第11章 不義

 父が戻ったのは、夜の七時を過ぎた頃だった。

 憔悴しきった表情で、父は無言のままテーブルに着いた。

 都賀葉月の状態が知りたい――その思いに駆られながらも、僕から声を掛けられるような状況ではなかった。うなだれる父の風貌からは、いつもの自信に満ちたウザイくらいのポジティブなオーラが根こそぎ刈り取られ、風雨に晒された廃屋の様に朽ち果てていた。

「みんなに、迷惑をかけたな……」

 眉間に深い皺を刻むと、父は漸く硬直した唇を無理矢理引き剥しながら、言葉を紡いだ。

「お父さんがあやまることないよ。あなたの方が被害者なんだから」

 母は、委縮する父の心を解かそうと、口元に精いっぱいの柔和な笑みを微かに湛えた。

「美汐はどうした?」

 父は落ち着きなくリビングを見渡した。

「自分の部屋にいるわ。これから夕ご飯だから呼んで来るね」

 母はコンロの火を止めると、小走りで階段の下まで駆け寄ろうと――立ち止まった。

 いつの間にか、姉はキッチンの戸口に立っていた。

「お父さん、葉月さんはどうなったの?」

 姉は、無表情のまま、呟きの様なか細い声で父に問い掛けた。

 父は苦渋に頬を強張らせながら、ゆっくりと唇を開いた。

「亡くなったよ。即死だったそうだ」

 父の話を耳に入れた刹那、姉は崩れるようにその場にしゃがみこんだ。

「大丈夫?」

 慌てて駆け寄る母に、姉は黙ったまま頷いた。

「警察は、葡萄園放火の首謀者の疑いで、都賀を追っていたらしい。直接放火した犯人は逃走しようとして死亡したらしいけど、彼女に依頼されてやったようだな。犯人は『裏の仕事請負人』だったらしく、結構ヤバい仕事を生業にしていたらしい。警察も別件で追っかけていた最中に他事件との関与に気付いたそうだ」

「大体沙耶から聞いてたけど、やっぱり……そうだったんだ」

 意外にも、呟く姉の声に、驚きや動揺は皆無だった。思っていた事が現実に裏打ちされた、何処か満足感げにも聞こえる響きが、その言葉に醸し出されていた。

「自宅戻ったところを刑事に職務質問されて逃走したらしい。うちに突っ込んできたのは、逃げきれないと思って衝動的に取った行動じゃないかと刑事達は言っていたよ」

 父は、大きく吐息をついた。

 静寂が、キッチンを包み込む。

「警察にあの事は、話したの?」

 母が、苦し気に表情を歪めながら、言葉を絞りだした。『あの事』が何を指し示すのか、僕は察していた。僕だけじゃない。父も。恐らくは姉も。

「ああ。どちらにせよ、分かる事だと思ったからな。ストーキングの話は、捜査が進むうちに、必ず出てくることだろうから」

 僕の推測を裏付けるかのように、父は躊躇いもなくそれに触れた。

「正直言うと、警察に話すのは抵抗があった。残された御両親を更に追い込む結果にならないか、それが心配だったからな。案の定、警察はすぐに。彼女の御両親にその事を確認したらしい。全く知らなかったそうだ。でも、警察が色々と情報を聞き出してくれたよ」

「それは、どんな事?」

「彼女は婚約していなかった。親には、結婚を約束した人がいるから、そのうち連れて来ると言ってたらしいけど、それも嘘だったらしい」

「えっ……」

 母はかっと目を見開いたまま、固まっていた。

「嘘をついてたんだよ。親にも、俺達にも、会社にも」

 父は忌々し気に口元を歪めると、拳でテーブルを叩いた。

「あの人、親には嘘をついていないわ」

母の声が震えていた。

「きっと、あなたを連れて行くつもりだったのよ。この家を滅茶苦茶にして。だから、美汐に近付いて、私達の仲をしきりに聞き出した。隙があったら付け入る作戦だったのかもね」

「まさか……それは考え過ぎ――」

「あなたがそんな甘い考えだから、あの女みたいに勘違いする馬鹿が出てくるのよっ! もう嫌っ! 何で私達がこんな事で苦しまなきゃいけないのっ! 私達、何か悪い事した? あなたもあなたよっ! 若い美人の女に付きまとわれて、本当は、まんざらじゃなかったんじゃないのっ?」

