第12章 淫獄

 姉を起こさぬよう、ゆっくりと身を起こす。

 同時に、壁掛け時計が夜零時を告げた。

 今のうちに調べておいた方がいい。

 気になるのだ。姉が呟いたあの台詞が。

 姉が言った『あの女』って、間違いなく葉月の事だろう。

 姉は、何を見たのだろうか。姿そのものなのか・・・それとも気配。

 怯え切った姉からは、詳細を聞き出す事は出来なかった。

 姉がそこまで葉月に震撼するのは、何故だろう。

 幽霊となって現れたからか?

 ただ単にそれだけじゃないような気がする。

 答えはすぐに見つかった。

 ひょっとしたら、葉月に沙耶との関係がばれていると思っているのかもしれない。

 もし盗聴器が姉の部屋に仕掛けられていたら・・・。

 正直のところ、盗聴器があるかもしれない説は、滅茶苦茶濃厚だったりするのだ。

 葉月の訪問のタイミングが、完璧に両親の留守を狙っている不自然極まりない事実が、それを裏付けている。

 あの事故のせいで、今日は盗聴器が仕掛けられているかどうかなんて、探す余裕が全く無かった。

 明日も沙耶が姉のケアで来ることになっているから、その時に探そうと思う。

 もし、盗聴器が見つかったらとしたら・・・。

 姉には言えない。

 今以上に目に見えないものに怯え続け、精神を病んでしまうかもしれない。

 沙耶が見つける分には口裏を合わせておけばよいからいいのだが、姉自身が見つけてしまうと、ちょっと厄介な事になる。

 盗聴器を通じて、姉のプライベートが丸裸にされていたことになるのだ。

 ただでさえ憔悴し切っている姉に、こんな現実を突きつけたら、間違いなく崩壊する。

 葉月は仕掛けた盗聴器で姉と沙耶との関係を知り、その繋がりが自分よりも強靭である事に嫉妬し、挙句の果てには自らの過ちで死しても尚、姉の元に訪れる――そう考えられなくもなく、姉が怯えるのも分かる。

 姉の言った通り、本当に葉月がこの家に入り込んだとしたら、どんな動きを取るのか。

 沙耶の関係を妬んで、姉に憑りつき、自分の向かう黄泉の世界に引き込もうとするのだろうか。

 それは無いと思う。

 葉月のターゲットは、あくまでも父なのだから。

 もし、あの世に引き込もうとするならば、間違いなく父だろう。

 婚約話が嘘だったにもかかわらず、両親には結婚したい人がいると話していたのだ。葉月が結婚したいと考えている人物は・・・一人しかない。

 その背景を考えると、最終目的は父以外に考えられない。

 でも、葉月の異常性に恐怖する姉の気持ちも分からないではない。

 縞川の家に取り入ろうとしてついた嘘を沙耶に暴かれ、その理不尽な怒りの矛先を葡萄園に向けて放火を企てただけでなく、最後は愛する人の生活圏で自ら命を絶つ――その狂気に満ちた人間像を考えれば、死んで肉体という理性の箍を失った今の葉月は、姉にとって恐怖の存在でしかないのかもしれない。

