第13章 僥倖
翌日、朝食の時間になっても姉は姿を見せなかった。
父と母は、昨夜の遍歴を少しも醸す事無く、まるで何事も無かったかの様に淡々と朝食をとっていた。
窓から差し込む光がやけに白い。二重サッシを通して差し込む陽光の光が、冷ややかな波長を刻みながら物静かに拡散し、部屋を沈黙の海に染めていた。
会話が一つもない、殺伐とした朝だった。おまけに、母がいつも真っ先につけるはずのテレビも、今日は静かに無言を保っている。テレビをつけながら朝の支度をするのが、家族の定番というか、暗黙のルーティンだったのに、今日は誰一人とそのイレギュラーに口出しする者はいなかった。
理由は、何となく分かる。昨日の事件が、メディアに取り上げられているのを見るに耐えられないからだ。安息空間を理不尽な事件で世間に晒され、土足で踏みにじられるのを不快に思うが故に、母がとった自己防衛なのだろう。
でもそれは、母だったらの話だ。母に憑依した葉月が、今も身体の主導権を握っているとしたら、その行為の理由は他にもある。
自分の死を認めたくない。
死に直面した際の恐怖と苦痛を思い出したくない。
それに、その行為に至った理由の深堀をこぞって競うマスコミ達は、葉月にとって不本意な記事を挙げないとも言えないのだ。母の身体に宿って満ち足りた日常を送ろうとしている葉月にとって、過去の行為は、負の連鎖が生んだ不幸への誘いの軌跡でしかない。それを目の当たりにするという事は、本来求めていた幸福な生活が叶わなかった事実を、思い知らされるのに等しいのだ。本人にとっては、それこそ辛辣で苦痛極まりない仕打ちだろう。
水面下で複雑に入り乱れた味気ない現実。
不条理に満ちた非日常が、あたかも何事もなかったかのように、ありふれた朝を演じようとしている。
そんな現実味の無い朝だけに、父も母も何処かぎこちなく、個々の存在そのものがぎくしゃくしていた。
それ故にだろうか。
不可解で不自然な展開が、妙に際立って目に付く。
父も母も、一向に起きて来ない姉を気付かう素振りなど少しも見せずに、ただ自分達の支度を黙々とこなしているのだ。
それだけじゃない。
両親は、どうやら出勤するらしい。
こんな非常事態なのに、普通、仕事なんか行く気になれるものなのだろうか。父も母も、まるでそれが当然のことであるように、無言のまま準備を進めている。普通なら、こんな時、ほとぼりが醒めるまで、外出をひかえるものじゃないのか。そりゃあ、今回の件については、特に父は会社に詳しく説明しなきゃならないだろうし、父ほどじゃないにせよ母も同様の対処が迫られるのは分かる。
でもそれは、わざわざ出向く必要はないと思う。電話だって十分に説明出来るはずだ。
リビングの窓から外を伺うと、玄関の壊れた門の前には複数のカメラマンとリポーターの姿が見える。両親は家を出たところで確実に報道関係者たちの取材攻めに合うのは間違いない。此れだけマスコミが騒いでいれば、沙耶もしばらくは来れないだろう。たぶん、沙耶自身もテレビや週刊誌のレポーターの格好の餌食となっているに違いない。
結局、両親は、姉に一言も声を掛けずに家を出た。
両親が玄関を出てしばらくすると、急に門の辺りがざわざわと騒がしくなった。案の定、二人はマスコミの取材攻勢に合っているのだ。
車の排気音と共に、再び静寂が訪れる。
二人とも何とか出発したようだ。
まるで、この家から逃げ出すかのように。
耐えきれない不本意な現実の顎を前に、姉と僕を人身御供にして。
ふと、僕は気付いた。