 突然、半狂乱になった母を、僕はただ茫然と見つめていた。

 都賀のストーキング事件も、あくまでも被害者なのだと母は常に父側にいた。ひょっとしたら、浮気をしていたのかもしれないという疑いも、拭い切れないであっただろうに。

 それでも。母は父を信じた。

 信じようとした。

 恐らく、母は今まで自分の感情を無理矢理抑え込んでいたのだ。僕や姉が不安に駆られたりしないように。家族に不協和音が生じて、復元不可能なまでに崩壊しない様に。

 自分の中の蟠りを愚かな猜疑心だと捻じ伏せて、押し殺すことで、家族を守ろうとしてきたのだ。

 僕や姉に語ることなく、全てを隠匿して。

 実際、父は、母や僕達を裏切ってはいなかった。

 葉月の執拗なアプローチを拒絶し、かわし続けたのだ。

 母も、父が自分達を選択し、守ろうと努力していたのを気付いているとは思う。

 でもそれは、実態を自分の眼で見ている訳ではない。

 あくまでも母の中で、父の考えを、気持ちを把握し、自分なりに出した答えでしかないのだから。

 父は、母の信じた通りの人だった。

 でも、その答えを導き出し、自分自身に言い聞かせて気持ちを奮い立たせるのは、並大抵のものじゃなかっただろう。

 相手は自分よりも若く、美しい才女なのだ。大抵の男なら、葉月の魅力になびいてもおかしくないのだ。

 溜まりに溜まったストレスを口汚い怒号とともに吐き出すと、母はリビングに消えた。

 夕食は、まだフライパンの中で出番を待機したまま、放置されている。今日のメニューは麻婆豆腐。風化した現実を象徴するかのように、すっかり冷え切ったそれを、誰も温めようとはしない。

 重い空気が、ダイニングを埋め尽くしていた。

 姉は沈黙を守ったまま父に背を向けると、ダイニングから退陣した。

 姉は母の様に父に腹を立てている訳ではないと思う。

 多分、この重苦しい雰囲気に耐え切れなくて退散したのだろう。

 父は、苦悩の表情を奥歯で噛み殺しながら、天井をじっと見つめた。

 深く、重い吐息が、父の口から吐き出される。

 恐らくは初めて聞かされただろう母の心情と、その勢いに押されて、自分の身の潔白を母に訴える事の出来なかったもどかしさに、父の中で行き場のない憤りが急激に増殖しているように思えた。

 父はよろよろと力なく椅子から立ち上がると、冷蔵庫から缶ビールを取り出し、無造作にプルタブを起こした。

 そのまま口を付けると、一気に飲み干す。

 空になった缶を、父は忌々し気に床に投げつけた。父なりの苛立ちの表現なのだろう。普段は絶対に怒りの感情を露わにしない父にしては、珍しい行動だった。

 不器用なのだ。

 常に周囲の人々から良い人と慕われ、尊敬されているだけに、己に正直になるのが苦手なのだ。人を気遣う余りに自分自身の感情を黙殺し、その犠牲と引き換えに人望を集めてきた人なのだ。

 今思えば、父は面倒な依頼を嫌な顔一つせずに引き受けてきた。僕や姉の通ってた学校や町内の役員、親戚が市会議員に出馬すると言えば後援会にと、とにかく世話好きなイメージそのままに多忙な日々を送って来た。時には、家族をも犠牲にして。

 そんな父を、母は今まで何一つ不満や愚痴をこぼす事無く支えてきた。休日も家にいないことが多かった父に対して、姉や僕がぶつぶつ文句を言うと、『お父さんは家族だけじゃなく、みんなの事を考えて頑張っているのだから、応援しなきゃ駄目』と、反対にたしなめられた位だった。本当は母自身も不満だっただろうに。

 さっきのヒステリックな感情の爆発も、恐らくは都賀の件だけじゃなく、今までの蓄積された不満が一気にせり上がり、噴火口を開いたのだと思う。

 でも。

 本当に、一番不満を抱いていたのは、父だと思う。

 人に慕われる満足感と引き換えに、それ以上の厄介事を引き受けてきた――否、引き受けてしまう自分自身を、父は心の深層で激しく罵倒し、嫌悪していた――様に思えた。

 そう感じる様になったのは、ある光景を目撃してからだ。

 随分前の話ではあるけれど、家の電話にかかってきた町内の依頼事を受けた父の横顔を見た時、笑い声と共に快く承諾していた父の顔には、憔悴と嫌悪が入り混じった表情が、べったりと貼り付いていたのを、僕は見逃さなかった。

