第17章 吃驚

「やっぱり兄ちゃんだったんだ……美汐と蒼人君の話を聞いて、まさかとは思ったけど生霊になってるなんて.」

 玄関に、沙耶の姿があった。

 小刻みに震える沙耶の眼に、決壊寸前の涙が冷たい沈痛の輝きを放っていた。

 兄ちゃん……兄ちゃんって?

 沙耶が口走ったワンフレーズが、僕の思考を鷲掴みにしていた。

 僕の前頭葉が瞬時にして死活する。脳細胞の一つ一つが機能を放棄し、驚愕の情報が齎す想像を絶する現実の訪れを根底から拒絶しようとする。だがそれは究極の焦燥が苦し紛れに投下した其の場しのぎの現実逃避に過ぎなかった。

 沙耶に奴の姿が見えるのは別段驚く部類には入らない。彼女の能力からすれば当たり前のことだ。何しろ、僕とも普通に会話していたのだから。問題は、彼女が放った台詞だ。

 奴が、沙耶の兄。

 信じ難い真実が、味気ない現実を更に無機質な空間へと変換させていく。

 実感の無い空虚な現実は、僕の視界をめりはりの無い白亜の世界に変換させていた。

 まるでそれは、昔の映画の回想シーン。悲劇的な結果に終わる推理小説を映画化した時のワンシーンを彷彿させる特殊効果。

 否、それでもけっしてフェイクじゃない。全ては事実であり現実。

 それでも。

 信じられない、どうしても。

 じゃあこいつ、死んでないのか?

 沙耶の兄は、家の階段から落ちて植物人間状態になっている。それがこいつなのか。

 さっき、沙耶が生霊って言ってたけど、本当なのか。

 じゃあ、あの事件の時も?

 ひょっとしたら、本当は崖から落ちて、その衝撃で意識不明になったとか……でも、それなら、あの時に警察に見つけられたはず。例え行き絶え絶えになって漸く家に乖離着いたものの、階段から足を踏み外して落ちたとしたら。

 でも事故の場合、必ず警察が介入してくる。実際、沙耶の話では、警官が来て色々と調べていったとの事だった。家だけじゃなく、病院にまで来て、怪我の具合を確認していったらしい。だったらその際、衣類の汚れとか傷の具合を見て怪しく思うはずだ。それに、靴に付着した土を調べれば、奴がうちの屋敷内に潜んでいたことのはっきりとした裏付けになる。

 思わない事はない。そこまで警察の眼は節穴じゃない。

 ひょっとして。

 考えたくはないけれど、何かしらの事件関与を察した奴の家人が、警察に感づかれないよう、隠蔽工作を目論んだのか。

 だが、問題は、そこまでたどり着ける物証が皆無という現実だ。

 あの時、警察は何一つ見つけられなかった。唯一の遺留品だった奴の体液が付着した姉のショーツも、汚らわしく思った母が警察の到着前に焼却したのが仇となり、個人の特定に至らなかった。

 奴に容疑をかけるにも照合するにも、「もの」が無ければどうしようもない。

 第一、時間軸にも大きなずれがある。沙耶の兄が階段から転倒したのは、あの日の午前中。この家の庭先に姿を現したのは午後。普通にに考えても、物理的には不可能。それに、彼女の兄の転倒事故の際には警察が調べに来ているのだから、それこそ時間軸を確定する公的証人まで存在することになる。

 それに、何よりも、僕には沙耶がそんなやましい事をするようには思えなかったし、思いたくもなかった。

 奴は本当に階段から落ちたのだ。その結果、魂だけが離脱して欲望を叶うべく行動に出たのだ。

 つじつまを合わせるが為に強引につなぎ合わせた虚構と現実の端境期を、思考のファジイ機能が、ご都合主義的に埋め尽くしていく。

 沙耶は姉と母のそばに駆け寄ると、声を呼び掛けながら激しく身体を揺さぶった。  

 が、二人の身体は弛緩したままで、沙耶の呼び掛けに答えることは無かった。

 彼女の瞳から大粒の涙がこぼれる。

 姉は、どうなったのか。

 わからない。でも、悲しみに歪んだ表情のまま打ち震える沙耶の仕草に、最悪の結果を予期しなければならない事を僕は否応無しに悟った。

「くそう、こうなったら表にいるマスコミの連中を使うか。誰でもいいや。奴ら、スクープに飢えてんだろうからな。腹から血を流してうろうろしているあの男を見たら、なりふり構わずここに飛び込んでくるだろうよ」

