第9章 奈落

 両親が仕事に行ったのを見計らって、僕はそっと家を出た。

 防犯カメラを取り付けて一週間が経つ。

 この間、僕はほとんど寝群れない日々を過ごしていた。

 気が高ぶって寝られなかったのだ。

 奴が襲来するかもしれない。そんな疑念が僕の思考に憑依し、安らぎと休息を根こそぎ排斥していた。

 あの時、リビングの窓から覗いた奴の顔。

 あれは、奴を意識する余りに脳内で合成した錯覚だったのか?

 それにしてはリアルだった。

 でも、一瞬にして消え失せるなんて・・・それに、カメラには映っていなかった。

 分からない。

 それこそ、現実なのか幻想なのか、どちらとも確証が無かった。

 薄気味悪くも後味の悪い現象に不条理さを覚えながらも、僕は気を許さずに警戒し続けるしかなかった。

 だが、幸いにも、僕の危惧は取り越し苦労に終わり、その後の日々は、日の出と共に在り来たりな一日の始まりを迎え、何事も無く夕暮れを迎えると共に平和な一日を終えるに至っていた。

 とりあえず、今のところは、だ。

 やはり、あの時の奴の姿は錯覚かも知れない。但し、ここ何日も現れないところを見ると、あの日、防犯カメラを設置している様子を、近くで監視していた可能性はあるかもだ。

 多分、奴は必ず現れる。

 恐らく、今頃カメラの死角を必死に探しまくっているのかもしれない。

 出来れば、これで諦めてくれるといいのだが。

 でも。

 何故、奴はそこまで姉に固執するのか。

 姉に、それだけの魅力があると言う事なのか。

 奴だけじゃない。沙耶や葉月もそうだ。

 それに、僕自身も。

 いけない事だと思う。

 分かっている。そのくらいの事は。

 姉弟の関係である以上、それを超える域には入ってはならないし、入ろうとは思わない。血縁者であるからには、超えたはならない禁足の壁なのだ。

 僕は天を仰いだ。

 まだ午前中だというのに、日差しは狂気じみた陽光の波動を容赦なく送り続けている。

 今日も真夏日となるのは間違いなく、朝から蝉が生命の灯を鳴き声に変えて大合唱している。

 車道を見つめながら耳を傾ける。

 葉月が訪れるのは、決まってこの時間だった。

 必ずと言っていい程、両親が仕事で家を空けた直後だった。平日であっても、両親が私用で休みを取って家にいる時は訪れる事は無かった。まるで監視カメラで動向を伺っているかのような正確さで、両親との接触を避けていたのだ。

 当時はその精確さに盗聴か何かされているのではという気味悪い感じすら覚えていたが、今になって冷静に考えると、両親の在宅の有無は、ひょっとしたら姉から連絡を入れていたのかもしれない。

 お決まりの頃合いになっても、今のところ車のエンジン音は聞こえず、そよぐ風は蝉の声に混じり地磯に砕ける波の音を運んでくるだけだった。

 恐らく、今日も来ないのだろう。

 姉と玄関で口付けを交わした日以来、自身が告げた通り、彼女は姿を見せなくなった。

 姉からその事を聞かされた両親は、表向きは安堵の表情を浮かべていたものの、内心は警戒を続けているようで、帰宅すると必ず動画のチェックを怠らなかった。

 姉が沙耶の葡萄園の放火事件を話を例に上げて、不審者対策で取り付けてもらった防犯カメラだったが、両親がそれを承諾した本音のところは葉月対策なのだろう。流石にその点は石岡にははぐらかしていたが。

 姉は朝食を終えると、いつもの様に自室にこもり、受験勉強に取り組んでいる。朝食の場では、誰一人と葉月の話題を出さず、差しさわりのない会話だけがかわされていた。

 このまま、全てを封印してしまいたい。あたかも最初から何もなかったかのように。

 両親は、そう思っているように思えた。

 ただ、姉はそうではなく、影では今だ葉月と繋がっている。

 時折、電話で会話しているのを、僕は知っている。

 多分、葉月はこのまま引き下がらないと思う。

 恐らく、彼女は様子を伺いながら、何かしら仕掛けて来るに違いない。両親に内緒で姉の家庭教師を引き受けたのも、少しでも父に近付こうと企んでいたからなのだろう。

 これでもし姉が気変わりして、葉月の来訪を嫌悪するようになり、拒んだりしたら。

 一途な沙耶の気持ちを汲み取り、浮ついた関係に終止符を打とうとしたら。

 葉月は今までの態度を一変させ、姉に何かしらの報復を企てるだろう。

 そして、もしその理由が姉と沙耶との親密な関係に起因していたと知ったら、間違いなく、沙耶がその逆恨みの標的になるに違いない。

 考え過ぎかもしれないが、起こりうることだ。

 そうなる前に、何とかしなければ。

 でも、どうすりゃいい?