 幼心に、僕は悟った。

 本当は、やりたくないんだと。

 もし断れば、長年苦労して築き上げてきた信頼と人脈に水を差すことになってしまう――父は、きっと無意識のうちにそれを恐れる様になっていたのかもしれない。

『縞川』はそういう家なのだ。

 この地方の政財界に数多くの有力者を排出し、世間からも一目置かれる一族だけに、そういった立ち回りは否応なしに回って来るのだ。

 元々は祖父が一切を取り仕切っていたのだが、亡き後は父が一手に引き継ぐ形となったのだ。

 そんな家だけに、仕事の都合とあの事件の絡みでこの地を離れる事になった時は、親戚縁者からかなりのバッシングがあったらしい。

 中央に一族の名を響かせるた為の武者修行であると親戚達を説得し、何とかこの地を離れたのだ。

 これは直接父から聞いたのではない。親戚達を家に集め、説明しているのを僕が盗み聞きしたのだ。

 何だか昭和初期を彷彿させるような、何となくノスタルジックな浪漫すら感じる出来事だったのを覚えている。

 省は初期の日本がどうなのかは、僕には分からない。ただ、父の書斎に合った昔の小説の背景やストーリーに出て来る、権力絡みのどろどろした人間関係的なものに似ているような気がした。

 今思えば、この家が売れなかったのは、何かしらの圧力が動いていたのかもしれない。ここに戻って来るようになったのも、きっとそうだ。

 父が床に放り投げたビールの空缶は、衝撃でひしゃげ、己に向けられた八つ当たりに憤慨するかのように、僅かに残っていた残渣をささやかにぶちまけていた。

 父は、じっとそれを見つめていた。

 やがて何を思ったのか、父はそれを無造作に拾い上げると、更にぺちゃんこに握りつぶし、ゴミ箱に入れた。そしてコンロに向かうと、用意してあった器に麻婆豆腐を盛り付け、更にその傍らに炊飯機のご飯を載せると、テーブルに戻った。

