第16章 忿怒
「どうしたの、蒼人。何を慌てているのよ」
母は不自然な程に満身の笑みを湛え、僕を見つめた。
「私もシャワーを浴びてこようかな。美汐と一緒ね」
母は淫靡な眼差しで僕を見据えた。
「させない」
僕は母の前に立ちはだかり、進路を遮った。
「どうするつもり? まさかお母さんの身体を傷つけたりはしないでしょうね?」
母は挑発的な目線で僕を見据えた。
葉月は僕の弱みに気付いたようだった。
憑依している状態では威嚇は出来るが、流石に怨気をまともにぶつけるのには抵抗があったのだ。
「美汐、お母さんも一緒にシャワー浴びてもいい? 」
躊躇する僕を嘲笑うかの様に、母が浴室の姉に声を掛けた。
同時に、玄関の呼び鈴が鳴る。
「誰か来たみたいね。またマスコミの取材かしら」
母は忌々し気に扉の施錠を解除し扉を開放した。
「あ、あなたは」
母は驚きとも安堵ともとれる表情を浮かべ、来客者を出迎えた。
「ごめん下さい。石岡です」
石岡は深々と頭を下げた。
先日の事件で、父同様に会社でも色々な対応を迫られたのだろう。憔悴しきった顔は青白く生気の失せた表情をしていた。
「奥様に、お伝えしたい事がございます」
石岡は、沈痛な面持ちで、伏せ目がちに母に言った。
母を正視しない態度には何か奥深い意味があるのだろうか。母も僕と同様に、石岡の孕む独特な雰囲気を感じ取ったらしく、無意識のうちに一歩後ずさりした。
「何でしょうか」
訝し気な面持ちで、母は石岡と対峙した。
「支店長は亡くなりました」
「えっ!」
母の表情が凍り付く。
この人、今、何て言ったのか。
父が、死んだ?
空気が瞬時にして凍てつき、空間を構成するすべての創造物から色彩を奪い去った。
これは現実なのだろうか。
悪い夢でも見ている様な感覚。
何も考えられない。
思考も、時間も、何もかもが停止していた。
「どういう事……?」
か細い声で母――葉月が呟いた。
「私が、殺したんです。会社の屋上から突き落としました。今回の事件で相談したいことがあると呼び出しましてね。落ちた場所が社屋と隣接するビルの僅かな隙間ですから、恐らくすぐには発見されないでしょう」
彼は表情一つ変えずに、非現実的な不条理を淡々と投下した。
全てが冗談の様に思えた。真顔で禍々しい言葉を綴るこの男の存在自体も。
石岡は、驚きの表情のまま硬直した母を見据えた。
「あの男は私と葉月を苦しめ続けたんです。彼女の一番の理解者だった私を疎ましく思ったのか、早々にこの地に飛ばしたのが最初でした。相談相手のいなくなった彼女が、少し愛想良く接しただけで、ストーカー呼ばわりされて、挙句の果てに部署移動ですよ。表面的には係長昇格ですが、慣れない仕事と伸し掛かる責任からくるストレスで、結局退社に追い込まれたってのに、あの男は支店長ですよ。それも、葉月の故郷であるこの街の支店のね。不公平と思いませんか?」
石岡の右手がゆっくりとスラックスのポケットに滑り込んでいく。さり気なさを装いながらも、その行為は明らかに人目を引きつける意味深い挙動だった。再びゆっくりとした動作で取り出した時、彼の右手に白銀色の光沢が宿っていた。
ナイフだ。折り畳み式の、バタフライナイフとかいうやつだ。
「奥様、申し訳ありませんが、あなたにも責任を取ってもらいます。あなたがあの男の手綱をしっかり取っていなかったから、このような悲劇が起こってしまったのですから」
石岡のナイフが、一瞬凍てついた時の狭間に冷酷な現実を刻む。
「あ、あ……」
吐息ともとれる悲鳴が、母の喉から零れ落ちる。同時に、水の爆ぜる音が母の足元で響いた。一筋の透明な滴りが、両脚の間から滝の様に零れ落ちている。
母は失禁していた。
