第14章 蕭蕭

「ただいま」

 母が仕事から帰って来た。

「お帰りなさい」

 僕と姉は部屋から出ると、玄関に向かった。特に申し合わせたわけではないのだが、考えは一緒の様だ。

 葉月が憑依しないように、母を守る。

 姉は手に沙耶から貰った御守りを握りしめており、いざと言う時にはこれで応戦するつもりなのだろう。

 僕は首根っこ引っ掴んでそのまま外に引っ張り出すつもりだ。

「あら、今日はお出迎え? 珍しいわねえ」

 母が微笑みながらエコバックを姉に渡す。帰宅途中にスーパーで買い物をして来た様だ。

「後で料理手伝ってね」

「うん、分かった」

 姉は頷きながら母の背後をじっと見ている。

 姉ちゃん、大丈夫だ。まだ葉月は憑依していない。

「ご飯の支度の前に、珈琲飲みたいな」

「じゃあ、入れるね。私も飲みたいし」

 和気藹々とした仲良し母娘の日常――一見、そう見えるかもしれないが、笑顔の裏に潜む姉の警戒心と緊張が半端ない。

 姉は珈琲を入れるとカップを母の前に置き、自分もテーブルに着いた。

「事件の事、色々聞かれた? 」

 姉が母の眼を見つめながら訪ねる。

「まあ、ね。聞いてこない方が不自然だし。図書館のスタッフはみんな昔からの知り合いだし、気心知れた中だから、聞かれる前に私の方から話したよ。お父さんは大変だと思うよ。亡くなったあの人とは、色々あったしね。お父さんは被害者だけに余計辛いと思う」

 母は静かな口調でしみじみ語った。昨日の取り乱した姿が、まるで嘘の様な落ち着きようだった。

 心の深層に溜まっていた不満を吐き出した事で、気持ちの整理が出来たのだろうか。

 今の母は、間違いなく本物だ。葉月は未だ憑依していない。

「沙耶ちゃん、来てくれたの? 」

「うん。昼過ぎには帰ったけどね。仕事があるからって」

 姉は珈琲カップに口を寄せた。

 沙耶が昼過ぎに帰ったのは本当だが、仕事があったからじゃない。彼女が懇意にしている神社の宮司さんに、お祓いの相談をしに行ってくれたのだ。

「そうだ、今日、会社の人が来たよ」

 姉が徐に言葉を紡いだ。

「会社の人? 」

 母が訝し気に首を傾げる。

「ほら、防犯カメラを取り付けた時に、手伝いに来てくれた人」

「ああ、石岡さんね。またどうして? 」

「あの人の事故現場に、花を供えさせてくれって。お父さんには

話をしておいたって言ってた」

「そうなの・・・。優しい人なのね」

 母が俯きながらしみじみと答えた。

 母と姉は暫く会話をしながらティ―タイムを楽しむと、揃ってキッチンに立った。これから夕食の支度にとりかかるのだ。

 僕が見る限り、まだ母に葉月は取り付いていない。

 と言う事は、あいつはまだ、両親の寝室にいるのだろうか。

 昨日の出来事を払拭するかのように、二人は楽しそうに会話をしながら夕食の準備を始めた。

 僕はダイニングを離れ、両親の寝室に向かった。

 おかしい。

 空気が軽い。

 昼間はドアの前に立つだけで、恨めし気に呪詛を吐く葉月の情念が否応なしに感じられたのに、今は妙に鎮静化している。

 ドアノブに手を掛ける。

 開いた。

 鍵がかかっていない。

 僕は息を殺しながら、両親の寝室に忍び込んだ。

 葉月の気配がしない。

 何処へ行った?