母イコール葉月のいない今なら、沙耶と連絡をとるまたとないチャンスなのだ。電話番号は分からないものの、姉のスマホを使えば、何とかなる。
はやる気持ちを抑えながら、僕は、二階へ駆け上がった。
「何慌ててんの?」
驚きの色を万面に貼り付かせたまま、僕は立ち竦んでいた。
姉の部屋の前に、都賀がいた。ピンクのワンピースは、事故当時に身に着けていた物なのか。腕を組み、何となく猥雑な笑みを口元に浮かべている。。
「どうして、ここに?」
乾いた唇を無理矢理引き剝がしながら、僕は辛うじて声を上げた。少しでも平静を保とうとするものの、震える声が動揺を隠しきれてない。
「驚いた? 仕事に行ったのは、あなたの『本当のお母さん』。そう仕向けたのは私だけどね」
「ここで何を? 」
「お姉さんが心配で見に来たのよ。でも残念だけど部屋には入れない」
「えっ? 」
「あなたのお姉さんの友達が妙な結界を仕掛けたらしいの。ね、蒼人君、あなたがそれを外しくれないかなあ」
猫撫で声で話しかけて来る葉月に、僕は嫌悪に顔を歪めた。
僕は気付かなかったが、沙耶が何かやってくれたらしい。
「お断りします。そんなことより、家から出てってくれ。今すぐ」
「そんな事言わないでよ。何なら、お姉さんに憑りついてあなたと寝てあげてもいいよ」
葉月の口元に妖艶な笑みが浮かぶ。
僕は言葉を失った。
葉月の眼の奥に、どろどろした黒い情念が蠢いている。
僕を試しているのか。
それとも、僕が押さえつけてる潜在意識下の本能を見透かしているのか。
「姉ちゃんに手を出すな」
ありったけの憤怒を、言霊として解き放つ。
僕の中で何かが弾けた。。
同時に、葉月の身体がボールの様に吹き飛び、床に激しく打ち据える。
「何よ……」
葉月は床に身を横たえ、驚愕を顔にべっとりと貼り付かせたまま、青ざめた表情で僕を凝視した。ワンピースの裾が捲れ上がり、淡いブルーのパンティーが露になっているものの、それを隠そうともしない。
戸惑っているのは、むしろ僕の方だ。
いったい何が起きたのか。
手は出していない。
僕はただ、葉月の下賤な取引の誘いに激高し、魂の奥底から拒絶の意志を叩きつけただけなのだ。
全身からふつふつと込み上げて来る、ありったけの憤怒の呪詛を込めた言霊だった。
それは、自分自身の心の奥底で、ちろちろとくすぶり続けている禁忌の情念を吹き消す思いも込められていた。
葉月に隙を見せてはならない。
その思いが、自分自身の情念を、そして葉月をも吹き飛ばす力を生んだのか。
僕はゆっくりと葉月に近付いた。
「ひっ・・・」
葉月の顔が、恐怖に歪む。
優劣の立場が、完全に逆転した瞬間だった。
「この家から出て行け」
僕は憤怒の呪詛を葉月に叩きつけた。
僕を取り巻く空気が、急速に凝縮する。
葉月の身体が床から大きく跳ね上がると、勢いよく天井に打ち付け、階段へと落下した。
彼女の身体が、そのまま階段を勢いよく転がり落ちて行く。
僕は彼女を追った。
上手くいけば、このまま外へ追い出せるかもしれない。
「何でなのよっ! 何なのよ、いったい! 」
葉月は激しく動揺していた。
彼女は怨言を吐きながら廊下を四つん這いで這いずると、一目散に両親の寝室に飛び込んだ。
僕が部屋に駆け寄った矢先に、ドアが勢いよく閉まる。
ドアの取っ手に手を掛ける。
開かない。中から鍵を掛けた様だ。
余り良くはないものの、取り合えずは封じ込めた形になる。
僕がいる限り、葉月は姉に手出しはしないだろう。
せめて大人しくしていろ。
僕はドアの向こうに潜む葉月の気配を憎悪で射貫くと、両親の寝室を離れた。
