第15章 叛旗

 翌朝、食卓は沈黙に沈んでいた。

 メディアが葉月の実家の火災を大々的に取り上げていたのだ。おまけに、日々鎮静化しつつあった彼女の事故の件も、同時に再びクローズアップされ始めていた。

 ニュースを見た父と母は、沈痛な面持ちで亡くなった葉月の両親への同情の言葉を口にしていた。

 葉月の両親は、灯油をリビングに撒いて火をつけた後、彼女の棺の前で首を吊って無くなっていたらしい。

 当の葉月は、今、母から離れている。

 両親の寝室に籠ったまま出てこないのだ。朝のニュースで自分の家が燃えている映像を繰り返し流されるのが辛いのだろう。このままだと、多分今日は暫く母から離れたままのはずだ。

 昨夜の母の――葉月の乱れ方は尋常ではなかった。

 まるで、両親の死から現実逃避するかのように、情欲の沼に身を委ね続けていた。

 ベッドの軋む音と喘ぎ声が夜通し続き、僕はたまらず暑いのを我慢して部屋のドアを閉めるしかなかった。姉は部屋にエアコンが付いているのでドアを閉めても快適に眠れるのだが、両親の行為は、夜中にトイレに起きれば否応なしに耳に入るので、避けようにも避けられない。おまけに、葉月はわざわざ部屋のドアを開けたまま行為に及ぶのだ。