不意に押し寄せた驚愕と恐怖の濁流に翻弄され、硬直した母の表情は、憑依した葉月のものとは思えなかった。夥しい悲しみの感情にうねる母の意識が、葉月の魂を抑え込んでいるのか。それとも、母の肉体を介して実感した死の恐怖から、葉月が意図的に逃避したのか。
石岡はそんな母の痴態には目もくれず、ただ驚異的にまで深い暗黒を湛えた両眼を中空に泳がしていた。
「葉月、もう少しで君の無念を晴らすことが出来るよ」
石岡が、口元を吊り上げ、にっと笑った。それは作り笑いなのか、自然と込み上げてきた笑みなのか。全く笑っていない両眼の奥に潜む孤高の黒い輝きが、道化を気取った表皮の下に潜む超絶なまでに自己中心的な狂気に満ちた魂の存在を物語っていた。
「なんでごどお……」
母は嗚咽を上げながら石岡を睨みつけた。
大きく吊り上がった眼は激昂に震え、歪んだ唇からぐっと食いしばった白い歯が顔を覗かせる。
「やっとあの人と一緒になれたのに、自分の命と引き換えにやっとこの家に入れたのに、御前のせいで何もかもが滅茶苦茶よっ!」
母の豹変振りに、石岡がたじろいだ。
再び葉月が母の身体を支配したのだ。
「何が私の一番の理解者だあ? 御前となんか話した事も無いってのに、勝手に妄想してんじゃねえよっ!」
母は石岡を激しく罵倒した。その剣幕に押されてか、途方に暮れる石岡の表情から急速に殺意が消滅していく。
「訳の分からない事を……」
石岡の頬が苦悩に歪む。
「訳の分からない事言ってんのは、御前の方だよっ! あんたがここに飛ばされたのは、私が人事部長に直訴したからさ。ストーカー行為されてるって訴えてね」
「ストーカー?」
「うっとおしかったのよ。私の事、いつもじいっと見てたでしょ。それに、会社から帰る時、しょっちゅう私の後を付けてたよね」
母の眼が、ぎろりと石岡を睨みつける。
「おまえ、いったい誰なんだ」
石岡の声が震えていた。最初の冷静で無感情を装った鉄面皮の容貌は、もはや痕跡すら判別不能なまでに崩壊していた。
「あんたの憧れの葉月様だよ」
母の表情が歪に歪む。
石岡の瞳孔が大きく開いた。空いたままの口から吐息とも取れる呼気がゆっくりと零れ落ち、不安定な旋律を刻む。
「葉月――さん、なのか?」
「そうよ。今はこんなババアの身体駆りてるけどね」
「本当、なのか?」
「ええ、昨日の夜もおとといの夜も、彼と寝たの。最高だった。今度は娘に憑依してあの人に迫るつもりだった。その方が奥さんから奪い取った感があるもの」
母は淫靡な笑みを口元に浮かべた。が、瞬時にしてそれは苦悶に歪み、嗚咽にとって代わった。
「それなのに、何て事をっ! これからずっと一緒に夜を過ごせるはずだったのにいいいっ!」
母が絶叫した。怒りに見開かれた瞳からは、涙が止めどもなく流れ落ちる。
母ではなかった。葉月だ。容姿は違うとは言え、表情やしぐさ、口調だけでなく、声のトーンまでもが葉月そのものだった。
「寝たって……」
石岡の顔から一瞬にして血の気が引いていく。母のその一言は、明らかに石岡に重篤なダメージを与えていた。閉じる事を忘れた唇が、力無く小刻みに震える。烈しい罵倒から急変して泣き崩れる母の姿など、彼の眼には映っていなかった。
彼は死んでいた。魂は肉体から離脱こそしていないものの、死人に等しい存在だった。
慕っていた葉月からの拒絶と彼女の真意、そしてそれを裏付ける様に、昨夜、彼女が思いを遂げた事実――しかもそれを、憧憬し崇高していた彼女から聞かされたのだ。
石岡にとって、それは死刑宣告よりも衝撃的な耐え難い現実に違いなかった。葉月を思い、慕う事こそが、彼にとって正義であり、義務だった。