階段をゆっくりと上がる。
僕が部屋から離れたのを知ると、葉月が隙を突いて反撃に出るかもしれない。
そう思い、背後を警戒しながら二階に向かったものの、葉月が両親の寝室から出る気配はなかった。
僕の思いも寄らぬ反撃が、相当応えたのだろう。
何しろ、僕自身も驚いたくらいだから。
込み上げてくる高揚感をぐっと噛み殺す。
油断すれば、葉月ならすかさず隙を突いて来るだろう。
極力平静を保ちながら、僕は姉の部屋に向かった。
ドアノブに手を掛ける。
意外にも鍵は掛かっておらず、すんなりとドアが開いた。
鍵を掛けた所で、肉体を持たない葉月には意味が無い。沙耶が施してくれたらしい結界こそが効果覿面なのだ。
ドアを閉め、大きく息を吸い込む。
部屋は、姉のやさしい柔らかな匂いで満たされていた。
沙耶が施した結界はすぐに気がついた。盛り塩だ。ドアの両脇にセットしてある。部屋の外側じゃなく、内側に並べたのは、都賀葉月に気取られない為なのか。盛り塩はドアだけでなく、窓辺にもセットされていた。あのストーカー野郎対策なのだろう。当然、それらを解除するつもりはさらさらない。
姉は、ベッドの上に横たわり、静かに寝息を立てていた。白いTシャツとグレイのハーフパンツが、緩やかな丸味を帯びたボディラインを描いている。
姉は熟睡していた。だがその表情は決して安堵ではなく、疲労困憊の果ての衰弱そのものだった。
姉が昨晩、ほとんど寝ていないのは僕も知っている。すすり泣く声とため息、そして不確定な周期で繰り返される寝返りが明け方まで続いていたのを、実際に耳にしている、。
今は、そっと寝かしておこう。
寝ている間だけは、現実の苦しみから逃れられる。
安心して体を休めて欲しい。
沙耶の結界と僕の力で、姉を守る。
僕は実感した。
自分の力で、姉を守っている事を。
そして、今までも守り続けてきた事を。
決して独り善がりの思い込みなんかじゃない。
僕には、姉を守れる力がある。
高まる興奮を抑えながら、部屋をじっと見渡す。
朝だというのに、締め切られたピンクの遮光カーテンは太陽の光を容赦なく遮断し、薄暗い空間と安穏とした静寂を齎している。時を超え、あたかも薄暗い逢魔ヶ時を召喚してたかのような感じの部屋だが、決して悍ましい気で満たされている訳じゃない。
むしろ、澄み渡っている様に感じられる。
不意に姉のスマホから着信音が流れた。姉が眠る枕のすぐそばに合ったそれを手に取り、相手を確かめる。
沙耶だ。
「もしもし……」
「あ、蒼人君?」
「はい」
間違いなく沙耶だった。途端に不思議な安堵感が全身を包み込んでいく。
「ひょっとして、大変な事になってる?」
「え? 分かるんですか?」
驚きの余り、大声を上げそうになるのを慌てて呑み込む。
「あの女の気配を感じた。今は大人しいみたいだけど」
「当たってます」
「でもどうやって家に入れたんだろ。蒼人君の力が強いから、そう簡単には入れないはずなのに」
不思議がる沙耶に、僕は一連のいきさつを隠さず説明した。
「信じられない……」
沙耶は大きく吐息をついた。それは驚愕というより、呆れた感じだった。
「盛り塩、有難うございます。あれの御陰で、葉月は姉の部屋に入れなくて悔しがってます」
「そう。よかった! 元々は変態の霊対策だったんだけど、部屋のドアにも仕掛けておいて正解だったな」
「あの塩って、何か特別なやつなんですか? 」
「うん。私がよく参拝している神社でお祓いしてもらった霊験あらたかな粗塩なの。これで結界を張ったら、その中には邪悪な存在は絶対に入れないから」