 大した策が思い浮かばないままに、僕は門を出ると坂道を下った。もし、葉月が来たら、力ずくでも呼び止めてお引き取り願おうという魂胆だ。

 姉にはもう拘わらないで欲しい。姉との関係を僕は知っている。これ以上、姉を惑わさないで欲しい――あくまでも、僕の一方的な思いを訴えるだけで、葉月にとっては理不尽な理由だろう。

 葉月は姉が自分の事を慕っていると確信しているし、事実そうなのだし。

 僕がとやかく言ったところで、どうにもならないのは分かっている。

 だが、すこしでも牽制する何かしらの手は打っておかないと。

 余りにも無策に近い作戦だが、今の僕にはそれ以上の策を思いつくことは出来なかった。

 取りあえずは、僕が悪役になろう。

 葉月と姉との関係を断ち切るために。

 父や母もそれを望んでいる――と言うより、恐らく本来のターゲットは父のはずなのだろうから。

 考え過ぎなのかもしれないが、単純に姉を自分のものにしようとしているだけじゃないと思う。

 ひょっとしたら、現在進んでいる結婚話はカムフラージュかもしれない。

 彼女の素行を知る者に対して、油断させる為のものではないか。

 だとすると、結婚する相手が可哀そ過ぎる話だ。

 都合よく使われ、万が一、父とうまくいけば、相手は簡単に捨てられるだろう。

 葉月はすこぶる頭の良い才女だけに、自分に火の粉が降りかからぬよう、それこそ相手に非があるような立ち振る舞いで悲劇のヒロインを演じ切るような気がする。

 まあ、父にはその気が全く無い様だし、その心配はなさそうだけど。

 足元の草に足をとられ、転びそうになる。

 道は長い間使われていなかった上に、私道ということで整備もままならず。、路面を覆うアスファルトには至る所に亀裂が走り、無数の雑草がひしめきあいながら日照権奪取に夥しい生命力を競い合っている。