 ひょっとして、僕と沙耶の布陣におののいて退散したか。

 僕は父のベッドに歩み寄った。

 葉月が置いて行った『もの』が、まだあるかもしれない。

『道』がつけられた以上、『もの』をどけても状況は変わらない様な事を、沙耶は言っていた。

 でもそれは、葉月が家に潜り込んでいる状態での事だ。 

 もし、彼女が今、『もの』を忍ばせて造った『道』を通じて、家の外に出ているとしたら。

『もの』を処分してしまえば、彼女は家に入ってこれなくなるのではないか。 

 僕は父のベッドの傍らでしゃがみ込むと、マットとフレームの間に手を突っ込んだ。

 寝具から醸す独特の匂いに顔を顰める。

 汗と体の臭いが入り混じった汚物の様な臭気に、濃厚で甘酸っぱい獣的な匂いが絡み合っている。

 昨夜、父と母はこのベッドで快楽を貪り合ったのだ。

 ドアを開けたままで。それも、僕と姉に見せつける様にしてだ。

 姉が目撃したのは偶然だったとしても、明らかに気付かせるようにしている。

 えげつなさを通り過ぎて、色情狂の一面すら垣間見える行為だった。

 そんな行為の舞台を手で探りを入れるのは、戸惑いもあったものの、チャンスは今しかないという切羽詰まった思いが、不快を無理矢理無我の境地に押しやっていた。

 だが、いくら探しても『もの』は見つからなかった。

 おかしい。

 隠し場所を変えたのか?

「蒼人、何探してるの? 」

 突然の母の声に、僕は慌てて振り返った。

 ドアを前に、いつの間にか母の姿があった。

 母は口元に冷笑を浮かべながら、僕をじっと見ている。

 母じゃない。

 母の躯に巣食った葉月だ。

「いつの間に・・・」

 僕は、かっと眼を見開き、母を見据えた。

「あなたの探し物は、これでしょ? 」

 母は徐にスカートの裾を掴むと、思いっきりめくり上げた。

 ややたるみを帯びた白い太腿の奥に、小さな赤紫色のパンティーが食い込み、秘部を覆い隠している。

 それが母のものではないのは、一目瞭然だった。

 干されている洗濯物を見る限りでは、母の下着は姉同様白系が多く、ましては今はいている様な派手なものは見た事が無い。

 初めで目にするデザインだ。

 そうなれば、答えは一つ。

 履いてやがった。

 道理で、見つからないはずだ。

 でも何故?

 葉月が抜けている時の母だったら、こんな派手な下着何か自分のものじゃないと思うはず。ましてや、あいつは履いていた物を脱いで仕込んだのだ。汚れとかあるだろうし、普通なら気味悪がって履かないだろう。

 それよりも、こんな物があるのか不思議に思うに違いない。それも、明らかに使用済みのものだ。

 まず真っ先に父の所業を疑い、憤怒の怒号を容赦無く浴びせるだろう。浮気か、それともアダルトなお店で手に入れて来たのかと。

「御免なさいね、憑りついていなくても、あなたの母さんは、もう私の思うままなのよ。残念だけど」

 母は嘲笑を浮かべた。

 また僕の思考を見透かしやがった。

「そんな怖い顔しないでよ。お父さんも喜んでいるからいいんじゃない? とりあえずお母さんの身体、借りておくからね」

 母はそう言うと、踵を返してキッチンに戻って行った。

 僕は奥歯を噛みしめると、無言のまま、立ち去る母の背中を見つめた。

 後味の悪い話だ。

 葉月は暗喩に僕に交渉を持ちかけて来たのだ。

 母の躯を貸してくれれば、後は何もしない。

 つまり、姉に手を出さないと言う事か。

 でもそうなれば、母を犠牲にしなければならないのだ。

 どちらにせよ、都合が良過ぎる。

 理不尽極まりない不平等条約だ。

 とりあえずは、静観するしかないか。

 力関係で言えば、僕の方に分がある。

 そう自分に言い聞かせると、僕は仕方なくダイニングに戻った。

 暫くして、父が帰宅した。

 いつもより早いのは、昨日の事故の一件で、流石の父も心底疲弊したからなのだろう。それを裏付けるかのように、ダイニングに姿を見せた父の顔は、頬がこけ、げっそりとやつれていた。

