう。彼女はあの家で無理心中を図ったんだ」

 塚原が雑草の生い茂る斜面を指さした。かなり急な傾斜の向こうに、洋館らしき屋根がみえる。

「昔、あそこで殺人事件があってね。この辺りじゃ知らない人はいない位、有名な縞川一家殺人事件だ。家族のうち、両親がナイフで刺殺され、長男は崖から突き落とされて転落死。犯人は屋敷に火をつけた後、被害者の一人である長女の部屋で首を吊って自殺。その犯人が、彼女さ」

 淡々と語る塚原の言葉に、咲田は大きく眼を見開いた。

「動機は、何だったんですか」

 咲田は、まだ動揺の余韻から逃れられないのか、辛うじて絞り出した声は小刻みに震えていた。

「転校することになったその長女と離れたくなかったかららしい。彼女は長女とは同級生で、一方的に好意を抱いていたらしいんだ。友情というよりも、愛情だな。それが急遽、被害者の父親の栄転で引っ越すことになってね。犯人は、別れたくない一心での凶行に走った訳だ」

 塚原は大きく吐息をついた。

「係長……変です、よね」

咲田は怪訝そうに塚原を見た。

「彼女、確か兄を殺したって」

 咲田は記憶を反芻していた。彼女が署で電話を受けた時、間違いなくこう言ったのだ。『私は兄を殺しました』と。

「ああ。実はな、彼女の兄もその日にその場所で死んでいるんだ」

 塚原は時間軸を確かめるかのように目を細めた。

「事件が起きる少し間に、彼女の兄は携帯電話で話しながら家を飛び出して行った姿を、近所の方が目撃している。事件発覚後、屋敷の崖下で死んでいるのが発見された。どうやら、被害にあった家族の長男を助けようとした末に転落したらしい」

「そう何ですか……でも、妙ですね。犯人の兄は、事故死した訳でしょう? それに何故、事件が彼女の犯行だって分かったんですか? 」

「転落死した彼女の兄の携帯電話を調べたら、彼女からの電話の後に、メールを受信している事が分かったんだ。内容は、両親と兄に宛てた遺書だった。そこには家族への謝罪と犯行動機が書かれていた。ただ、何故だか分からんのだが、彼女が電話越しに自供するのは、兄殺しだけなんだな」

 塚原は額に皺を寄せながら、白髪混じりの毛髪をがしがしと掻きまわした。

「たぶん、彼女は認めたくないのよ。自分が友人家族を殺してしまったことを」

 今まで黙って二人の会話を聞いていた鈴村が、重い口を開いた。

 塚原は感慨深げに頷くと、眼を細めた。

「友人? あ、そう言えばこの家族の長女って・・・」

 咲田が眉を顰めた。塚原の話の中に、どうしても腑に落ちない点があったのだ。

 塚原は、彼女が長女の部屋で首を吊ったと語っていたが、肝心の長女の話が一切出てこないのだ。

「長女は、あの家族の唯一の生き残りよ。犯人に首を絞められたけど、息を吹き返して逃げることが出来たの。長女はエントランスで気を失って倒れていた。その長女が、私なのよ」

 鈴村は、落ち着いた口調で静かに語った。

「えっ? 」

 咲田は目を丸くして鈴村を凝視した。

 思いも寄らぬ事実に、彼女は言葉を失った。

 事件の当事者が目の前にいるとは。

 それも、同じ署内の刑事だなんて。

 運命の引き合わせと言うものなのだろうか。

 でも、殺人事件の被害者の苗字は縞川だ。姓が違うのは何か深い意味があるのだろうか。

 咲田は鈴村の顔を見つめながら、瞬時に思考を張り巡らせた。

「私、あの事件の後、母方の祖父母に引き取られたの。父方の祖父母は他界してたから。それで母方の姓を名乗ってるの」

 まるで、咲田の疑問を見透かしているかのように、鈴村はすかさず説明した。

「その・・・消えた容疑者は、鈴村さんの事に気付いていないんですか? 」

 咲田は鈴村に尋ねた。幾ら歳を経ているとは言え、面影は残っているはずだ。分からないはずはない。

「それがね、気付いてくれないの。気付かせようとは思ったんだけど、係長はあちらの世界に連れて行かれるかもしれないから、知らない振りをしていろって」

 鈴村は寂しそうに語った。

「ちなみに、彼女を見つけたのは、私なんだ。非番だったんだけど、たまたまこの屋敷の下の道を通りかかってね。屋敷から火の手が上がっているのを見て、駆け付けたら、彼女が倒れていたんだ」

「係長が、ですか」

 咲田は愕然とした。自分の上司と先輩に、こんな因縁めいた話があったとは。

 驚きの事実が続け様に暴露されたせいか、不思議な事に咲田の感情から、消え失せた犯人への恐怖が希釈されつつあった。

「あれから毎年、事件が起きたこの日になると、彼女は必ず警察に電話を掛けて来るんだ。出頭するから、この先にある葡萄園跡の前に迎えに来てくれってね。そこは、元々彼女の御両親が営んでいた所なんだ。事件後、祖父母は心労がたたって相次いで他界し、両親はその葡萄園を手放して何処かに引っ越したらしい。彼女にとっては、思い出の詰まった自分の家の様なものなんだろう。そして必ず、ここに差し掛かったところで忽然と消えてしまう。たぶん、あの屋敷に行くんだろうな。自分の過ちを詫びに。それが、彼女なりの懺悔なんだろうね」