 うだるような暑さに苛まれ、僕は結局一睡も出来ないまま朝を迎えた。

 姉はエアコンをつけっぱなしで夜を過ごしていたのだが、どうしても両親の行為が気になって、眠れなかったのだろう。夜中まで、もぞもぞ動いている気配があった。

 姉が漸く眠りについたのは、恐らく、両親の行為が終焉を迎えた深夜二時頃だと思う。

 朝になり、朝食の準備を終えた母が何回か起こしに行ったのだが、当然返事は無く、起きる気配はなかった。

 でも、一番きつかったのは父の方だろう。

 寝不足と疲労で目が充血し、涙袋の下にはうっすらとクマまで出来ている。

 父は珈琲を飲みながら、パソコンのデスクトップに表示された防犯カメラの映像に目を走らせる。

「やっぱりな。報道関係の車が来ているぞ」

 父は眉を顰めた。

 見ると、正門を映している画像に、ワンボックスカーが三台と数人の人影がたむろしているのが分かる。

 父は珈琲を一気に飲み干すと、苛立たしくカップをテーブルに置いた。

「少し早く出て、連中の相手をしてくる。君は仕事を休んだ方がいい」

 父が母に声を掛ける。

「ありがとう。でも大丈夫、私は行くわ。行かないと、私のいない処で色々言われても嫌だから」

 父の配慮を気遣いながらも、母毅然とした態度で答えた。

「じゃあ、俺が奴らを引き付けておくから、その隙に行ってくれ」

「分かった。そうする」

 母は父の申し出に頷くと、大急ぎで朝食の後片付けに取り掛かった。

 身支度を整えた父が先に家を出ると、にわかに外が騒がしくなった。

 報道陣の取材を受けているのだ。

 しばらくして、母も家を出る。

 リビングの窓から外を覗くと、母の車が門の出て行くのが見える。

 父の作戦が成功したらしい。

 僕はリビングを離れると、さり気なく両親の寝室に意識を向けた。

 いる。

 吐き気を催す程の瘴気を放ちながら、寝室でじっと息を潜めている。

 多分、しばらくの間はこのまま部屋から出ては来ないだろう。

 恐らく、今晩も繰り返される淫猥な肉宴に備えて、力を温存しているに違いない。

 不意に、家のの電話が鳴った。家の電話は親機がダイニングにあり、子機がリビングと二階の廊下に置いてある。

 僕は今の立ち位置から一番近いリビングに向かい、子機を取った。

「縞川さんのお宅ですか? 」

 聞き覚えの無い若い男の声が受話器から聞こえた。

 僕がそうだと告げると、相手の男はほっとしたような安堵の声を上げた」

「いや、すみません。お忙しいところ申し訳ないのですが、私、ルポライターの宇古陀と申します。実は、先日の事故の件で少々お伺いしたい事がありまして・・・」

「ごめんなさい。今、両親がいないので、よく分からないです」

 慌てて適当に誤魔化すと、僕は受話器を戻した。

 どうやら、週刊誌の取材の様だ。家の前での待ち受け取材では飽き足らず、とうとう家の電話にまで掛けて来るとは。

 でも、どうやって電話番号を調べたのだろう。防犯の為に、どこにも公開していないはずなのに。

 その後、別のルポライターや雑誌の編集者から、入れ代わり立ち代わり取材交渉の電話が入るものの、僕は全て断った。

 十時を過ぎた頃、漸く電話の応酬は落ち着きをみせた。

 冷静に考えれば留守電設定にしておけばよかったのだけれど、気付いた時には終息を迎え、今度は全く掛かってこなくなった。

 ひょっとしたら、両親の職場にも電話が殺到しているのかもしれない。

 元ストーカーの女が、警察車両を振り切り被害者宅の崖から車ごと転落して死亡し、その両親も後を追う様にして自ら命を絶った――週刊誌やワイドショー番組の注目を集めるのも分かる気がする。

 僕は大きく息を吐いた。

 不思議だ。

 全然疲れていない。

 それどころか、いつになく気分がハイになっている。

 マスコミ対応で心労困憊な状態であるにもかかわらず、僕に意識は何故が激しく高揚し、ガンギマリ状態に陥っていた。

 慣れない電話対応といった過度のストレスに危機感を感じた潜在意識が、脳内で怪しげな薬効成分を調合し、分泌を促したのか。

 それとも面倒な取材依頼をことごとく断り続け、さばききった妙な達成感がそうさせるのか。

 そうだ。そろそろ姉を起こさないと。

 また今日も沙耶が来てくれるはずだ。

 二階へ上がり、姉の部屋へ向かう。

 姉の部屋の前に立ち、ノックをしようとした刹那、いきなりドアが開いた。

 姉が、寝ぼけ眼を擦りながら、ふらふらした足取りで部屋から出て来る。

「姉ちゃん、おはよう」

 僕は妖しい顔つきの姉に、そっと声を掛ける。

「トイレが遠いれすう・・・」

 姉は意味不明の台詞を呟きながら、危なっかしい足取りで廊下を歩いて行く。

 僕は呆気にとられながら姉を見つめた。

 ただ寝ぼけた仕草に呆れたんじゃない。

 問題は、姉の格好だ。

 確か、昨夜二階に行った時には履いていたはずのハーフパンツを身に着けておらず、Tシャツだけの姿で現れたのだ。Tシャツの丈が長めなので、さながら短めのワンピースって感じなのだが、太腿が付け根寸前まで露になっている。

 少し屈めば、今はかろうじて隠れている神の領域もご披露しかねない。

 寝苦しかったのだろうか。

 エアコン、つけっぱなしで寝たんじゃなかったのか?