 ニマニマと笑いながら、奴は僕を見た。

「残念だけど、そうはいかない」

 沙耶の凛と張った声がフロアーに響く。

「何?」

 奴の唇が憤怒に歪む。

「ここに来る途中でリポーター達が騒いでいるのを聞いたわ。美汐のお父さんが殺されたって。みんな慌てて現場に向かったよ。ひょっとして、これも兄ちゃんの仕業?」

 沙耶の眼が、獲物を追う猛禽類のそれの様に鋭い眼光を放つ。

「そ、それは、俺じゃねえよ。俺が憑依する前に、奴が勝手にやったんだ」

「見てたの? そばで」

 奴を問い詰める沙耶の声は、怒りと侮蔑で具象化し、淫霊と化した兄の所業を言霊の刃で容赦無く削ぎ落としていく。

「それは、おめえ……たまたまな」

 さっきまでの強気で傍若無人な態度とは打って変わって、奴はしどろもどろになりながら沙耶から眼を反らした。

「兄ちゃん、もうやめてっ、どうしてこの家の家族を苦しめるのっ!」

「別にそうしたくてしたんじゃねえ。こいつらの母親も俺が手を掛けたんじゃねえ。さっきの男がやったんだ。俺がやりてえのは美汐だからな」

 真面に対峙しても分が悪いと思ったのか、奴は眉毛を潜めると憮然とした面持ちで開き直った。

「どうして美汐に係わるのっ! 兄ちゃんには関係ないでしょっ!」

「関係大ありだぜ。第一、おめえがあんなことしなけりゃ、俺はこの娘に係わることはなかったんだからな」

「あんなことって……」

 優勢を誇っていた沙耶が、不意に口ごもる。

「おい坊主、あの時俺が放り投げた姉ちゃんのパンティーはな、沙耶が盗んだんだ。俺は返しに来ただけなんだぜ」

 意味が分からなかった。

 僕は真っ白になった思考に、奴の台詞を理路整然と書き綴っていた。

 沙耶は姉が中学生の頃、沙耶はよく家に遊びに来ていた。確かに行為に及ぶチャンスは沙耶の方が奴よりもあったことは確かだと思う。でも理由が分からない。

「びっくりしたぜ。沙耶の机の引き出しを開けたら、御前の姉ちゃんの写真がいっぱいはいっててよ、おまけに見た事の無いパンティーまで隠してあるし」

奴は卑猥な笑みを万面に浮かべながら、眼を細くして沙耶を見据えた。

「あれは、私の……」

「違うな、御前のやつはみんなチェック済みだぜ」

「変態!」

 奴から容赦無く暴露された性癖に、沙耶は頬を硬直させたまま口を閉ざした。

「どっちがだ! だいたい、御前さ、俺に説教出来る立場かよ。俺の未来を絶ったくせによ」

 高笑いしていた奴の顔が不意に真顔になった。

 僕は沙耶を見つめた。

 沙耶の顔に、動揺とも戸惑いともとれる不安定な頬の歪が生じる。が、一瞬きもしないうちに、彼女の表情は侮蔑に満ちた怨恨の色に塗り替えられていた。

「あの日、御前は俺を階段から突き落として殺そうとしたんだからな。おかげで俺は植物人間。望みは医学の進歩だけ。お先真っ暗だ」

 奴は腹立たしげに嘯くと、飢えた獣の様な目線を沙耶に向けた。

「兄ちゃんが悪いのよ。私を襲おうとしたんだから。それにあれは正当防衛じゃないっ!」

 激昂する沙耶の身体が、小刻みに震えていた。彼女の意識下で制御されていた感情が、一気に解き放たれ、暴走しているのだ。

 沙耶には非が無いと思う。でも彼女自身は、百パーセントそうは思っていないのだろう。罪の要因を無理矢理押し付けようとする奴に、時折見せる憂いの表情は、不本意ながらも、自分の犯した罪の呵責に、翻弄されながら今まで生きてきた彼女の深層心理に、深く根付いた懺悔の現れだと思う。