恐らくそれは愛情という言葉では簡単に語り尽くせない、根深い情念の固執と頑なな意識の執着が複雑に絡み合う、石岡の生きざまそのものだった。
それを、否定されたのだ。
葉月自身に。
石岡は苦悩に顔を歪めると、号泣する母を見つめた。
彼の眼に、母の姿は映っていない。
母ではないのだ。
母の衣類を着用した葉月の姿が、そこにはあった。
「葉月……」
石岡はうなだれると、熱病に魘されている病人のような息遣いで吐息をついた。
深い深い吐息だった。まるで、身体の奥底に溜まった全ての苦悩と悲しみを絞り出そうとしているかのようだった。
底知れぬ心の苦痛に苛まれ続けた彼の魂そのものを嘔吐しているのだ。静寂の中に刻まれる低くか細いその旋律は、彼の魂の慟哭だった。
自分が恋焦がれた大切な人を不幸のどん底に陥れたのは、自分自身――認めたくない残酷な現実を突きつけられた石岡は、成す術もなく、ただ悪戯に立ち尽くすだけだった。
「石岡、死ねっ!」
母が、鬼女の様にくわっと両眼を見開いて石岡を睨みつける。
「責任取って死ねっ!」
「死ねっ!」
「死ねっ!」
「死ねっ!」
「死ねっ!」
母は狂った様に叫び続けた。
石岡は身体をびくっと震わせた。
母――葉月の呪詛は、石岡にとって絶対的な命令だった。
葉月の言動に、彼は自分が尽くしてきた慈愛の心を踏みにじられたと自覚していながらも、その裏切り行為に反目するだけの確立した意志を持ち合わせてはいないように思えた。
だが、彼の表情に、今までにない不安要素が戦慄に似た畏怖となって暗い影を落とす。
戸惑いと躊躇。
石岡の頬は緊張に硬く強張り、口元が落ち着きなく震えている。
目の前にいる上司の妻が葉月であるという、冷静に考えれば有り得ない様な異常な状況で、それを受け入れている自分と、自称「葉月」の似ても似つかぬ熟女から、死刑宣告を下されて狼狽えながらも甘んじて受けようとしている自分に、脅迫概念の支配する意識の狭間から僅かに顔を覗かせた理性が、疑問の一石を投じたのだ。
分かりやすい男だった。
冷静沈着な男を演じようとしても、すぐにメッキが剥がれるくせに、プライドだけは異様に高く、いつも他人への嫉妬心を燻ぶらせている負の権化の様な人物なのだろう。
彼の表情、しぐさ、言動が、その全てを物語っていた。
それはある意味、極端な危険性を秘めていた。
狂信的な心理状態が一気に醒めた時、白紙になった精神が向かうのはどの方向なのか。
もし、正反対の進路に舵を取ったら……。
顔面蒼白の彼の手から、ナイフが零れ落ち、床面に転がった。
無機質な金属音が不協和音を奏で、凍てついた時の狭間に全てが現実であることを諭すかのように一石を投じる。
石岡の喉が鳴る。生唾を嚥下する音が妙に生々しい。
彼の表情が変わった。青白い顔に忽然と血潮の流れが蘇る。ぎろりと見開いた眼は、赤く充血し、食い入る様に母を凝視していた。
「な、何よっ!」
母も石岡の異変に気が付いた様だ。声を震わせながら、ゆっくりと廊下を退き始める。
同時に、石岡が母に襲い掛かる。
押し倒された拍子に母のスカートがめくれ上がり、尿で濡れた白いパンティー越しに恥丘の仄かなシルエットが浮かび上がる。
「何すんのよっ!」
伸し掛かる石岡を、母は両手で押し返し、激しく抵抗を試みる。だが、暴走した本能の支配下にある彼には、余りにも無力だった。
母のブラウスは乱暴に引きちぎられ、貝の様に必死に閉じていた両脚も、強引に割り込まれた石岡の膝に割られ、その努力も虚しく防御力は目まぐるしく低下した。
どうしたらいい。
僕は、このまま傍観者でいいのか?
僕は茫然と立ち竦んだまま、目の前で起きている非現実的な現況を見つめていた。
母が男に襲われている。
本当に母なのか?
葉月だろ?