 姉にしろ、父にしろ、家族の命が狙われると考えれば。

 ただ、僕がこの家を守っている限り、葉月は入り込めないはずだ。実際、あの

変質者も、あれだけの身体能力を持ちながら自力では入ってこれず、僕に許可を求めて来るのだ。沙耶の言う通り、奴が既に死んでいる存在だと言うのが前提だけど。

 でも、この世に律儀に家人に許可を申し入れてから犯罪を犯そうとする変質者がいるのだろうか。

 生きている輩じゃ考えられない。

 でも、肉体を失ったものに、物理的な障壁は意味を成さないはず。

 だが、思念が空間を遮断する事で、その類の侵入を防いだり、封じ込めたり出来る。

 結界だ。

 僕はどうやら、家に結界を築いていたらしい。

 今まで気付かなかったけど、僕には不思議な力が宿っているようなのだ。。

 姉を慕う想いが、僕にそんな力を開眼させたのだろうか。

 沙耶が、それらしい事を言っていた気がする。

 寝息を立てている姉をじっと見つめる。

 姉を抱き締めたのは何年振りだろうか。

 違うな。

 思い起こせば、自分から姉を抱き締めるって行為は生まれてこの方やって無かった。

 幼い頃、姉を抱きしめると言うより、反対に抱っこされた記憶はある。

 それくらいのものだ。

 横向きに寝ている姉の髪をそっと撫でる。

 姉が少し微笑んだような気がした。

 愛おしかった。

 本当なら、誰の手にも触れさせたくない。

 でも。

 駄目なのだ。そんな考えでは。

 自分勝手な独占欲に裏打ちされた思念を放つのは良くない。

 姉の幸せも考えないといけないのだ。

 だから、僕は沙耶との関係を認めた。

 理由は、相手が沙耶だったから。

 沙耶は僕も昔からよく知っている。当時は、それこそもう一人の姉の様な気持ちで接していたと思う。

 性別は関係無い。

 僕にとっては、相手が姉に相応しいかそうでないか・・・それだけだ。

 姉が寝返りをうち、仰向けになる。

 微かに開いた唇が、艶やかに濡れている。

 それはまるで、僕に何かを囁きかけている様に見えた。

 僕は何の躊躇いも無く、姉の唇に唇を重ねた。

 柔らかな感触に、心臓が爆発的な拍動を繰り返す。

 姉の吐息を間近に感じながら、僕は禁忌の時を貪り続けた。

 ゆっくりと顔を上げると、今度はTシャツの上から姉の双丘に顔を埋める。

 柔らかく温かな姉の体温が、僕の顔を包み込む。

 甘酸っぱい姉の匂いに鼻孔を膨らませ、同時に歓喜にむせびながら喉を震わせる。

 いけないと思った。

 思いはした。

 でも、もう僕には抑えきれなかった。

 こじ開けてしまった禁忌の扉を、再び閉じるのは今の僕には出来ない。

 右手を姉の下腹部に滑らせる。

 ハーフパンツの上から恥丘に掌を這わせ、両脚の間に指を忍ばせる。

 着衣越しに触れた姉の淫谷は、熱く火照っていた。まるで、硬く閉じられたその奥に、溶岩が噴流を繰り返しているかのような熱気を帯びていた。

 姉の両足が大きく開く。

 まるで僕を迎え入れるような思いも寄らぬ行為に、本能が制御を失う。

 僕は息を潜めながら、生地の継ぎ目に沿って中指を這わせるように動かす。姉と沙耶が互いの淫谷を弄っていた指の動きを思い出しながら、指先で生地に隠されたそれを繰り返しなぞり続けた。