 だが、彼女の秘密を露骨にあからさまにした兄の態度に、その全てが崩落した。うかつには近寄りがたい憤怒の牙をむいた気のうねりが熱い噴流となって、沙耶の身体から放出されていた。

「御前の欲求不満を解消してやろうとしただけじゃねえか。おまえの部屋に忍び込んで、美汐のパンティーに発射したタイミングで部屋に戻って来るんだもんな。そりゃあ、襲いたくもなるわな。ひゃっひゃっひゃっひゃっ」

 沙耶の怒りと侮蔑を正面から受け止めながらも、奴は顔色一つ変えずに甲高く嘲笑を上げた。

 恐ろしく自分本位な男だった。自分の欲望の暴走を実の妹に向けただけでなく、その行為を無理矢理自己都合で正当化しようとまでしている。

 腐っている。

 沙耶の行為は道義的には許されるものではない。でも、奴がした行為は、それを遥かに凌ぐ大罪だ。きっかけは何であれ、許さらざるべきは行為に及んでもなお、その罪の深さを認め、贖罪を乞おうとしない奴の態度には、怒りだけでなく嫌悪すら感じていた。

「なんだその眼は。何も出来ねえガキのくせに。植物人間になっちまったけど、一応は兄として妹の盗品を返しに行ってやったんだぜ」

 僕の侮蔑を孕んだ視線に気付いた奴は、不満げに吐き捨てた。

 唇をギュッと噛む。

 悔しかった。悔しくて悔しくて仕方なかった。それに輪をかけて、何よりも反撃も反論も出来ない自分自身が、腹が立つ程に苛立たしかった。

 果てしなく残酷な屈辱に喘ぎながら、僕は奴が沙耶に言い放った猥雑な行為の告白を反芻していた。

 奴が沙耶を襲い掛かって反撃され、階段から落ちて植物人間になったタイミングと、姉の前に現れたタイミングが合わないのは当然だった。

 僕達の前に現れた時、奴は既に生霊だったのだ。

 だから逃げられたのだ。

 何の証拠も残さずに。

 例え姉の証言があっても、奴を捕まえるのは不可能だ。何しろ、その時の奴にはアリバイがある。しかも自由に動けない身体という決定的な理由までもが。

「沙耶、とっととこの家から離れろ。警察に捕まるぜ」

「嫌よ」

「おいおい、御前の為に言ってんのによ。下手すらあいつのやった罪を、みんなかぶせられるかもしれないぜ」

 愉快そうに目じりを緩ませる奴の表情に、本気で沙耶を守ろうとしている真意は感じられなかった。むしろ窮地に立たされている沙耶の立場を楽しんでいるかのようにも見える。

「目障りだからさっさと消えろ。俺はまだ美汐に用がある。男の身体を使わなくても本人に憑依したって楽しめるからな」

 奴は眼を波立たせながらほくそ笑むと、姉の身体に重なった。

 涙が止まらなかった。

 姉の身体が奴に汚されるのを、指を咥えて見ているしかないのだ。

 悔しさと虚しさがこれでもかと言わんばかりに僕の精神状態を翻弄する。

不意に、奴の眉間に苦悶の深い皺を寄せる。

「くそうっ! こいつ……死んでやがる」

 奴は声を震わせながら茫然とした表情で姉を凝視した。

 今頃気が付いたのか。

 自分の犯した罪の重さに。

 遅過ぎる。

 よほど動揺したのか、奴はおろおろと姉の周りを歩き始めた。

 哀れだった。哀れな程に滑稽で、不細工で、それがかえって腹立たしかった。

「あの野郎にふっとばされた時、打ちどころが悪かったのか? なんてこった、やっと好きに出来ると思ったのに」 

 悔しそうに喚き散らす奴を、僕はありったけの憎悪を込めて睨みつける。

 こいつの頭の中に、罪への懺悔は一片たりとも存在しないのか。あるのは、どす黒く淀み蠢く欲望のみなのか。

 許さない。

 許せない。

 絶対に許すものか。

 僕の中で意識が紅蓮の炎に変貌を遂げていく。

「くそうっ! ここにはもう用はねえや。帰るわ」

 奴はぶっきらぼうに吐き捨てた。

「帰るところなんてないよ」

 沙耶の眼が、冷たい旋律を紡ぐ。淡々と語った言葉の一つ一つが氷の様な冷気を孕んだ刃となって、奴の身体を容赦無く貫いた。 