 事件について、会社でも相当対応に追われたのだろう。今日一日で、十歳以上は老けたかもしれない。

 そんな暗い雰囲気とは対照的に、何故か夕食は豪華絢爛だった。

 サーモンと蛸のカルパッチョにブイヤベース、そしてローストビーフ・・・母が今までに作った事の無い料理が、テーブルに所狭しと並んでいた。

「凄い御馳走だな」

 テーブル一杯に並ぶ料理に、父が目を丸くする。

「ちょっと気分を切り替えないとね」

 母――葉月が満足げに微笑む。 

 恐らく、彼女の得意料理なのだろう。

 昨日とはうって変わって明るく和らいだ食卓に、父も母も嬉しそうに食事と会話を楽しんでいた。

 母と言うより葉月が、だ。

 姉は二人にうまく合わせてはいたが、母への違和感を敏感に感じ取っているらしく、緊張に凍てつく表情を無理矢理笑顔に塗り替えているのが分かる。

 食事が終わると、姉は食器を洗いにキッチンに立った。

 母がお風呂の準備をしに浴室に向かう。その足で二階へ行ったみたいだけど、、姉の部屋ではなく、サンルームに洗濯物を取りに行ったようだ。

 まあ、結界が崩されない限り、葉月には姉の部屋には入れない。

 あいつにはそこまで力が無いから、その心配は無い。

 父はテレビをつけると、ニュース番組をセレクトした。

 昨夜の雰囲気とは大違いだ。

 昨夜は、重く沈んだ空気が、家族の意識から嗜好に逃避する猶予を剥奪していた。

 誰一人とテレビをつけようとはせず、珈琲で寛ぎのひと時を過ごそうともせず、ただ沈痛な調べを刻む静寂だけが、時の移ろいを蹂躙し、跋扈していたのだ。

 姉は洗い物をしながら、時折振り返り、父の様子を伺った。

 だが父は、そんな姉の素振りには少しも気付かず、ニュースに目線を走らせている。

「美汐、お風呂が沸いたから先に入りなさい」

 洗濯物を抱えた母がキッチンの姉に声を掛ける。

「分かった。今行く。丁度洗い終わったし」

 姉はタオルで手を拭きながら、二階に着替えを取りに向かった。

「今日、石岡君が家に寄ったらしいな」

 父が、母に話し掛ける。

「ええ。美汐から聞いたわ。事故現場に花を供えにいらしたみたい」

 母が表情を曇らせた。

「都賀の御両親から、葬儀の参列は控えて欲しいと会社に連絡がはいったんだ。ご迷惑を掛けた上に、これ以上気を遣って頂くのは忍びないからと、ご丁寧に申し入れられたんだ。どうやら、家族だけで送るらしい」