否、母だ。
でも。
実感が無いのだ。容姿は母だけど、母じゃない。否、容姿ですら、変わって見える。苦悶する葉月に。今の僕には、獣と化した男の餌食になろうとしている、罪深い淫乱な魔性の女にしか見えない。
冷ややかな目線を、僕は揉み合う二人に注いだ。
父と母を苦しめ、家族を不幸のどん底に追い込んだ、最恐の悪女が、歪んだ愛情に憑りつかれた男に犯されようとしている、ただそれだけなのだ。
石岡の右手が母の首を捉えた。
白い指が母の細い首をじわじわと絞めつけていく。
母は苦し気に舌を突き出しながら、両手で石岡の右手を引き剥がそうと爪を立てた。
石岡の表情が苦悶に歪む。が、より一層防御が緩くなった母の下半身に、彼の左手が容赦なく動く。母のスカートを捲りあげると、露わになったパンティーに手を掛け、一気に引き下げようとする。が、尿で濡れたパンティーは、太腿で捩れて容易に下がらず、最後の抵抗を試みていた。
母の虚ろな目が僕を捉える。
「やめてえっ!」
絶叫と共に、人影が視界を過る。
姉だ。バスタオルを体に巻き付けただけの格好で、廊下に仁王立ちしていた。
シャワーを浴び終えたそのままの格好で、母の異常に気付き、浴室を飛び出したのだ。
踏ん切りがつかず、傍観を決め込んでいた僕をよそに、姉は石岡の腰に背後から縋り付いた。
石岡は思わぬ伏兵に動じる事無く、無言のまま容赦なく振り払った。彼の痩身の体躯からは想像の出来無い思いもよらぬ力に、姉はなす術もなく投げ飛ばされ、壁に激しく打ち付けられると、そのまま崩れる様に床面に沈んだ。
意識を失ったのだろうか。姉は眼を閉じたまま、起き上がることは無かった。
石岡は姉には目もくれず、もどかしそうにスラックスのファスナーを下げると、いきりった獣根を解き放った。
一瞬、拘束が緩んだ隙をついて、母は部屋の襖を開け、そちらに逃れようと身をよじった。
石岡は面倒臭そうに母の両脚を引っ掴むと摺り摺りと引き戻す。
奴の両手が塞がった。
今だ。
僕は背後から石岡に飛び掛かった。
母を――葉月を救う為じゃない。
姉に手を出した事への怒りが、僕の決断を促したのだ。
無防備な奴の首筋に両手を掛けようとした刹那、何者かが僕の胸倉を掴み上げていた。
僕の行動を阻もうとする手の所在を眼で追う。刹那、戦慄が僕の思考を鷲掴みにしていた。
その手は、石岡の背中から生えていた。
「やっとこいつの願望が叶うんだ。邪魔するんじゃねえ」
聞き覚えのある不愉快な声が、至近距離から僕を威嚇した。
目の前に、奴の顔があった。それは、石岡と僕のあいだに割り込んだのじゃない。腕同様、背中から頭部が丸ごと生えている。
「どうして、御前が?」
驚愕が、僕の思考を鷲掴みにする。
「この男に憑依したのさ。こいつの異常な情念につけこんでな。俺が言うのもなんだけど、凄まじいぜ、こいつのあの女への執着は。あれだけ俺の侵入を拒んでいたこの家も、すんなり入れたからな」
奴は得意気な笑みを浮かべた。
「な、に、をっ!」
ありったけの憤怒と憎悪を込めて、奴をねめつける。
「こいつには、俺をここまで運んでくれた恩があるからよう、きっちり返してやらねえと。てことで、分かったよな、消えろっ!」
奴は僕を無造作に投げ飛ばした。母が逃れようと必死に帰路を開拓した襖の向こうへ。
この部屋は――いけない。
戦慄が瞬時に全身を凍てつかせた。
開かずの間だ。
決して開ない訳じゃない。現に今も、母が苦しみ紛れに指先だけで開けた位、軽い襖。
でも、僕にとっては禁忌の空間なのだ。
放物線を描きながら、僕は畏怖の世界へ呑み込まれていく。
仄かな線香の香りが鼻腔を擽る。程なくして、柔らかな畳の感触を全身に捉えていた。
僕は慌てて身を起こし、そして。
見た。
古びた仏壇。重厚な黒檀ときらびやかな金箔で彩られた調度品の前で揺らめく蝋燭の灯が、幽玄な時の移ろいを刻んでいる。
たなびく線香の煙に見え隠れする、小さな写真立て。幼い少年が、僕に優しく微笑みかけて来る。
僕だ。
封印していた僕の古い記憶が熱い噴流となって意識下を駆け巡る。
あの時。
僕は死んだ。
殴りつけたバドミントンのラケットを奴に掴まえられ、そのまま崖の下に落とされて。
体勢を崩した刹那、怒りに血走った眼で睨みつける奴の顔が視界を過り、不安定な浮遊感が僕の身体を包み込む。
記憶は、そこで途絶えていた。
気が付くと、僕は崖の上にいた。生い茂る稲科の雑草を、ギュッと握りしめたまま、斜面に貼り付いていた。
僕には、分かっていた。
これが、現実ではないことが。その姿は、僕が奴に落とされる直前の記憶。
それが、ただ具象化しているだけだ。
生きたいという一心で。