「どういう意味だよ」

 奴は苛立たしげに沙耶を睨み付けた。

「兄ちゃん、もう死んでるんだから」

 沙耶は静かに、それでいて不思議な程に落ち着き払った表情で、奴にそう宣告した。

「嘘つけっ!」

 奴はむきになって沙耶に詰め寄った。

「嘘じゃないよ。多分、今頃病院は大騒ぎになっているはず」

「そんなはずはねえ」

「そんなはずあるよ。私、ここに来る前に病院寄ったの。外してきちゃった。兄ちゃんの生命維持装置」

「沙耶ああああああっ! なんてことおおおおっ!」

 奴の喉から絶叫が迸る。それは怒りと絶望に打ち震える魂の叫びだった。血走った眼球が、半開きにになった唇が、わなわなと小刻みに震える広い肩が、奴の身に起きた取り返しのつかない現実への警鐘と脅威を、生々しく物語っていた。

「肉体の不自由を失った俺が奇跡的に得た魂の自由を、おまえに奪われる筋合いはねえっ」

「あるわっ! 身内がしでかしたことだもの。私が始末を付ける」

「うるせえ! こうなったら悪霊にでも何にでもなって、やりたい放題やりまくってやるっ! いいか沙耶、これもみんなおまえのせいだからな。俺は被害者だ。ちっとも悪くねえ」

 奴は眼を三角に吊り上げると、詐欺師が苦し紛れの弁明を説くように、口を尖らせて、果てしなくご都合的な罵詈雑言を吐き捨てた。

 沙耶は白けた表情を浮かべながら、ポケットから小さく折りたたんだ和紙を取り出すと、奴目掛けて投げつけた。

 奴がめんどくさそうにそれを手で払う――瞬間、和紙の折り目が緩み、中から小さな白い粒子が四散する。

「神社で祈祷してもらった清めの塩よ」

「んなもん効く訳ねえだろっ!」

 奴は頬を緩め、見下した目線を沙耶に注ぎながら、満面に嘲笑を浮かべた。

 が、次の瞬間、奴の顔が恐怖に凍り付く。

 無数の白い手が、彼の腕を、足を、胴を、頭を鷲掴みにしていた。

「離せえっ! やめろっ! 俺はまだやりたいことがたくさんあるんだっ! 逝きたかねえっ! 逝きたかねえよおおおおおっ――――」

 慟哭の叫びが静寂を震わせる。だが残酷にもその願いを聞き入れる者は誰もいない。最も、聞き入れた所で、僕達には一切何も出来無い理ではあるけれど。

 無数の手に取り押さえられた奴の身体は、まるで徐々に消しゴムで消し込んでいくかのように空間の中に飲み込まれ、消えた。

 沙耶は大きく吐息をつくと、崩れる様に床にへたり込んだ。悲しみ色の憂いを湛えた大きな瞳が、ゆらゆらと揺らめく涙が仄かに灯す静かな輝きを浮かべながら、無言のまま僕を見つめた。

 静寂が、虚無感の支配する家の空気を、すっぽりと呑み込んでいた。

 静かだった。

 先程までの残酷な現実が、まるで現の時の狭間に垣間見た白昼夢では無かったかと思う程、落ち着き払った時の訪れを迎えていた。

「蒼人君、ごめん。美汐を、お姉ちゃんを守れなかった」

 沙耶の瞳から大粒の涙が流れ落ちる。

「守れなかったのは僕のせいだ。沙耶さんは悪くない」

 消えかけている身体を奮い立たせ、僕はゆっくりと沙耶に近寄った。

「みんな私が悪いの。兄が美汐のストーカーになったのは、私のせいだから。私があんなことしなければ――取り返しのつかないことをしちゃった」

 沙耶はうずくまったまま、両手で顔を覆った。

「沙耶は悪くないよ」

 沙耶は驚きの表情を浮かべ、顔を上げた。

 僕の傍らに、姉が立っていた。

 あの時の――中学生の姿で。

「盗んだのが、沙耶で良かった・・・私も沙耶が好きだから」

 姉は優しい微笑を浮かべながら、沙耶の唇にそっと唇を重ねた。

「美汐……」

 沙耶は震えていた。歓喜と緊張の入り混じった高揚感に身を震わせる彼女の頬は、ほんのりと紅潮していた。溢れ出る姉への追慕の思いが、沙耶の感情を支配していた。熱い情念を含んだ紅色の気となって沙耶の身体から、ゆらゆらと立ち上っている。