「家族だけで? 」

「ああ。と言っても、彼女は一人っ子らしいし、祖父母も他界されているから、御両親だけで送るのだろうな」

「そうなんですか・・・」

母が沈痛な面持ちで呟いた。

「まあそれで、石岡から、せめて事故現場に花を添えさせて欲しいと申し出があったんだ」

「御両親も辛いでしょうね」

「まあ、そうだな」

 項垂れる母に、父が苦悶の表情で頷いた。

「ビール、今日は飲まないの? 」

 急に思い出したかのように、母が父に声を掛けた。

「お風呂に入ってからって思ったけど、今飲みたい気分だな」

「じゃあ、私も少し」

 母は冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、食器棚からグラスを二つ手に取った。

「リビングでゆっくり飲みましょ」

「そうだな」

 父は母の提案に頷くと、テレビを消し、リビングに移動した。

 父がソファーに腰を降ろすと、母もその隣に座った。

 母はグラスにビールを注ぐと、必要以上に父に摺り寄った。

 ここでもいちゃつくつもりなのか。

 もうすぐ姉が風呂から上がって来ると言うのに。

 いたたまれなくなった僕は、渋々二階の自分の部屋に戻った。

 部屋に一歩踏み入れる。

 妙な胸騒ぎがする。

 何者かに見られている様な

 感じるのは、畏怖でも憎悪でもない。

 嫉妬と苛立ちと焦燥だ。

「おい」

 窓の外から不機嫌そうな男の声がする。

 奴だ。

 窓から目を尖らせて僕を見据えている。

 この忙しい時に、面倒臭い奴が来やがった。

 僕は吐息をつくと、仕方なくバルコニーに出た。

「何しに来た。帰れ」

 腕組みをしながら僕を睨みつける奴に、ありったけの憎悪をぶつける。

「えらく強気じゃねえか」

 奴は口元を吊り上げた。

 僕はそれには答えず、無言のまま奴を睨みつける。

「家ん中に、妙な女が入り込んでるだろ? なあ、あの女、どうやって家に忍び込んだ? 」

「知らないな。こっちが聞きたいくらいだよ」

 僕はそう嘯いた。

 本当は知っている。だが、そんな事、奴に言えるはずがない。

 まあ、教えたところで、奴には真似なんか出来ないだろうけど。

「あの女、ただもんじゃねえ。情念の塊のようなやつだ」

 奴は嫌悪に顔を歪めた。

 その表情、妙に引っ掛かる。

 ひょっとして、葉月の方が奴より強いのか?

「なあ坊主、俺と組まねえか? 」

 奴が、取って付けたような猫なで声で僕に話し掛ける。

「組むって? 何を」

 わざととぼけた振りをして、奴の出方を窺う。

「一緒にあの女を追い出すのさ。共同戦線を組もうって話だ。その代わり、俺を家に招待しろ」

「断るよ」

「そんな事言っていいのか? あの女、この家を乗っ取るつもりだぜ」

「そうはさせない」

「馬鹿か。お前一人で何が出来る? 」

 奴は口角を吊り上げて嘲笑を浮かべると、蔑むような目で俺を見据えた。

 僕は答えない。

 黙ったまま、奴に近付く。

 心の底から曝け出した嫌悪と憎悪が渦巻く、ありったけの怨気を孕んで。

「ぐはっ! 」

 奴は繰し気な呼気を吐いた。

 さっきまで薄ら笑いを浮かべていた表情が硬く凍てつき、僕を蔑み嘲笑っていた奴の眼は、驚愕と戦慄に震えている。

 奴がその気になれば、いくらでも僕に拳を打ち込める距離まで間合いを詰める。

 だが、奴は手を出してこない。

 出せないのだ。

 僕は、奴を金縛りに貶めていた。

 目に見えない無数の「手」が、奴を不動の状態に抑え込んでいるのだ。

「お前、どうしちまった・・・」

 奴は蝋石の様に麻痺した舌を突き出しながら、苦悶に顔を歪めた。

「目覚めたんだよ。厄介な連中が現れてくれた御陰でな」

 僕は意識を解放した。

 膨れ上がる怨気が一気に奴に向けて迸る。

 奴は直立したまま、バルコニーの手摺迄一気にスライドした。

 奴の身体が手摺を乗り越え、地面へと転落する。

 同時に、忌まわしい気配は消えた。

 奴に勝った。

 今まで圧倒的な力の格差を見せつけられていた奴を退けたのだ。

 それも、手を全く触れずに、全身から迸る怨気だけで。

 歓喜に体が震える。

 何故だろう。急速に力が増幅している。

 沙耶に教えられて、自分の力に気付いてのが、きっかけの様な気がする。

 自覚する事で、潜在意識に制御されていた力が覚醒したのか。

 更には、僕を取り巻く環境の変化が刺激となって、守るべき責務と難易度が上がった現実に呼応しているのだろうか。

 高揚する意識を堪能しながら、僕は部屋に戻った。

 階下に戻ると、姉が風呂から上がったところだった。

 アイボリーのTシャツに、同色のハーフパンツ。濡れて艶やかな髪にドライヤーを掛けている。

 その横を、着替えを抱えた母が通り過ぎる、一瞬、俺と目を合わせるが、よそよそしい態度でそそくさと僕の前から姿を消した。

 怪しい行動だった。

 何かを企んでいるのか。それとも、さっきバルコニーで僕が奴を撃退した時に、何かを感じ取ったのか。

 さり気なく目線を逸らした仕草が、どうも気になる。

 リビングを覗くと、父はテレビを見ながらグラスに継いだビールを口に運んでいた。ダイニングの倍はある大型の画面では、お馴染みのキャスターが連日の暑さを恨めし気に語っていた。