 塚原は車のエンジンを始動すると、後続が来ないのを確認しながらハンドルを大きく切った。

「悪いけど、これからあの屋敷の前に行く。美汐、あれは用意してある?」

「大丈夫です。トランクの中にあります」

「あれって何ですか?」

 咲田が不安げに鈴村に囁いた。

「お花と供物よ、せめてもの供養にってね。あの日以来、毎年お供えをしているのよ」

 鈴村は静かに微笑を浮かべると丘の上の屋敷を見つめた。

 車は道をそれ、屋敷へと続く坂道に入る。

 恐らく私道なのだろう。アスファルトで舗装されているものの、損傷が酷く、路面には無数の亀裂が走っており、その隙間を雑草がひしめき合う様に繁茂している。

 坂道を上り詰めた所に、屋敷はあった。

「さあ、着いた」

 塚原は屋敷の門の前で車を止めると、エンジンを切った。

 三人は車から出ると、屋敷を見つめた。

 立派な鉄製の門は錆付いて朽ち果て、広いエントランスも雑草が繁茂し、訪問者の侵入を阻んでいる。

 火災にあった屋敷は、かろうじて家の輪郭はとどめて居るものの、損傷が激しく、立ち入るのは危険なように思えた。

「これだけ雑草が生えていると、中に入るのは無理ですね」

 咲田は屋敷を眺めながら呟いた。

「でもね、夜中にこっそり肝試しに来る人がいるみたい。巷じゃ、この地域最恐の心霊スポットとか言われているしね」

 鈴村が困った表情を浮かべながら、門柱を指差した。

 見ると、スプレーで書きなぐった落書きがある。

「これを描いた奴は帰り道に事故死している。今通って来た坂道の途中から、車ごと崖下に転落してね。二十代の男性が四人乗っていたんだけど、全員即死。車から、門柱にかかれた落書きと同じ塗料のスプレー缶が見つかったんで、落書きの犯人と特定されたんだが、みんな死んじまったからな。お咎めのしようも無かった。それもあって、尚更有名になっちまったんだよな。ここを訪れると、殺された住民に呪われるってね」

 塚原は眉を顰めると、重い吐息をついた。

「それでも、来る人が後をたたないのよ。有名なSNSの発信者が入場と配信の許可を求めて来たけど、丁重にお断りしたわ。悲惨な事件のあった場所だけど、私が生まれ育った家にはかわりないもの。世間の目に晒したくないから。それでも無許可で撮影する者もいるから、困っているのよ。防犯カメラをつけようかなって考えてる」

 鈴村は表情を曇らせた。惨劇の舞台となったとは言え、彼女にとっては生家なのだ。悲しい思い出に全てを押しつぶされてはいるものの、楽しかった記憶も残っているのだろう。

「鈴村さんは、まだこの家を所有なさっているんですか? 」

 咲田がおずおずと鈴村に尋ねた。

「うん。売れないからね。あんな事件があった場所だし。他にも人が死んでいるし」

「さっき伺った交通事故死した青年達の事ですか?」

 咲田の問い掛けに、鈴村は首を横に振った。

「あの事件の後、父の部下だった若い女性が家の崖から転落死しているの。車でノーブレーキで突っ込んでね・・・その人、父の不倫相手だったのよ」

「えっ、不倫? 」

 思いも寄らぬ話の展開に、咲田は眼を見開くと傍らの鈴村を凝視した。

「彼女は当時、何者かにストーキングされていて、その事で上司の父に相談したのがきっかけだったみたい。相談を受けているうちに、次第に距離が縮まって親密になり、男女の関係になった。そもそも父の異動は、不倫関係が会社にばれたからなんだよね」 

 鈴村が忌々し気に呪詛を吐いた。

「彼女の後を追う様にして、ストーカーの男も同じ所から飛び降り自殺してるの。その時になって分かったんだけど、ストーカーしてたの、同じ会社の社員で父の部下だったのよ」

 鈴村は、能面の様な表情で、中空に視線を漂わせながら淡々と言葉を紡いだ。

 咲田は黙って鈴村の語る言葉に耳を傾けていた。

 何も言えなかった。

 言葉を綴るだけの余裕が、彼女には無かった。

 惨劇の背景に幾つもの情念が絡み合っている事実が、咲田の感情を容赦無く打ち据えていた。

「美汐」

 塚原が鈴村に声を掛ける。

 鈴村は黙って頷くと、車の後部に回り、トランクから生花の束と焼き菓子の入った袋、そしてお茶のペットボトルを持ち出した。

 彼女は門の前にそれらを並べると、振り返り、塚原に目配せをした。。

「有難う。じゃあ、拝んで帰るとするか」

 三人は門の前に立つと、手を合わせ、眼を閉じた。 

 沙耶を現世に縛り付けている悔恨の迷走が、今日で最後になる事を祈って。

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