 神妙な面持ちで小さく『頂きます』と呟くや、冷え切った麻婆豆腐をご飯と一緒にがつがつと食べ始める。

 僕は苦笑した。

 やっぱり、不器用だ。

 ここは是が非でも母の後を追いかけて、言い分にじっくり耳を傾けるべきではないのか。

 でも。

 父にとっては、これが、母に対する精一杯の謝罪なのだろう。

 耐え難い程に滑稽で、呆れ返る程に純朴な父の姿に、何故か僕は敬意すら感じていた。

 それよりも、姉はどうなったのだろう。

 僕は二階に向かった。父の報告に、一度は反応したものの、母が半狂乱になった時は、むしろ醒めた表情で事の成り行きを見届けていた。

 無表情。感情が失せた姉の顔は、まるで死人のそれの様に生気が無く、見る者を凍てつかせるような、沈黙の中に潜む凄みの様なものすら感じられた。

 あの表情。

 僕には、ネガティブなイメージしか思いつかない。

 生への執着を破棄し、全てを終着に導こうとする諦めと絶望の境地。

 抜け殻。 

 生きる屍。

 自我を失い、悲壮感に支配を許した愁い深き存在。

 今の姉を形容する詞は、僕には、恐ろしく無気力な喪失感に苛まれた言霊しか紡ぐ事が出来なかった。

 それほどまでに、葉月の死がショックだったのだ。

 つまり、姉はそこまで葉月に魅入られていたのだ。

 姉の部屋の前まで行き、立ち止まる。

 どうしよう。いきなり部屋に入ったら、流石にまずいか。否、今の姉には、そんな感情すら湧かないかもしれない。

 ドアノブに手を掛け、回そうとして、止めた。

 今、僕が何かしたところで、かえって姉の心を掻き乱してしますのではないか。そんな危惧が、僕の行動にブレーキを掛ける。

 吐息。

 僕はドアノブから手を離すと、姉に悟られぬよう、忍び足で自分の部屋に向かった。

 ドアを開け、部屋の中に――姉がいた。

 慌てて部屋を見渡す。間違いない。ここは僕の部屋だ。

 姉は照明、も点けずに、僕のベッドに腰掛けている。闇の中に僅かに飛び交うささやかな微光の粒子が血の気の失せた姉の蒼白い顔を、ぼんやりと浮きだたせている。

「どうしたの……?」

 恐る恐る姉に話し掛ける。

 姉は驚いた表情で僕をじっと見つめた。

「蒼人……」

 僕は黙って姉の横に座った。途端に、甘酸っぱい香りが鼻腔をくすぐる。沙耶とは違う、慣れ親しんだ安らぎを感じさせる匂い。

 僕は姉に悟られぬよう、無意識のうちに鼻腔を膨らませ、深呼吸していた。

「蒼人、私を守って」

 姉が、か細い声で呟く。

「大丈夫、僕がついているから安心して」

 僕は姉の手を握った。姉の身体が一瞬びくっと震える。

 驚かせてしまったか。

 僕の行為を拒絶するかの様な素振りに戸惑いを覚える。が、次の瞬間、それが取り越し苦労であったことを僕は悟った。

 姉が、強く手を握り返して来たのだ。

「蒼人、怖いよ……あの女、この家の中にいる」

「えっ!」

 震えながら呟く姉を、僕は茫然と見つめた。

 そんなはずはない。

 あの時、確かに感じることは感じた。憎悪に満ちた冷酷な視線を。でもそれが家に戻る僕達を追従してきた感じはなかった。

 いやそれよりも。

 姉にも、見えるのか?

 沙耶さんや僕と同じように。

今までそんなスピリチュアルめいた話、したことなかった。

「姉ちゃん、見たの?」

 俺の問い掛けに、姉は答えなかった。ただ、僕の手を握る手に、更に手を重ね、祈る様に額をそれに擦り付けくる。

 不安に満ちたリズムを刻む姉の身体の震えが、ダイレクトに僕の身体に伝わって来る。

 僕は衝動的に身体を姉に密着させた。

 そうすることで、姉に憑依した恐怖を少しでも取り除けないかと思ったから。

 姉が、顔を僕の胸に埋めて来る。まるで、母親の温もりを求める赤ん坊の様に、顔を何度も押し付けながら、静かにすすり泣く姉。

 僕は黙って受け止めながら、ゆっくりとベッドに倒れ込む。

 姉の身体はまるで蝋人形の様に冷え切っていた。真夏にもかかわらず、まるで、姉の周囲だけ厳冬のさなかを彷徨っているかのような感じだった。

 僕は姉を抱きしめた。

 腕の中の姉は、驚く程か細く、弱い感じがした

 幼い頃、僕にとって姉は大きくて強い存在だった。遊ぶ時も、学校に行く時も、姉はいつも僕を積極的に先導し、時には渋る僕の手を握って強引に引っ張りまわす程だった。

 今の姉に、その力強さは無い。

 そんな姉が、たまらなくいとおしかった。無力化したか弱い存在故に、僕が守らなければいけないという自覚が自ずから芽生えて来るのを感じる。込み上げて来る使命感と共に、言い様の無いはがゆい思いが、僕の意識を満たしていた。

 姉弟なら、決して認めてはいけない感情。

 僕は気付いていた。

 姉を、一人の女性として意識している事に。

 禁忌の領域に踏み込んではならない。

 そう思いながらも、僕は抑えきれない感情の渦に巻き込まれていた。 

 静寂の時が、ゆっくりと流れていく。

 僕の腕に包まれて安心したのか、いつしか姉は静かな寝息を立て始めていた。

『あの女、この家の中にいる』

 さっき姉が呟いた台詞が耳から離れない。

 でも、僕には何も感じられない。どんなに意識を研ぎ澄ましても、僕に憎悪の刃を向ける存在はいない。

 姉の勘違いなのだろう。

 そう思いたかった。

 ひょっとしたら、余りも衝撃的な結末が、急激に姉の精神を蝕んでいるのかもしれ ない。

 姉の心を癒す方法はただ一つ。

 この家を出る事。否、それだけじゃ駄目だ。

 必要なのは、この町からの脱出。

 この家の思い出だけでなく、この町の存在を記憶から抹殺するのだ。

 何もかもを記憶から消し去り、僅かな痕跡すら忘却の彼方に追放してしまうのだ。

 父の仕事の関係もあるかもしれないけれど、もはやそんな悠長な事なんか言ってられない。

 明日、姉に話してみよう。父を説得するように。姉から話を切り出せば、父も納得するだろう。この一件で一番巻き添えを食い、一番ダメージを受けたのは、間違いなく姉なのだから。

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