「お父さん、ちょっと話があるんだけど」

 姉が髪の毛を拭き取っていたタオルを肩に掛けたまま、父の座るソファーの正面に腰を降ろした。

「ん、どうした? 」

 いきなり娘に話し掛けられた父は、戸惑い気味に目を泳がせる。

「この家、お祓いしない? 」

 姉が神妙な面持ちで父に語り掛ける。

「何だよ、急に」

 父は眉を顰め、口に運びかけたグラスをテーブルに戻した。

「だって、あの人、お父さんのストーカーだったんでしょ? 絶対今この家にいるよ」

「美汐の気のせいだよ。考え過ぎだって」

 父は苦笑を浮かべた。。

「本当だって! 私、何となく感じるんだよ」

 姉は必死の形相で父に訴えかけた。

 だが、父は薄ら笑いを浮かべるだけで、姉の話をまともに聞こうとする姿勢ではなかった。

「あの人、何でわざわざここに来たか分かる? 逃げ道なんて無いのに。最初から、この家で死ぬつもりだったのよ。どうしても、お父さんのそばにいたかったから」

「馬鹿な事を言うなっ! 」

 父が声を荒げた。いつも感情をあらわにしない父にしては、珍しい態度だった。

 多分、葉月が死に場所をこの屋敷に選んだ理由は姉の言った通りだと思う。

 恐らく父も、そう悟っているはずだ。

 父が取り乱したのも、姉の言った事が見事に的を得ていたからなのだろう。

「美汐、お祓いがどうとかって、ひょっとしてあの葡萄園の子に言われたんじゃないのか? 」

 父が、うって変わって優しい口調で姉に語り始めた。

「別に、そんな・・・何故、そんな事を聞くの? 」

 父の意味深な言い回しに、姉は何か悟ったのか、咄嗟に沙耶を庇う言葉を紡ぐ。

「お母さんから聞いたんだけど、あの子、変な宗教をやってるかもしれないって。美汐も感化されて変な置物何かを部屋に置いているんじゃないかって心配してたぞ。余り付き合わない方がいいかもな」

 父が滾々と姉に語った。

「そんなのないし、そんな訳ないでしょ! どうしてお母さんの言う事を信じるの?  お父さん、分からないの? 昨日からお母さん、ちょっと変じゃない? お母さん、あの人に憑りつかれているのよっ! 」