 時間が経つにつれ、指先でなぞる生地が何となく湿感を帯びて来たような気がする。

 不意に、姉が小さく呻いた。

 少し前まで蒼褪めていた頬が、ほんのりと朱を帯びている。

 僕は指を引くと、ゆっくりと姉から離れた

 やめておこう。

 これ以上前に進むと取り返しがつかなくなる。

 僅かに残っていた理性が、僕の本能に静止を促す。

 僕はベッドから離れ、部屋を出た。

 姉が言った通り、葉月は本当にこの家にいるのだろうか。

 気持ちを落ち着かせる意味も込めて、大きく深呼吸する。

 目を閉じ、心で家を感じてみる。

 自分の部屋、姉の部屋、ゲストルーム、廊下・・・。

 分からない。

 いくら意識を研ぎ澄ませても、僕の意識には何も引っ掛かっては来なかった。

 ふと、階段から階下の灯が見えるのに気付く。

 まだ誰か起きているのか。

 ゆっくりと階段を下りる。

 灯は、リビングから漏れていた。

 少し開いた引き戸の隙間から、無表情のまま中空を見つめる母の姿が見えた。

 ダイニングでの騒動の後、母はずっとここを占拠しているのか。

 ダイニングは既に闇に包まれており、両親の寝室から微かに聞こえる父の鼾が、状況を辛辣に物語っていた。

 父はきっとあのまま母の愚痴に耳を傾けようとせず、酔いに任せて先に就寝したに違いなかった。

 僕は吐息をついた。

 不器用を通り過ぎて余りにもの父の無神経さに、僕は心底腹が立つのを覚えた。

 これじゃあ、母が可哀そうだ。

 子供の為に自分が取り乱してはいけないと思い、今の今まで我慢してきたのだ。

 ずっと父を信じて。

 父も父なりに、しっかりそれに応えて来たと思う。

 でも、肝心な所が足りないのだ。

 吐息をつき、部屋の中を覗き込む。

 刹那、背筋を冷たいものが走る。

 僕は息を呑んだ。

 ドアの隙間から見える母の横顔は、いつものそれではなかった。

 母の顔から、感情が完璧に失せていた。

 血の気の失せたその表情は、まるで死人の様に生気が無く、その上、声を掛けようにも思わず二の足を踏んでしまうくらい、圧倒的な拒絶の気に満たされていた。

 底知れぬ冷ややかな畏怖感が、僕の思考を鷲掴みにする。

 現実逃避をしているのか。

 逃げ場を失った母の魂が、無意識のうちに感情を封鎖しているのか。

 今までに見た事の無い母の姿に、打ち震える驚愕の波動が僕の思考に一抹の不安を投げ掛ける。

 姉よりも、母の方が重症なのかもしれない。

 魂の存在すらあやふやな母という名の躯が、そこに無造作に放置されているだけの様な感じだった。

 声を掛けることも、寄り添うことも禁忌であるかのような、全面否定の存在感に包まれたまま、母は身じろぎもせずに空白の時の中を彷徨っていた。

 父も母のこの姿を見て、手の打ちようがないと思ったのかもしれない。

 かえって自分の姿を前に晒す事が、母をヒステリックな心の暴走に誘ってしまうのではないか――父はそう考え、母を一人にしたのかもしれない。

 父の気持ちが分からないでもない。

 何故なら。

 僕も同様の思いに駆られたからだ。僕が母に寄り添ったところで、また違う感情が沸き起こり、僕を罵倒し、泣き叫ぶような気がしたのだ。

 ひきこもりの、僕に対して。

 姉を守るために家に籠るなんて、僕が勝手に決めた事なのだ。決して両親はそれを望んだ訳じゃ無い。

 それでも両親は、そんな僕を理解してくれていた。家から一歩も家を出ない僕に、父も母も一切苦言を溢すことはなかった。

 でも、心の底から僕の事を認めてくれた訳ではないと思う。

 いつかは僕が、自分から外の世界に出る事を望んでいるのだと思う。

 僕自身も、何となくそれを悟っている。

 それだけに、両親の中で何かが吹っ切れて、押し込めていた感情が爆発したらどうなるのか、僕には想像出来た。

 特に、今の母ならば、在り得るかもしれない。

 恐らく、僕の精神を根こそぎ刈り取るような呪言を紡ぐような気がする。

 長年、ひた隠していた潜在意識の裏側を、一気に余す事無く吐き出すかもしれない。

 考えるだけで、ぞっとする。

 このまま、ほうっておこう。

 僕はなす術がないまま、リビングから立ち去ろうとした。

 刹那。

 視界に妙な違和感が過る。

 何だろう・・・。

 母の背後で何か動いた。

 全ての意識を両眼の視神経に集中し、見慣れたはずのくつろぎの空間に生じた特異点を食い入るように見つめる。

 残像なのかと思った。

 だが母は動いていない。

 でもそれは、明らかに母と被って見える。

 影だ。

 半透明の、輪郭がはっきりしない影のようなもの。

 煙草の煙? のはずがない。

 母は喫煙しないのだ。そもそも、うちには喫煙者はいないから、煙草自体存在しない。

 煙草の煙の様なそれは大きくうねると、やがて小刻みに軌道を修正しながら、朧気ながらも像を刻み始める。

 柔らかなラインが、次第に形状を三次元に創造していく。

 空間に浮かぶ仄かな存在が、やがて点描画の様に濃淡を帯び始める。

 僕は愕然としたまま、空中で繰り広げられている影の動きを凝視し続けた。

 影の濃淡は、輪郭と隆起を中空に描く。

 隆起した部位を挟む様にして、二つの窪んだ箇所が僕の目に映る

 それはじっと僕を捉えている。

 僕は生唾を呑み込んだ。

 刹那、影は一気に像を結んだ。

 それは、僕を見つめていた。

 勝ち誇った様な得意げな表情に、淫猥な笑みを浮かべながら。

 都賀葉月!?