沙耶が力強く語る。
「沙耶さん、流石に今日は来れないですよね? 」
沙耶に是非来て欲しいと懇願したいのもやまやまだったが、彼女もマスコミの取材攻勢に合う可能性もあり、ついつい遠回しの表現になってしまう。
「あ、今、玄関の前だよ」
「まじですかっ! 今開けます」
沙耶の予想外の返事に小躍りすると、僕は部屋を飛び出し、転がる様に階段を駆け降りた。
玄関の施錠を解き、ドアを開けると、沙耶が笑顔で立っていた。
今日の彼女は、白地に風景のイラストが入ったTシャツとデニムのミニスカート姿。そのシンプルさがいっそう彼女の魅力を引き立てている。
「おはよっ! 結界効果あったみたいね」
沙耶がうれしそうに言った。
「ばっちりです。有難う御座います。沙耶さん、門の所でリポーターに掴まりませんでした? 」
「今はいなかったよ。来る途中、坂で何台かの車と擦れ違ったけど」
「沙耶さん家もマスコミの連中来ました? 」
「こっちは、ちょこっとだけだよ。何とか交わしたけど、面倒臭いよねえ。あいつらには清めの塩は効かないしね」
沙耶がげんなりした表情でぼやく。まあ、そりゃあそうだろう。
「あ、ここじゃなんだから上がって下さい」
僕はそう沙耶に促した。
「美汐は二階? 」
「はい。自分の部屋にいます。まだ、寝てるんです」
「そっか・・・そうだ、あの女、まだいるよね? 」
「はい、今は両親の寝室に。僕が怖いのか、あれから出てこないです」
僕は沙耶を案内しながら、彼女に次殺気起きた出来事を話した。
「凄いよ、蒼人君。びっくりだね」
沙耶が感心した眼差しを僕に向けた。
「僕もびっくりです。まさか、あんな力が僕に宿っていたなんて」
僕は、はにかみながら沙耶に答えた。
「蒼人君、あなたなら大丈夫。まだまだ強くなれるから。まだ、眠ってる力がいっぱいあるから。自分を信じて。そして美汐を絶対守って! あの女、次は美汐の身体を狙って来るよ。お母さんよりも若い身体ね」
沙耶は不意に表情を強張らせると、僕にそう忠告した。
葉月は姉の身体を狙っている――それでここに入ろうとしてたのか。
姉の身体に憑依して、葉月がやろうとしている事は……それ以上の想像は、僕はあえて控えた。例え思考の中の仮想としても、その場面を具体化するのは言葉にするのもおぞましい。
姉の部屋の前まで来ると、不意にドアが開いた
「沙耶!? 」
姉は驚きの声を上げると目を見開いた。
「おはよう。大丈夫? 」
沙耶が心配そうに姉を見つめた。
姉は状況が呑み込めてないのか、戸惑った表情で沙耶を見つめた。
一瞬の間をおいて、姉の表情が安堵に崩れる。
「怖かった・・・」
姉は沙耶に抱きついた。
「安心して、大丈夫だから」
沙耶が優しく姉の背中を撫でる。
「私、見たのよ・・・葉月が、親の寝室から出て来るのを」
姉は震える声で沙耶に囁いた。
「そうなんだ・・・蒼人君から聞いたけど、あいつ、そこに道を付けたんだよ。偶然なんだけどね」
「え、蒼人から? 」
「そう。玄関まで出迎えて来てくれて。ここまで来る間に色々と聞いたから・・・後は、美汐の部屋で話すよ」
「あ、ちょっと待って」
「どうしたの? 」
「お願いがあるの」
姉が、思いつめた表情で沙耶を見つめた。
「トイレについて来て・・・怖くて行けなくて」
姉は頬を紅潮させながら太腿を擦り合わせた。
二人が階段のそばのトイレに向かうのを見届けると、僕は一足先に姉の部屋に入った。
沙耶には話したから、姉は彼女から一連の出来事を聞くかもしれない。でもまあ、一応ボディーガードとして同席しようと思う。