「いい加減にしないかっ! 」 

 父が右手を開き、大きく振りかぶると、姉の頬に平手打ちを――刹那。

 僕は父の手首を握り、それを静止した。

 姉は父の急変に驚き、一瞬身を竦めた。が、すぐにソファーから立ち上がると、足早に二階へ掛けて行った。

 父は振り下ろせなかった腕を、驚愕の表情で見つめていた。

「いい加減にするのは父さんの方だよ。姉ちゃんは間違っていない」

 僕は父の耳元で囁くと、抑え込んでいた手首を離した。

 自由を取り戻した右手が、力無く父の膝の上に落ちた。

 父の顔から血の気が引いていた。

 つい感情的になったとは言え、姉を殴ろうとしていたのだ。

 父は吐息をついた。父の顔に、苦悶の表情が浮かぶ。

 自分が姉に言った事、自分が姉にしようとした事が、正しい行為だったのか。

 そう、自問自答しているように見えた。

 父はソファーから立ち上がると、二階へと向かった。

 きっと姉の部屋に向かうつもりだ。

 謝罪にいくつもりなのか、それとも母に言われた事を確かめに行くのか。

 父は二階に上がると、姉の部屋のドアをノックした。

「美汐、ここを開けてくれないか。ごめん。悪かった。父さん、ちょっと言い過ぎた」

 父がドアの前で姉に謝罪の言葉を告げた。

 すると、ロックが開錠されるを音が響き、ドアが開いた。

 ドアの向こうでは、姉が憮然とした表情で父を見据えたていた。

「美汐、すまなかった」

 父が、申し訳なさそうに頭を下げる。

「どうぞ、部屋見てってよっ! 変な置物とかある? 」

 姉が激しい剣幕で父を怒鳴りつけた。

 父は戸口か部屋を見渡すと、眉間に皺を寄せながら黙って首を横に振った。

 盛り塩はドアを開ければ見えないし、窓側はカーテンに隠れて分からない。

「もういいよね? 私、寝るから」

 姉は勢いよくドアを閉めた。

 施錠する無機質な金属音が、父と姉の関係に生じた大きな隔たりを物語っていた。

 父は姉の部屋のドアを見つめた。そして、意を決したかの様に唇を開く。

「お祓いの話は、考えておくよ」

 ドアが開く。

 姉が、驚いた表情で父を見つめた。

「お父さん、さっき蒼人に叱られたんだ。姉ちゃんは間違っていないって」

 父は姉をじっと見つめながら、躊躇いがちに言葉を綴った。

 姉は、大きく目を見開いたまま、父の言葉を受け止めていた。

「お休み」

 父はとぼとぼとした足取りで階下に戻った。

 その後ろ姿を見送りながら、僕は自分の部屋に戻った。

 ベッドに身を委ねる。

 と、戸口に姉の姿があった。

「蒼人、ありがとう」

 姉は笑みを浮かべながら僕に話し掛けると、自室へ戻って行った。

 姉は泣いていた。

 あれは悲しみの涙じゃない。うれし泣きだ。

 僕への感謝の現われなのだと思う。

 何となく、照れくさい感じがした。

 それにしても、リビングでの父の態度が気になる。あの口振りからすると、母が根も葉もない事を父に吹き込んだのは明白だった。

 母を――葉月を牽制しておく必要がある。

 僕は部屋を出ると階段を下り、リビングに向かった。

 リビングでは、父がソファーに座り、飲みかけのビールをちびちび口に含みながらテレビのニュースに見入っていた。

「美汐と喧嘩でもしたの? 声が聞こえてたけど」

 風呂から上がった母が、リビングに姿を見せた。淡いピンクのパジャマを身に着けているが、寝室に入れば床面に脱ぎ捨てられるのだろう。

「まあ、ちょっとな。ああ、あの子の部屋を覗いたけど、変なものは無かったよ」

 父が母にぼそぼそと告げた。

 さっき姉に会いに行ったのは、謝る口実で部屋の中を確認する為だったのか?