 青天の霹靂を遥かに凌ぐ、強烈な動揺と戦慄に全身の筋肉が弛緩する。

 僕は退きながら崩れる様に床に倒れ込んだ。

 都賀の虚像は、僕を見下す様な侮蔑の視線を注ぎながら、ゆっくりと母のうなじに吸い込まれていく。

 徐に母が振り向いた。都賀と同じ様に、淫猥な笑みを満面に湛えて。

「どうしたの、蒼人。そんな驚いた顔をして」

 母は立ち上がると訝し気に眉を潜めながら近付いて来る。

 動けなかった。蛇に睨まれた蛙とは、このことを言うのだろう。張り詰めた空気の分子が凝縮し、無数の針となって僕を床面に貼り付けていた。

 母は僕の前に来ると、足を崩しながらしゃがんだ。

 無造作に開いた両足の間に、僕の眼は無意識に引き込まれていた。

 むき出しになった太腿の色白の肌が、艶やかな輝きを醸している。

 母は見せつける様に、更に足を大きく開いた。

 スカートの奥に覗く白いパンティーが、微妙な陰影を浮きだたせながら辛うじて秘部を覆い隠している。

 まるで、あの時の様だ。

 潮溜まりで、姉のスカートの中を至近距離で垣間見た時と同じシーン。

 ただ違うのは、母の獣的で濃厚に匂い立つ肉欲の淫谷に、僕はときめくどころか胃液をぶちまけたくなる様な不快感に襲われていた。

「やっぱりお姉ちゃんの方がいいのか」

 母は含み笑いを浮かべながら、開いていた足を閉じ、スカートの裾を直した。

 どういう事なのか。

 僕は母の――葉月の発した言葉の意味が理解できず、首を傾げた。

 刹那、戦慄が気道を締め付ける。

 知っているのか?

 あの時の、潮溜まりでとった明らかに不自然な僕の衝動的行動を。

 それとも、僕の思考を垣間見たのか?

 まさか?

 慌てて意識を閉ざそうと試みる。が、やり方が分からなかった。冷ややかな微笑を口元に湛える母から眼を反らそうとしても、あえて目を閉じようとしても、身体は僕の指令を拒否し、まるで石造の様に硬直したまま、事態の最中に放置されていた。

「どうして、この家に、入れた?」

 貼り付いた唇を無理矢理剥しながら、僕は母に憑依した葉月に問い掛けた。

「あなたのお父さんへの愛情の強さかな。でもあなたがお姉さんを思う気持ちはもっと凄いわ。この家全体が守りたいって気で満ちているものね。あの変態男が入ってこれないのも分かるわ」

「あいつの事、知っているのか?」

 葉月の思いもよらぬ回答に、僕は思わず彼女に詰め寄った。

「まあね、私がまんまとこの家に入れたのを窓から覗き見て悔しがってた」

「でも、どうしてお前だけが……」

「道を作っておいたのよ」

 葉月は得意気な目線で僕を見据えた。

「道?」

「私の持ち物をこの家に置いておいたの。目的は別だったんだけどね。まさかこんなことになるとは思いもよらなかったから」

「え?」

 自分の私物を? 姉の部屋だろうか。でも、僕の見る限り、都賀に係わるものは無かったと思う。例えあったとしても、それだけ情念を孕んだものならば、僕が見逃しても沙耶なら気付いたはず。いやでも、そんなもの一つで僕の思いで満たした結界をすり抜けられるのか? それとも、姉の部屋以外の場所に?