 僕達がここに戻ってくる前に、管理会社の方で草取りまではしてくれたらしいが、雑草の生命力はそれを遥かに凌いでした。

 不意に、視界の片隅に人影を捉える。

 黒いノースリーブにオリーブ色のショートパンツ。ママチャリをおしながら、サクサク坂道を登って来る女性の姿。

 沙耶だ。

 彼女の方も僕に気付いたらしく、手を振りながら笑顔で駆け寄って来る。

「蒼人君。、おはよう」

「おはようございます」

「ね、今日家庭教師来た?」

 沙耶の顔からさっきまでの笑顔が消え失せ、一転して険しい表情が張り付いている。

「え、来ないですけど」

 怪訝な表情で見つめ返す僕の顔に、沙耶の顔がぐぐっと近づく。

「うちの直売所が放火されたの、知ってるよね? 」

「はい、姉から聞きました。犯人も死んじゃったって。大変だったですね」

「有難う。でね、その犯人だけど、裏の何でも屋らしくってさ、結構ヤバい事やってたみたいだよ。不法薬物の運び屋とか、犯罪者の逃亡の手助けとか」

「えっ? マジですか。じゃあ、ひょっとして、あの放火は」

 僕は驚きの声を上げると、ただでさえ近付いている沙耶の顔に、更に顔を近付けた。

「そう! 何者かが彼に依頼したのよ。彼のパソコンに、交信記録が残ってた」

「まさか・・・」

 僕は生唾を呑み込んだ。そこから先は言うまでもない。

「そう、そのまさか。都賀からの依頼の記録が見つかったの。それで、警察から電話が入って、依頼者に心当たりは無いかって聞かれたのよ。心臓が止まるかと思った」」

 沙耶は唇を震わせながら言葉を紡ぐ。

「でもさ、私があいつに恨まれた理由が分からないのよね。まさかだけど、葡萄の件の嘘をぶち壊したから? そんなんで放火なんか依頼するかな」

 沙耶は首を傾げた。

 僕は、喉迄出そうになった言葉を無理矢理押さえつける。

 奴は、沙耶と姉の関係を壊そうとしたのだ。

 あの放火は、恐らくは姉に近づくなという、沙耶への警告だったような気がする。   

 もし、盗聴器が姉の部屋に仕掛けられていたとしたなら、姉達の行為も把握しているはずだ。

 沙耶の話では、姉との関係は再会する以前からあったらしい。そうだとすると、久し振りに再開したあの日、そのような行為に溺れてもおかしくはない。

 葉月が受験資料を持って家に訪れた時に姉と交わした口づけは、自分以外の者と関係を持つなと言う、姉への警告だったのかもしれない。

「姉には、話したんですか?」

「まだ。これから言って話すつもり。でも部屋はちょっと・・・外の方がいいかな」

「外? 」

「あいつに部屋盗聴されてたらまずいと思って」

「えっ?」

 想定外の沙耶の発言に僕は眉を潜めた。

「昨日、美汐に聞いたんだ。あの女、必ず両親が家を出た後にやって来るって。それも、休日や、平日でも用事があってたまたま親が家にいるときには絶対に来ないんだって。用事で来れなくなったって連絡は入るんだけど、結構当日の朝だったりするらしい。それで、ぴんときたの。盗聴されてるかもって。美汐が嫌じゃなきゃ、これから探すつもり」

 沙耶は頬を紅潮させながら、興奮気味に僕に語った。姉も僕と同じ事を考えていたのは驚きだった。じゃあ、自分達の行為を葉月に知られているかもしれないことも、ある程度は覚悟しているのか。

 それと、今の話で何となく見えて来たのだが、姉も、両親の留守のタイミングをこまめに葉月に連絡していた訳ではないらしい。

「恐らく、都賀は警察が動いている事を知らない。あいつが来たら、美汐には一旦中へ連れ込んでもらって、その間に私がすぐに警察に連絡しようって作戦を取ろう想うの」

「分かりました。その作戦、僕ものります」

「よっしゃあ、敵一人に対してこちらは三人。あいつを包囲網にほうり込める」

 鼻息荒く雄叫びを上げる沙耶にあっけにとられる。この人、見掛け通りポジティブの塊のような人らしい。過去の虜囚から逃れられず、長い間引きこもり状態だった姉とは全く住む世界が違うような気がした。

 僕達は家に向かって歩き始めた.。

「車があれば、こんな苦労しなくて済むのになあ。今日は家族が使っちゃってるから、乗ってこれなかったのよねえ」

 沙耶は汗ばむ額を腕で拭いながら苦笑を浮かべた。

「免許、持ってるんですか?」

「うん、高三の春休みに取った」

「いいな……」

 僕がうらやましそうに呟くと、沙耶が何処か寂しげな表情を浮かべながら視線を中空に向けた。

「良くもないんだよね。必要あってだから」

 沙耶は言葉を濁すと、黙って俯いた。

「寝たきりの兄がいるの。五歳年上のね。脳死じゃないらしいんだけど、意識が戻らなくて、ずっと入院しているの。免許は、葡萄園の仕事と兄の面倒見るのにいるからとったようなものよ。本当は、兄が家業をついで、私は大学に行って教師を目指すはずだった。でも、事故が何もかもを変えちゃった。兄の運命も、私の運命も。風邪一つひいたことがなかった兄が、今では生命維持装置が無ければ生きていけない植物人間。信じらんないよね」

「事故って、交通事故ですか?」

「ううん、階段から落ちたの。家や病院にまで警察が来て大変だった。馬鹿としか言い様がないでしょ」

 乾いた笑みを浮かべる沙耶を、僕は複雑な気持ちで見つめた。

 人生にダークゾーンを抱えているのは姉だけじゃないのだ。生に満ちた彼女ですら、ぎりぎりのところで生きているのだ。

 もちろん、僕だって。

 起伏のない、平和な人生を送る事が出来た人って、いったい何人位いるのだろう。良い事も悪い事が繰り返し繰り返し訪れるよりも、何事もほどほどに過ぎ行く人生の方がどんなに幸せな事か。

 平凡こそ最高の至福なのかもしれない。

「入院されてから結構長いんですか?」

「うん。もう四年になるかな。あの日、いろんな事があったからよく覚えている。兄の事故が午前十時頃だったんだけど、病院にいって、少し落ち着いたお昼過ぎに、美汐に電話したのよ。会う約束してたけど、行けなくなったって伝えなきゃと思って。そうしたら、そちらも大変な事になってて……」