 父はもう、母の虜囚に成り下がっているのか。元々母には頭が上がらない感じだったが、今になって特に色濃くなっているような気がする。

 でも。

 お祓いの事を母に告げなかったから、まだそこまでコントロールされている訳ではないのだろう。

 母じゃない、葉月にだ。

「風呂に入って来る」

 父は疲れ切った表情を浮かべながら、リビングを離れた。

 母は冷蔵庫からもう一本ビールを持ち出すと、グラスには注がず、そのまま美味そうに飲み干した。

 今までの母なら考えられない。

 母はそんなにお酒が強くなく、また、好きでもないらしくて、勧められない限りは家でもほとんど飲まない。

 葉月が憑依した事で、嗜好や体質に変化が生じたのだろうか。

 ソファーに身を沈め、満足げな表情の母の背後に立つ。

「おい、父に何を吹き込んだ? 」

 僕は母を問い詰めた。

「何をって? 嘘はいってないわよ。私にとって厄介なものを持ち込む美汐のお友達の事を言っただけよ」

 母は悪びれも無く、さらりと言ってのけた。

「さっさと母から、この家から出て行けっ! 」

 僕は母に怨気を放った。

「わ、私が出て行ったら、外をうろついている変態が入って来るわよ。あいつ、美汐を狙っているんでしょ? 今は私の力にびびって奴は手出しが出来無いみたいだけど」

「お前の力じゃない。僕の力だ。奴はさっきも来たけど、僕が追い返した」

 母は振り向くと、驚愕の形相で僕を見た。

 僕の身体から、夥しい怨気が迸り、母を打ち据えた。

 母はソファーから転げ落ちると、そのままずりずりと後ずさりした。

「分かった、分かったからやめて! もう変な事お父さんには言わないから。もう少しだけ、君のお母さんの中に居させてよ。私、今が一番幸せなんだから」

 母は両手で顔を覆うと、その場で泣き崩れた。

「姉には手を出すな」

 僕はそう母に告げると、リビングを出ようと踵を返した。

 刹那。

「速報です。住宅街で火災が発生し、住民とみられる男女二人が遺体で発見されました」

 テレビの女性キャスターが沈痛な面持ちで言葉を綴った。

 母の表情が強張る。眼窩からから零れ落ちそうな位に見開かれた両眼が、テレビの画面に映し出された火災現場を食い入る様に見つめている。

「私の家だ・・・」

 母が、力無く呟いた。

 キャスターは、火元はリビングで、二人の遺体は首を吊った状態で見つかった事、遺書が火災を免れた車の中から見つかった事から、警察は自殺と断定した事を告げた。遺書には、最愛の娘が事故死し、関係者に迷惑湖掛けたことへのお詫びの文章が綴られていたという。

「御両親は、あんたのやったことを苦にして死を選んだみたいだぞっ! こんな所にいつまでもいないで、せめて今からでも御両親の元に帰れっ! 」

 僕は母を罵倒した。その場で号泣する母を想像した僕の眼に、思いも寄らぬ光景が映っていた。 

 母は笑っていた。目を吊り上げ、口角を引きつらせながら、狂気に近い笑声を上げていた。

「お前、自分の親が死んだのに何がうれしい? 自分のせいで死んだんだぞっ! 」

 僕の怒りは頂点に達していた。母の態度は、悲しみの余りに常軌を逸したのではなく、心から愉快に笑っているように見えたのだ。

「いいのよ。あいつらは死んでも同然なのよ。自分達の見栄だけの為に、私の人生を無茶苦茶にしたんだから」

 母は、無表情だった。さっきまでの憑りつかれたかのような笑顔が、まるで嘘のように掻き消されていた。

「あいつらはね、私が何でも一番じゃなきゃ気が済まなかったの。小さい頃から塾に通わされ、私立の小学校を受験して合格してからずっと地獄だった。中学、高校も超進学校。そこでも一番を取らないと両親から攻められ、それからもずっと塾と予備校通い。大学もT大以外は認めてくれず、それも現役合格しか許してくれないのよ。私も他の子達みたいに、ファミレスで食事しながら騒いだり、カラオケを楽しんだりしたかった。大学に行っても、トップ崇拝の両親の態度は変わらなかった。まだ、親元を離れて生活できたから、ストレスはだいぶ減ったけど。今度はここに来て縁談の話を持って来てさ。全員が弁護士とか、医者とか、政財界の息子とか、私の気持ち何か関係無し。全部、断ってやったよ」

 母――葉月は、淡々と、心の奥底の闇を止めども無く暴露し嘔吐した。

 エリートと呼ばれ、才女として一目置かれていた彼女であったが、その華やかな人生の裏面には苦悩に満ちた壮絶な過去が潜んでいたのだ。

「帰るとこ、無くなっちゃった」

 母は、寂しそうにテレビの画面を見つめていた。ニュースは他の内容に代わり、

焼け落ちた住居の画像は画面から消えているものの、母の眼には先程の燃え盛る実家の映像が繰り返し映っている様に思えた。

 彼女への怒りは消えていた。

 さっき、ぽつりと呟いた一言。帰る家を失った悲しみに憂うる言葉が、彼女の心の奥底に眠っていた真の思いなのだろう。

 葉月は心の奥に隠していたパンドラの箱を開け放ったのだ。

 両親への長年の恨みが、漆黒の呪詛となって彼女の心に溜め込まれ、封印されてい悍ましい呪詛を吐き出した結果、かろうじて残っていた人間性が、最後に彼女を正気にさせたのかもしれない。

 僕は我に返った。

 この感情は、まずい。

 慌ててリビングを後にする。

 いけないと思った。

 いつの間にか、僕は葉月の身の上に同情していたのだ。

 知らず知らずのうちに、僕は彼女のペースに引き込まれていた。

 あれ以上彼女のそばに居たら、僕は葉月に無条件で母の躯を差し出してしまうかもしれなかった。

 でも、一線は引かなきゃならない。

 それとこれとは別だ。

 僕は、自分自身にそう強く言い聞かせた。

 

 

 




 

 

 

 


 
















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