 フラッシュバックしていた。

 あの頃の時間に。

 沙耶の姿は変わらないものの、その表情は、昔、姉を訪ねて遊びに来た時の快活さとあどけなさが蘇っていた。

 姉はゆっくりと唇を離すと、今度は僕に微笑みかけた。

「ありがとう、蒼人。いつも私を見守っててくれて」

「お姉ちゃん、ごめん……僕、守れなかったよう」

 涙が止まらなかった。悔しくて、悲しくて、でもそんな情けない僕に「ありがとう」って言葉を掛けてくれた姉のやさしさがうれしくて、溢れ出る涙を、僕は止めることが出来なかった。

 姉はそっと僕を抱きしめてくれた。柔らかく温かい感触が、錆びついた僕の心を急激に溶解していく。

 仄かな檸檬の香りが、鼻腔を擽る。

 あの時の、姉の匂いだ。

 潮溜まりで魚を追っかけていた時の。

 意識が、次第に鮮明になって来る。同時に、消えかけていた僕自身の存在が、虚像から実像へと裏打ちされていくのを実感していた。

「沙耶、すぐにここから離れて。でないと、あなたが容疑者になってしまう」

姉は顔を上げると神妙な面持ちで沙耶を見た。

「そんな……私も美汐と一緒に――」

真っ向から姉を捉える彼女の眼が、動揺と狼狽に震えていた。姉と共に逝くことを、沙耶は心底望んでいるのだ。常軌を逸しているとは一概に否定できない背景が、彼女自身の履歴に深く刻まれているのだろう。今まで魂の奥底に只管隠し続けてきた禁忌の思いを姉が受け入れた事で、沙耶の運命への渇望が一点に集束し、その結果導き出した答えだった。。

「駄目よっ!」

 姉の顔から笑みが消え、険しい目つきで頬を強張らせた。

沙耶は悲壮感に満ちた憂いの陰りを顔に浮かべた。自分の感情に正直に従い、導き出した決断を、その思いを注ぐべき姉に否定された衝撃は、彼女にとって永遠の決別を宣告されたのも同然だった。

「沙耶は生きてっ! 私達の分も」

 姉の思いは、言霊となって、真っ直ぐ沙耶の胸を貫いた。

 それは決して拒絶出来無い、重い宿命をも孕んでいるのを、僕は感じ取っていた。姉は沙耶に託そうとしいるのだ。姉や僕が歩むことが出来なかった大人へと続く未来の人生を。ただそれには、沙耶自身が全てを公に曝け出す必要がある事を。

 沙耶にもそれが理解できたのか、唇を噛みしめながら黙って頷いた。

「沙耶、早く行って。これからリセットします。何もかも」

 姉は笑みを浮かべながら静かに沙耶に語り掛けた。

 背後で、何かが倒れる音がした。

 振り向いた僕の眼に、仏壇の蝋燭が倒れているのが映っていた。蝋燭の火は瞬時に仏壇の装飾に移ると大きな炎なって次々に大きく燃え上がっていく。

「姉ちゃん、火がっ!」

「いいのよ、これで」

 慌てて振り返る僕を、姉が平静な面持ちで窘めた。

「さ、早く逃げて」

 せかす姉を、沙耶は名残惜しそうに見つめた。

「さようなら、沙耶」

 迫り来る炎を背後に感じながら、姉は微笑みながら彼女に惜別の言葉を送った。

「美汐っ! 蒼人君! ごめんなさいっ!」

 沙耶は涙と鼻水で顔面をぐしゃぐしゃにすると、漸く僕達に背を向け、走り出した。

「沙耶の顔、崩れちゃってたね。感動のお別れのはずなのに、爆笑しそうだったよ」

 姉は笑っていた。

 笑っていたけど、姉も沙耶と同じだった。涙と鼻水でぐしゃぐしゃ。

 僕も姉の顔を見て笑った。

 姉や沙耶と同じく、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして。

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