崖の下を覗く勇気は、僕には無かった。そこに存在する現実を目の当りにしたら、きっと僕は消滅してしまうだろう――そう、思ったから。
消滅するわけにはいかなかった。
僕は、あの男から姉を守らなければならないのだから。
姉を守れるのは、僕しかいないのだから。
でも、それはもう叶わない。
封印していた記憶を解いてしまったから。
全身に宿っていく気力が急速に萎えていくのを僕は感じていた。
旅立とうとしているのだ。
本来、行くべき世界へ。
今の僕には、姉どころか、母を助けることも出来ない。
悔しかった。
だがその悔しさが、僕の意識に楔を穿っていた。辛うじて僕をこの次元に留めるべく。
石岡は歓喜に顔を上気させながら、激しく腰を突き上げる。苦し気に身悶えしながら、くの字に反り返る母の身体から葉月が離脱しようと試みるが、その都度奴の手が葉月の霊
体を押さえつけ、母の胎内へと押し戻していた。
「逃がさねえぞっ! 」
石岡は猥雑な笑みを浮かべた。石岡じゃない。
奴だ。
能面の様な石岡の顔に、奴の顔が融合していた。
石岡の動きがさらに激しさを増し、間近に迎えるクライマックスを暗示していた。
石岡の動きが止まった
奴の指が更に母の首に食い込む。
凄まじい形相で空の一点を睨みつけたまま、母は舌先を激しく突き上げた。両腕はもはや抵抗することを放棄し、だらりと力無く下がった。
石岡は荒い呼吸を繰り返しながら、母の身体から離れた。制御を失った母の尿道口から、膀胱に残っていた尿が零れ出る。
引き抜かれた石岡の獣根は、精を放っただろうにもかかわらず、強張りを解かず、母と己の体液に濡れて赤紫色の光沢を放ち、誇らしげに天を突いていた。
「くそうっ、反吐が出るわっ! この変態野郎!」
葉月は母の身体から離脱すると、口汚く石岡を罵った。
「こうなりゃ美汐の身体を乗っ取ってやる!」
急遽矛先を姉に向けた刹那、白い手が、彼女を背後から抱きすくめる。
母だった。
「やめろっ! 放せえっ!」
葉月が激しく抵抗する。が、母はその拘束を決して解くことはなかった。
二人の身体がゆっくりと消えていく。
母が、僕を見つめていた。
ゆっくりと動く唇。
ごめんね
母の唇は、空中にそう刻むと、消えた。
母は死んだのだ。
家族には絶対に見られたくない姿をさらして。
葉月を無理矢理引き離し、冥界へと向かう寂しげな母の顔が、果てしなく切なかった。
「旨い具合に邪魔者は消えたな。今度は俺が楽しむ番だぜ」
奴は下半身を露出したまま、歓喜に身を捩りながら僕に満足げな笑みを向けた。が、その直後、訝し気に眉を潜めると、突如腹を抱えて大笑いし始めた。「
「何だ御前、あん時のガキの姿に戻っているじゃねえか」
愕然としたまま、僕は自分の身体を見つめた。
小さくなっている。手も。足も。
終止符を拒み、僕の中で動き続けていた時間が、リセットされてしまったのか。
「これから御前の姉ちゃんを喰ってやるからな。大人しくそこで見とけ」
奴は口元を吊り上げると、嘲笑を浮かべた。
不意に、視界を過る人影。
姉だ。
意識を取り戻したのだ。
姉の身体が、石岡の姿を僕から遮る様に交差する。
「何しやがるっ!」
怒号と共に、石岡は姉を突き飛ばすと、呼気を荒げながら忌々し気に睨みつけた。
石岡の脇腹を、異形が貫いていた。ナイフだ。彼が母を脅し、殺害する為に用意した獲物が、皮肉にも彼自身の肉体に深々と刺さっていた。
石岡は顔をしかめながら、深々と脇腹に沈むナイフを引き抜いた。と同時に、大量の血液が傷口から溢れ出る。
「葉月……待ってろ……今、僕もそちらに行くから……」
石岡は呻くように呟くと、ナイフを床面に投げ捨てた。
先程まで誇らしく反り返っていた獣根は瞬時にして萎え果て、茂みの中に身を隠していた。
石岡はスラックスのファスナーを上げると、脇腹を抑えながら玄関へと向かった。
「追いこら、何処に行く! まだやれるだろっ!」
石岡の腹から奴が顔を出し、激しく彼を罵った。だが彼は奴の言葉に耳を傾ける事無く、玄関の扉を開けた。
「くそう、もう少しだったのによう。この恩知らずがっ! 誰のお陰でやれたと思ってんだ!」
奴は慌てて石岡の身体から離脱すると、よろよろとした足取りで外に向かう彼の背中に口汚い罵声を浴びせ続けた。
玄関の扉が、重い音を立てて閉まる。
「畜生、何てことしてくれたんだよう!」
奴は血走った両眼をかっと見開くと床に横たわったまま身じろぎもしない姉を食い入るように見据えた。
不意に、玄関の扉が開いた。
「お、戻って来たか」
奴は嬉しそうに振り向き――刹那。
その表情は驚愕に変わった。
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