 泥酔状態に似たか寄ったかの足取りで階段を下りる姉を、僕はただ茫然と見送った。

 不意に、姉の部屋から携帯が鳴る。

 慌てて部屋に飛び込み、ベッドの上に転がった姉の携帯を手に取る。

 誰からだろう・・・あっ、沙耶からだ。

「もしもし」

「あれっ! 蒼人君? 美汐は? 」

 沙耶が驚きの声を上げる。

「姉ちゃんはさっきトイレにいきました。今の今まで寝てまして」

「通りで・・・さっき電話掛けたんだけど出なかった訳だ」

 沙耶は合点がいったように呟く。

 姉はきっとその電話で目を覚まし、トイレに行ったのだ。電話を掛け直さなかったところを見ると、姉は多分、電話の呼び出し音を目覚まし時計と勘違いしたように思える。

「蒼人君、ニュース見た? あの女の親、自宅に火をつけて自殺したって」

 沙耶は声を潜めた。

「はい、見ました。驚きです」

 応対する僕も、自然と声を潜めてしまう。

「マスコミの人、来なかった? 」

「来ました。門の前で何人か両親が家を出るのを待ち伏せていました。電話取材もうざい位来ましたし。全部断り撒いたけど」

「そりゃ大変だったね。私の方は電話取材は無かったな。家には突されたけど。まだ表にはいるの? 」

「ちょっと待ってください・・・いますね」

 僕は窓から外を眺めた。人数は減ったものの、まだ人影が見え隠れしている。

「そっかあ、強行突破しかないか・・・やんないけど」

 沙耶が困惑しながら呟く。

「沙耶さん、今日も来ていただけるんですか? 」

「うん、行くよ。でも、これからちょっと寄る所があるんで、そっちの用事を済ませたらだけど」

「よかった。お祓いの相談が姉からあると思うんで」

「え、ひょっとして、お父さんを説得したの? 」

 沙耶の声が上ずる。

 僕は沙耶に昨夜の父との一連のやり取りを説明した。

 母の入浴中に姉が父を説得した事。

 それでも態度を変えなかった父が、僕の一言で憑き物が落ちたかのように、態度が一転した事。

 沙耶は受話器越しに頷きながら、僕の説明を聞き入った。

「やったね、二人とも凄いよ」

 沙耶の声が弾む。

「父の気が変わらないうちにやらないと。母の言いなりなんで」

 父はもはや、と言うか、元々そうだったのだが、更に輪をかけて母の支配下にある危機感を沙耶に伝える。

 母と言うよりは、葉月の言いなりが正しい。

「分かった。なるべく早く行くから。美汐には、あのお守り、ずっと持ってるように言っておいてね。蒼人君がそばにいれば大抵の事は大丈夫だけど、いつも一緒にって訳にはいかないからね」