 沙耶は悲し気に眉を潜め、苦悶に頬を強張らせた。

 僕は無言のまま、沙耶をじっと見つめた。

 あの忌まわしい出来事の事だ。

 それも、同じ日に。

 時間軸こそ違うにせよ、まるで不幸の連鎖ともいうべき運命的な展開だった。まるで、仲の良い二人を引き離そうと、悪魔が手ほどきしたかのような。

「ね、サイレン聞こえない?」

 沙耶は徐に立ち止まると、周囲に耳を傾けた。

 確かに聞こえる。間違いない、サイレンだ。それも、一台だけじゃない。複数台。

「火事でもあったのかな」

 沙耶は心配そうにその音源を追った。

「沙耶さん、何だか、どんどんこちらに近付いて来ていると思いませんか?」

「えっ?」

 沙耶は訝し気に僕を見つめる。が、次の瞬間、驚きの表情を浮かべた。

「ほんとだ……だんだん近付いて来る」

 そう会話している間にもサイレンの音は、次第により大きく、より鮮明なものへと変貌を遂げ、それが紛れもなく確かな事実である事を物語っていた。

「蒼人君。変なこと言うかもしれないけど、サイレンの音さあ、まともにここに向かってない?」

 沙耶の問いかけに、僕は黙って頷いた。得体のしれない緊張の余り、喉がからからに乾いて声が出ない。僕も彼女と同様の事を感じていたのだ。

 不意に、一台の車が視界に入った。黒い軽自動車。その後ろをパトカーが三台追従している。

「あの車、あれは……」

 僕がその答えを導き出す前に、黒い軽自動車は僕達の目の前を猛スピードで通過した。

 運転席には、鬼女の様な凄まじい形相でハンドルにしがみついている都賀葉月の姿があった

 パトカーは葉月にしきりに停車させるよう促すが、全く応じようとせず、猛スピードで坂道を突っ走っていく。

 紛れもなく、僕の家に向かって。

「沙耶さん!」 

 余りにも突拍子の無い展開に呆然と佇む沙耶。が、僕に声を掛けられて我に返った途端、彼女はママチャリを押しながら猛ダッシュで坂を駆け上がり始めた。

 慌てて後を追う僕。

 が、如何程もたたないうちに、鈍い金属音が響く。その直後、どおおんという重い粉砕音が地響きと共に空気を激しく震わせた。

 何が起きた?

 そうだ、姉さんは?

 まずい……パトカーのサイレン!

 姉が、おかしくなってしまう!

 沙耶を追い抜き、門の前で停車しているパトカーの傍らを通り過ぎる。

 門の留め金が根元から折れ、門自体は大きく開いたままになっている。車から降りた警官達が、庭の奥の崖から下を見下ろしていた。

 姉は玄関のドアの前で呆然としたまま蹲っていた。

「姉ちゃん、大丈夫?」

 僕は姉に声を掛け、、力いっぱい抱きしめた。

 姉は体を小刻みに震わせながら、回り続けるパトカーのパトライトを硬直した表情で凝視し続けていた。

「美汐っ!」

沙耶は姉の傍らに駆け寄ると、震える背中をやさしくさすり続けた。

「何が、あったの?」

 姉が、か細い声で沙耶に問い掛けた。

「家庭教師の、お姉さんが、警察に、追われて、車ごと、崖から、落ちたみたい……」

 沙耶が、緊張で張り付いた唇を引き剝がしながら言葉を一つずつ吐き出していく。

「えっ……?」

 姉の顔が驚愕に歪んだ。

 眼球が零れ落ちるかと思わんばかりに見開かれた眼が、警官達が忙しなく蠢く崖を見つめていた。昔、そこには簡単な柵があったのだが、今は朽ち果て、生い茂る雑草が自然の生け垣を成している場所だった。