おかしな雰囲気になったら、抜けりゃいい。
けど、流石に今日は、そんな気分には慣れないだろう。
沙耶と無事用を足し終えた姉の足音が近づいて来る。
突然、玄関の呼び鈴が鳴った。
こんな時に客なんて。
まあ、誰だかは想像がつく。
僕は顔を顰め乍ら廊下に出た
「誰だろう、まさかリポーター? 」
姉が訝し気に眉を顰める。
姉も僕と同じ考えの様だった。
「リポーターなら、取材断っちゃいなよ」
「うん」
沙耶の言葉に、美汐は素直に頷いた。
姉はあえてゆっくり階段を降りると、インターフォンのカメラ映像を確認した。黒っぽいスーツ姿の青年が一人、玄関先に立っている。
「どちら様ですか? 」
姉が、恐る恐る訪問者に声を掛ける。
「石岡です。突然申し訳ございません」
訪問者は厳かな声で姉に答えた。
心当たりにある名前だった。つい最近、屋敷に防犯カメラを取り付けた際、色々と手伝ってくれた人だ。確か会社では、父の直属の部下で、右腕的存在らしい。
勿論、姉も石岡の事は覚えていたらしく、ほっとした表情で開錠し、ドアを開けた。
彼は、暗い表情で姉に頭を下げた。
手に花束を抱えている。が、決して華やかな種類のものではなかった。
仏花だ。
「お忙しいところ、申し訳ございません。支店長には・・・お父様には許しを得てやって参りました。事故現場に、花を手向けさせてはいただけませんでしょうか」
石岡は頬を硬直させながら、姉にそう語った。
「父が、許可したのでしたら大丈夫ですよ」
姉は、戸惑いながらもそう石岡に返した。
「有難うございます。花をお供えしましたら、すぐに退散しますので」
石岡は仄かな笑みを口元に浮かべると、姉に一礼して玄関を後にした。
「私も、手を合わしてこようかな」
姉はそう言うと、靴を履いて石岡の後を追った。
「え? まあ、それもいいかも」
一瞬、姉の行動に面食らった沙耶だったが、慌てて靴を履き、姉に続いた。
そうなれば、必然的に僕も姉達に続く。
庭には、車を引き揚げた後が生々しく残っていた。
車から外れた大きな部品や、葉月を車から救助した際に四散した彼女の私物は、残さず綺麗に回収されてはいる。でも、クレーンで車を引っ張り上げた際に生じた地面が大きく抉れた跡や、飛び散ったフロントガラスの小片までは回収出来ず、事故の凄まじさを如実に物語っていた。
石岡は、葉月が車ごと転落した場所に来ると、そっと崖下を見下ろし、顔を顰めた。崖下には、流石に回収し切れていない車の部品がいくつか点在している。
彼は足元に花束を置くと、そっと手を合わせた。
僕達も彼に倣い、手を合わせる。
これで葉月が成仏してくれればいいのだが。事はそう簡単にはいかないような気もする。
思いつめた表情で、一心に祈りを捧げる石岡の姿には、底知れぬ虚無を配した悲壮感が漂っていた
「有難うございました」
石岡は合掌を解くと、和らいだ表情で僕達に頭を下げた。
彼は事故現場に背を向けると、重い足取りで歩き始めた。
「都賀の葬儀は、身内だけで取り行うらしく、我々は参列出来ないんです。まあ、無くなった理由が理由だけに、静かに送りたいようです」
石岡は歩きながら、静かに語り始めた。
「都賀とは同期だったんです。といっても彼女はずば抜けて優秀で、異例の速さで係長に抜擢されたのに、突然会社を去ったんです。最後は、一番面倒を見てくれた元上司に迷惑を掛けて死ぬなんて、困った奴ですよ」
石岡の眼に、悲しみの輝きが揺らめく。
「では、これで失礼致します。ご両親には宜しくお伝えください」