「分かりました。姉によく言っておきます」

「それじゃ、また後でね」

「ありがとうございます」

 僕は携帯を切るとベッドの上に置いた。

 そしてそのまま腰を降ろす。

 ベッドの足元にはハーフパンツが脱ぎ捨てられ、タオルケットに至っては完全に床に落ちていた。

 ハーフパンツのポケットから、白い紐のようなものが覗いている。

 何だろう。

 僕は姉の抜け殻に手を伸ばした。

 ハーフパンツは汗で湿り気を帯びてるものの、結構前に脱ぎ捨てられたらしく、姉の温もりは少しも感じられなかった。

 ポケットに手を突っ込む。

 柔らかな感触。

 まさか。

 慌てて取り出す。

 紫色の布で出来た小袋。

 お守りだった。

 まずい。

 姉は今、ノーガードだ。

 おまけに、トイレに行ったにしては戻って来るのが遅過ぎる。

 僕はハーフパンツごとお守りを握りしめると、姉の部屋を飛び出した。

 廊下を突っ走り階段を駆け下りる。と、トイレの前で、姉が座り込んでいるのが見えた。

「姉ちゃん! 大丈夫?」

 僕は姉に駆け寄ると、慌てて声を掛けた。

「大丈夫じゃないよ・・・やっちゃった」

 姉は放心状態だった。

 姉の言葉を理解するまでに、僕は数秒もかからなかった。

 稲藁と漢方薬が入り混じった様な刺激のある匂いが、姉の身体から立ち込めている。

 虚ろな眼を中空に泳がせる姉の腰の周りには、大きな水たまりが出来ていた。

 姉は大きく吐息をつくと、体をぶるっと震わせた。

 空気が抜けるような音ともに、姉の臀部を中心に広がる水域が、更に支配を広げて行く。

 姉は開き直ったのか、膀胱に残っていた残渣を全て絞り出したらしい。

「蒼人、悪いけど、ちょっとお願いがあるの」 

 姉が、頬を紅潮させながら俯いた。

「わかった。タオルか何か拭くもの持って来る」

「そうじゃない、の・・・」

 姉は熱病にうなされているかのような切ない声を絞り出した。

「脱がして・・・欲しいの」

 姉はゆっくりと両膝を立てると、両サイドに大きく開いた。

 Tシャツの裾が捲れ上がり、太腿とその奥の聖域を覆う白いパンティーが露になる。

 太腿は漏らした尿で妖しく輝き、パンティーはクロッチの部分から臀部に掛けて黄色く濡れそぼっていた。

「蒼人・・・お姉ちゃんとしたいんでしょ? 」

 姉が顔を上気させながら、上目遣いで僕を見た。

 ごくりと生唾を呑み込む。

 失態の痕跡を僕に曝け出し、恥辱に苛まれる事が快楽になっているのか、虚ろに開かれた眼には淫靡な輝きが宿り、半開きの唇は艶やかに白く光っている。

「何言ってるの、姉ちゃん」

 僕は戸惑いながら姉を凝視した。

「誤魔化しても駄目。お姉ちゃんには分かるんだから」

 姉は妖艶な笑みを浮かべると、舐めるような目線を僕に注いだ。

 瞳の奥に、妖しげな情念の炎が揺らめいている。

 僕は気付いた。

 姉じゃない。

 こいつ、葉月だ。

「すぐに姉ちゃんから出ろ」

 僕はじっと姉を見据えた。

「え、何? どういう事、それ」

 姉はわざとらしく

 僕は声を荒げて姉――葉月に命じた。全身から夥しい怨気が迸り、姉を包囲する。

「やっぱ、ばればれかあ」

 姉は甲高い声でけらけらと笑った。

「蒼人君、取引しようよ」

 姉は上目遣いに僕を見ると、口元に淫猥な笑みを浮かべた。

「断る」

 僕は即答で姉の交渉を撥ね退けた。

「話を聞く前に断るなんて、それは無いと思わない? 」

 姉が不服そうに口を歪めた。

「じゃあ言ってみろよ。どうせ、姉ちゃんに憑りつかせてくれる代わりに僕と寝てやるって話だろ?」

「当たってはいるけど、ちょっと違うのよねえ」

 姉がふんと鼻で笑った。

「ずっとじゃなくても、昼間だけでもいいからお姉ちゃんに憑りつかせてよ。勿論、蒼人君とは寝てあげるし」

「憑りついて、何をするつもりなんだ」

「何って、色々よ」

 姉は口元を微妙に緩ませ、妖艶な笑みを浮かべると、腰を前に突き出した。

「お姉さん、昨日の夜、何してたか知ってる? 」

「何って? 」

「私がお父さんと楽しんでいる声を聴きながら、こんな事してたんだよ。わざと自分の部屋のドアを少し開けてね」

 姉は尿で濡れたパンティーの上から、生地が貼り付いて浮き出た淫谷を人差し指でゆっくり擦り上げた。

 言葉が出ない。

 本当なのか?