「ここの家の方ですか?」

 一人の警官が、僕達に話しかけてくる。

 姉は困惑した表情を浮かべ、黙って頷いた。額にうっすらと冷や汗が浮かび、呼吸が荒くなっている。

「美汐、携帯貸してっ!」

 沙耶は姉の手から携帯を受け取ると、父と母に連絡を取り、簡潔に状況を説明するや、姉に代わって実況見分に加わった。

 僕は姉の傍らに腰掛け、寄り添いながら両親の帰りを待つことにした。

 約三十分後、蒼褪めた顔の母が到着し、姉のもとへ駆け寄った。

「沙耶、大丈夫っ?」

 母の声を聴いて安心したのか、涙をぼろぼろ流しながら母の胸に顔を埋めた。

 母が到着してから約十分後、見知らぬ白い乗用車が現れた。

 助手席から父が、運転席側から石岡が慌てた素振りで車外に降り立つ。社用で外回りに出ていたのだろう。車は社有車の様だ。

「室戸さん、有難うございます。君がいて助かった」

 父が沙耶に深々と頭を下げた。

「いえ、そんな。こちらこそ申し訳ありませんでした。何だか、私が巻き込んじゃったみたいで……」

 沙耶は恐縮した面持ちで父に頭を下げ、警察から放火の事で連絡を受けた件を話した。。

 警官に混じり、スーツ姿の刑事が両親に話掛ける。

 サイレンと共に新たにもう一台パトカーが到着し、後部座席から表情を硬く強張らせた老夫婦が姿を現せた。二人は警官に誘導されて僕の両親の前まで来ると、深々と頭を下げた。

 父に促されて頭を上げた二人は憔悴しきっていた。涙で赤く腫れあがった目をこする手は、小刻みに震えている。

 穏やかな口調で語る父との会話から察するに、二人は都賀葉月の両親の様だった。

 急に、門前を埋め尽くしていたパトカーが移動し始める。

 門の向こうに巨大な車体が見える。レスキュー隊の特殊車両だった。何人ものレスキュー隊員が崖を降りていく。特殊車両からアームが伸び、ゆっくりとワイヤー付きフックが降ろされていく。

 車ごと、無理やり引っ張り上げようという魂胆か。

 そのようだった。

 崖下のレスキュー隊員からの合図を受けて、ウインチがキュルキュルと音を立てて稼働を開始する。車体と岩盤との摩擦で生じた金属音が、まるで女性の悲鳴の様に響き渡る。

 一時間近く経過しただろうか。崖の向こうから車のひしゃげた後部が現れ、一気にその全貌が明らかになった。タイヤはあらぬ方向にねじ曲がり、ボンネットは運転席側に完璧に埋まった状態で、元の形状からは掛け離れた『塊』に近いものとなっていた。

粉々に砕け散ったリアウインドウの奥に、エアバックに埋もれた人の姿が見える。

レスキュー隊員が車のドアを開ける。

 同時に、血の気の失せた白い腕が、力無くシートからこぼれた。

 僕は眼を背けた。

 明らかに、生きている人のものではなかった。弛緩した腕の筋肉に、再び収縮する素振りは全くなく、最悪の結果を正視しなければならない現実だけが無常の時を刻んでいた。

 都賀葉月の車はブルーシートで覆われ、僕たちの視界から強制的に遮断された。

 やがてシートの傍らから毛布で包まれた人型が、担架に乗せられて待機中の救急車へと運ばれて行く。都賀葉月の両親は慌てて駆け寄ると、彼女の成れの果てと共に救急車に同乗した。

 都賀葉月は、もはや都賀葉月ではない。只の有機物の塊でしかなかった。

 だが、彼女の両親にとっては、かけがえのない娘に違いないのだ。彼女に寄り添う二人の姿はとても痛ましく、僕には正視出来なかった。

 例え彼女の身に起きた不幸が、彼女自身が犯した罪の報いであったとしても。

「家の中に入っていなさい」

 父の言葉に背中を押されて、母と沙耶に支えられながら、姉はゆっくりと立ち上がった。

 姉が腰かけていたエントランスの石段に、染みが出来ていた。目前を歩く姉の紺色のハーフパンツも、臀部の辺りの色の濃さが際立っている。

 姉は失禁していた。サイレンの音が過去の記憶を呼び起こしたのか、それとも都賀葉月の取った行動にショックを受けたのか。どちらにせよ、姉にとって余りにも衝撃的な出来事だったのは違いなかった。

 三人は周囲の喧騒から逃げ出すかのように、足早に家の中へと消えた。

 慌てて僕も姉達の後を追う――刹那。

 強烈な悪寒が、背筋をえぐるように走る。

 僕は身震いすると、立ち止まり、恐る恐るゆっくりと振り向いた。が、そこには僕を見据える者も、罵倒し愚弄する者も何もいない。

 でも。

 間違いなく誰かが、僕を睨みつけていた。

果てしなく渦巻く憤怒と悲しみに満ちた質感のある目線を、余す所無く注ぎこんで。

いったい誰なのだろう。

 まさか、都賀葉月?

 そんなはずはない。

 明らかに、彼女はもう・・・。

 ふと脳裏を過った非現実的な思考を振り払うべく、僕は頭を激しく左右に振った。

 

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