 あった。

 一つ。それも姉の部屋に。

 受験の資料だ。姉が、葉月から貰ったノートや参考書。きっとあれが・・・。

「姉に渡したノートとかか? 」

「違うな。流石にあれじゃ念は乗らないから」

「何処に、何を置いたんだ」

「寝室よ。あなたの両親の。前に来た時に、お父さんのベッドの下に、穿いてたパンティーを脱いで突っ込んでおいたのよ。もしあなたのお母さんが見つけたら面白い事になるかなと思ってね。残念ながら何も起きなかったけど。それと盗聴機も一緒にね。お父さんかわいそうね、ここんとこ夜の方は全然ないみたいじゃない」

 得意気な表情で話す葉月が、恐ろしい化け物の様に見えた。

 やはり盗聴器は仕掛けられていたのだ。

 それも、両親の寝室に。

 人間、ここまで人を愛する事が出来るのだろうか――否、違う。愛というよりは情念。それも、狂気に満ちた貪欲な歪んだ愛情に執着する偏執狂だ。

「蒼人、このことは誰にも言うんじゃないわよ。特にあの葡萄園の女にはね」

 母の顔から笑みが消える。と、同時に、射貫く様な鋭い目線が、僕を貫いていた。

「その代わり、あの変態男が家の敷地に入らない様、睨みを利かしておくから。あなたも分かってるでしょ? あの男の欲望が強烈な歪んだ力を増幅させているのを。このままほっといたら、あいつは家の中に自由に出入りするようになる。いくらあなたがお姉さんを思う力が強くても、あの変態の欲望は底無しだから」

 無言のまま、僕は母の顔を凝視した。否、母ではなく、葉月を。

 そう、間違い無く葉月なのだ。

母の顔を司る表情筋の動きは、全くの別人――まさしく葉月そのものだった。

「蒼人君、これからもよろしくやろうね。あなたはお姉ちゃんを好きにしちゃいな。私は私で好きなようにやるから」

 母は徐に立ち上がると、鼻歌交じりで寝室に向かって歩いき始めた。

 それも、服を脱ぎながら。まるで、ふざけて服を脱ぎ散らかしながらお風呂に向かう子供のように、廊下に次々と衣服を脱ぎ棄てていく。仄かな照明に思いのほか白い裸体がぼんやりと浮かび上がる。

 余りにもエキセントリックな母の行動に、僕は立ちすくんだまま、ただ茫然と見送るだけだった。

 母じゃない。

 外観は母でも、中身は葉月なのだ。

 母の姿が寝室に消えた。だが、まるでこれから行われる儀式を僕に見せつける為なのか、ドアは半ば開けたままになっている。

 母は父が眠るベッドの傍らに立つと、勢いよく掛け布団を捲りあげた。

 自分が置かれている状況を知らずに、未だに鼾をかいて眠りに落ちたままの父の上に、母は躊躇する事無く馬乗りになった。驚いて跳ね起きる父に、母の白い裸体が覆い被さる。

 慌てる父の声に母の囁くような甘い声が絡み合い、揉み合う様な衣擦れがしばらく続いた後、ぎしぎしとベッドのスプリングが一定の戦慄を刻み始める。

 父の上で母の身体が上下に動いていた。

 母は至福の喜びに喘ぎながら、執拗に腰を動かしていた。

 葉月が念願の夢を叶えた瞬間だった。

 こんな場面、姉には絶対に見せられない。

 不愉快な思いに駆られながら、僕は自分の部屋に戻ろうと踵を返した。

 姉がいた。

 僕の、すぐ後ろに。

 僕と母との一連の騒動で目を覚ましたのか、いつの間にか僕のすぐ後ろに佇んでいたのだ。

「姉、ちゃん……」

 慌てて姉に声を掛けたものの、時は既に遅かった。

 見開かれた姉の眼には、怒りと嫌悪の入り混じった激しい拒絶の念が宿っていた。

 姉は無言のまま、二階へと戻って行った。

 慌てて姉の後を追う。が、姉は足早に自分の部屋に戻ると、何もかもを拒絶するかのように勢いよくドアを閉めた。

 僕は、ただ閉められたドアを見つめる事しか出来なかった。

 ドア越しに、姉のすすり泣く声が聞こえる。

 極限状態にまで追い込まれている姉に晒した母の醜態は、最悪以外の何物でもなかった。

 僕はぎりぎりと奥歯を噛みしめた。

 耐えきれない苛立ちと怒りは、母に憑依した葉月よりも、むしろ自分自身に向けられていた。

 何一つ守り切れない、非力で無力で、それでいて自尊心ばかりが際立つ自分自身に。

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