彼は僕達に深々と頭を下げると、車に乗り込み、屋敷を去った。
僕達は、無言のまま家に戻った。
「葉月、まだいる?」
玄関の前で、姉が沙耶に尋ねた。
沙耶は渋い表情を浮かべながら首を縦に振った。
一言も会話を交わさないまま、僕達は姉の部屋に向かった。途中、両親の寝室の方に意識を向ける。
沙耶の言う通り、葉月はまだいる。
まるで、自分の成仏を祈った僕達を嘲笑うかのように、禍々しい情念を醸しているのを感じる。
姉の部屋に入り、ドアを閉める。
僕達は姉のベッドに腰を降ろした。
「さっきの供養だけじゃ、あいつは成仏しない」
沙耶は吐息をついた。
「どうしたらいい? 」
姉が表情を曇らせる。
「ちゃんとした力のある人に頼んでお祓いしないと。残念だけど、私にはそこまでの力は無いし。でもね、本来なら、葉月だってこの家には入れなかったはずなんだ」
沙耶が口惜しそうに呟く。
「蒼人が、守ってくれてるから? 」
姉の言葉に、僕はどぎまぎした。
認めてくれているのだ。
僕の存在を。
そして、ただの引きこもりではない事を。
「そう。蒼人君の力が強いから、あいつは美汐の両親の寝室から出られないの」
沙耶が姉にそう答えた。
「じゃあ、何故、葉月ははいってこれたんだろ。さっき、道を付けたって言ってたけど」
姉が訝し気に顔を顰めた。
「説明するね・・・」
沙耶が、僕が話した内容を整理しながら姉に話した。
沙耶の話を聞いた姉も、僕が沙耶にそれを話したした時の様に、驚愕よりも呆れた反応を示していた。
「その、葉月がお父さんのベッドの下に隠したパンティーを見つけて捨てれば、この家にいられなくなるんじゃ?」
姉が恥ずかしそうに言葉を紡ぐ。
「たぶん、駄目だと思う。もう、中に入って来てるし」
沙耶が残念そうに答えた。
「あっちこっちに盛り塩をして追い出すとか」
「それ、逆効果なの。かえって出口を封鎖しちゃって、家から出れなくなるのよ」
「じゃあ、どうしたらいいの? 」
姉が悲しそうな目で沙耶を見つめた。
「とりあえず、これ持ってて」
沙耶は姉に何かを手渡す。
「これって・・・」
姉の掌に、紫色の布で出来た小さな小袋が載せられていた。
お守りだ。
「盛り塩の塩を賜って来た神社の御守りだから、きっと効果があるはず。ここの宮司さんに話をしておくから、お父さんにお祓いの事、頼んでみて。お母さんは葉月の依り代になっちゃったから、説得しても駄目だと思うから、せめてお父さんだけでも納得して貰わないと」
「分かった。有難う、沙耶」
姉は沙耶に抱き付くと、有無を言わさず唇を奪った。
沙耶が、困った表情を浮かべながら、僕に目配せをする。
やれやれ。
僕はベッドから立ち上がると部屋を出た。
今のところ、僕達の部屋の領域には、葉月の気配はない。今だ両親の寝室に潜んでいるのだろう。
母が帰ってきたら、また憑依するつもりなのだろうか。
それでも、葉月は何とか出来そうだ。
問題は、奴だ。
僕は自分の部屋に戻ると、ベッドに身を横たえた。
休めるうちに休んでおこう。
いつ奴がまた襲来してもいいように、体力を温存しておかないと。
でも。
僕の力は、奴にも通用するのだろうか。
圧倒的な体力差を見せつけられているだけに、不安は隠し切れない。
それも事実だ。
とにかく、今は信じるしかない。
沙耶が語っていた、あの言葉を。
自分に秘められた、まだ眠ったままの力の覚醒を。
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