 愕然としたまま、僕は姉の行為に釘付けになっていた。

「いい加減な事言うな・・・」

 僕は凍り付いた唇を無理矢理剝がしながら、拒絶の言霊を綴る。

「嘘じゃないわ・・・本当よ。だから、ハーフパンツ履いてないのよ」

 姉は頬を紅潮させながら、荒い息遣いで答える。

「私は、お姉ちゃんの事も、お父さんと同じ位、好きなの。だから、私もお姉ちゃんが欲しい」

 姉の眼が中空を漂う。中指の動きが更に激しさを増し、パンティーの生地が淫谷に食い込んでいく。

 姉の行為が激しさを増すとともに、鼻を突くアンモニア臭が周囲に漂い始めた。

 僕は姉をじっと見つめた。

 目が離せなかった。

 姉が両親の――葉月と父の情事に聞き耳を立てながら、自分自身を愛撫している姿を、否応無しに想像してしまっていた。

 いけない。

 このままじゃ、葉月の呪詛にはまってしまう。

 葉月がここまで姉に執着する理由は何故なのか。

 予想はつく。

 でも。

 もし、僕の想像通りだとしたら。

 考えるだけでも悍ましい。

 指の動きが更に激しくなると共に、姉の呼吸が一段と荒くなる。

 姉が、歓喜の声を上げ、体をびくびくと震わせる。

 姉の顔に、淫靡な笑みが浮かぶ。

「満足したか。もういいだろ。離れろよ」

 僕は淡々と姉に話し掛けた。

 もうこれ以上、葉月の好きにさせる訳には行かない。

「嫌よ」

 姉の表情が、醜く歪む。

「今すぐ離れろ」

 僕の中で怨気が一気に膨れ上がる。

「もうあんなばばあの身体になんか入りたくないんだよっ! 若い身体なら、あの人ももっと喜んでくれるに決まってるっ! 」

 葉月は激高し、口汚く罵ると唇を一文字に結んだ。瞳孔が大きく開き、白目部分までもが黒一色に染まっていく。

「やっぱりそれが狙いか」

 僕は姉を睨みつけた。

 予想通りの答えだった。

 最終目的は、姉じゃない。父なのだ。

 それも、よりによって姉の身体を使って自分の欲望を満たそうとしているのだ。

 許せない。

 絶対に許せない。

 怨気を容赦無く姉にぶつける。

「この体は返さない。もう私のものだから。葡萄園の子、今日も来るんでしょ。来たら結界を解くように言って追い返す。もう二度と来るなってね」

 姉は、僕が放った圧を真っ向から受け止めると、目を吊り上げ、鬼女の様な形相で僕を睨みつけた。

 葉月が昼間だけでも姉に憑依したがったのは、沙耶と直接接触し、関係を強引に立ち切るためだったのだ。

 冷たく、重い空気が、葉月を中心に渦巻き、廊下を占める空間の密度が急激に凝縮していく。

 ぴしっ

 ぴしっ

 屋鳴りが不規則な音を刻む。

 葉月の感情の波動に、空間が共鳴しているのか。それとも禍々しい異物的存在に、家そのものが排除の警告を発しているのか。

「蒼人君、まさかお姉さんに手を上げるつもり? あなたが力を使えば、お姉さん、ただじゃ済まないわよ」

 葉月は狡猾な笑みを浮かべると、僕を見下すように見据えた。

「とりあえず、これ返す」

 僕は姉の顔目掛け、握りしめていたハーフパンツを投げつけた。

「くああっ! 」

 姉が身悶えしながら悲鳴を上げた。

 姉の身体から半透明の人形が離脱していく。

 葉月だ。

 葉月は姉から完全に離脱すると、苦し気に表情を歪めながら僕に憎悪の視線を注いだ。

 姉の身体が、糸の切れたマリオネットの様に力無く床に崩れる。

 期待通りの展開だった。

 姉の顔に投げつけたハーフのポケットには、沙耶から貰った御守りを忍ばせてあったのだ。

 勝利を確証した葉月の心の隙を突いた作戦だった。

 僕は一気に間合いを詰め、姉の横をすり抜けると、逃げようとする葉月の首を鷲掴みにした。そしてそのまま、勢いよく床面に叩きつける。

 葉月の姿が、視界から消える。

 何処へ行った?

「ひえっ! 」

 背後で姉の悲鳴が響く。

 しまった。また憑依されてしまったか。

 僕は姉に掛け寄った。

 姉は、ハーフパンツを右手で握りしめ、呆然としたまま目線を中空に漂わせている。

「何故? どうして・・・」

 姉の唇が、熱病にうなされる患者の譫言の様に言葉を紡いでいく。

「やらかしちゃった。どうしよう・・・」

 姉はじっと自分の周囲に出来た水溜まりを見つめた。

 どうやら正気に戻ったらしい。と言う事は、さっきまでの痴態は記憶に残っていないのかもしれない。

 むしろ、その方がいい。

 それにしても、姉のハーフパンツに仕込んだ御守りの効果は抜群だった。

 御守りの存在を嫌い、葉月は姉への再突入を諦めたのか周囲から気配を消していた。

 姉は何を思ったのか、ハーフパンツを床の濡れていない部分に置くと、徐に着ていたTシャツを足元に脱ぎ捨てた。

 白いブラジャーが恥ずかしげも無く露になる。

 姉はしゃがみ込むとTシャツで床に広がる尿を拭き取り始めた。

 姉が動く度に、突き出した尻を覆うパンティーから雫が床に落ちる。

 多分、Tシャツだけじゃ無理だろう。雑巾かタオルも持ってこないと。

 僕は浴室の脱衣所にタオルを取りに向かおうと――刹那。

 不意に、玄関の施錠を解く金属音が響く。

 姉はぎょっとした表情で玄関を見た。

 まずい。

 姉は驚愕に固まったまま動かない。

 僕は姉の失態を隠そうと、慌てて前に立ちはだかった。

 玄関の扉が開く。

「ただいま――美汐! 何やってるの!? 」 

 母は呆気にとられたまま、下着姿で床掃除をしている姉を見つめた。

「ちょっと・・・やっちゃった」

 姉が気まずそうに俯く。

「その恰好じゃ、誰か来たらまずいでしょ。先にシャワーを浴びて着替えて来なさい」

 母は姉の黄色っぽく濡れた白いパンティーを見て全てを察したらしい。困った様な表情で苦笑いすると、姉に優しく声を掛けた。

「ごめんなさい。そうする。でも母さん、何故こんな時間に帰ってきたの? 」

 姉は不思議そうに母に尋ねた。まるで自分の失態を見透かして帰って来たかのようなタイミングの良さに、姉は驚きを隠し切れないだけでなく、得体の知れない不気味さを感じ取っている様にも見受けられた。

「仏壇の蝋燭の火を消し忘れたかと思って。美汐に電話しても繋がらないし、心配だったから早退して来たのよ」

「ごめん。寝てた」

 姉は顔を顰めると、ばつの悪そうな表情を浮かべた。

「やっぱりね。さあ、シャワー浴びてらっしゃい。今日も沙耶ちゃん来てくれるんでしょ? 」

「あ、そうだった。ごめんなさい。続きは後でやるから」

 姉は汚れたTシャツとハーフパンツを手に取ると、慌ててバスルームに向かった。

 母は姉の後姿を見送ると、大きく吐息をついた。バッグを玄関に置くと、腰を降ろし、靴を脱ぐ。

 同時に、床から黒い影が立ち上り、母の身体の中に消えた。

 しまった。

 葉月だ。

 また母に憑依したのだ。


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