第8章 防禦

 土曜日だと言うのに、両親と姉は早朝から慌ただしく動き回っていた。

 玄関の掃き掃除から、部屋の片付け、廊下と階段のモップ掛けと、まるで年末の大掃除の様な騒がしさだ。

 来客が来るのだ。電気工事の関係者が三名と、何故か父が務める会社の社員が一名。

 と言うのも、急遽、家の周囲に防犯カメラを取り付ける事になったのだ。

 事の発端は、僕が奴の事を沙耶に告げたのがきっかけだった。

 あの日、沙耶が帰ろうとした時、僕は迷った末に彼女を追い掛けた。

 流石に、奴の事を話しておかなければならない――そう、思ったのだ。

 ただ、姉に話すのも何となく言い辛くて、かと言って沙耶に話すのも抵抗があった。 

 正直のところ、もうどうでもいいやとさえ思っていた。

 あの時、姉と沙耶の情事を垣間見てしまった僕は、自暴自棄になりかかっていた。

 それも同じ日に、葉月とも同様の関係にある事を彷彿させる行為を目撃した衝撃は、生きながらにして全身の皮膚を引き裂かれるよりも強烈な精神的苦痛を伴って、僕を虐げていた。

 あの二つの光景が、僕の抱いていた姉のイメージを根本から粉砕したのだ。

 何の為に守るのか・・・ひょっとしたら、姉の方が奴に襲われるのを望んでいるのではないか。

 無防備に部屋の窓とカーテンを開け放ったまま、自身を弄ぶ行為に浸っていたのは、きっとそうなのではないか。

 僕の勘繰りは、あってはならない方向に飛躍し、それと共に自身の魂が急速に荒廃化していくのを感じていた。

 それでも、僅かに思いとどまったのは、まだ心の奥底に残っていた、幼い頃に一緒に遊んだ姉との思い出だった。

 この思い出を汚し、僕達を恐怖に陥れたのは、奴だ。

 姉が奴に身を委ねようとは思っているはずがない。

 僕が姉を守らなければ、これからの未来も、また奴に汚されてしまうかもしれないのだ。

 僕はそう自分に言い聞かせると、自転車で門を出た沙耶に駆け寄り、事の一部始終を話した。

 過去にここで起きた事件の犯人が、再び姿を見せた事。

 そして奴は、いまだに姉をつけ狙っている事。

 もう一つ。

 奴は何故か沙耶の事を激しく嫌悪している事。

 沙耶は一瞬驚いた表情を見せたが、僕が話し出すと熱心に耳を傾けてくれた。

 奴が沙耶を異常に嫌悪している事については、彼女自身も首を傾げるばかりだった。彼女の知る限りでは、そのような人物はいないらしい。ましてや、露骨に嫌悪し薄汚い悪態をつく程だから、よほど腹に据えかねるような事態が起きたのだろうが、そんな記憶は沙耶には一切無いとの事だった。

「私じゃなかったら、親かなあ・・・それもおかしいし」

 沙耶は困惑した表情で、僕をじっと見つめた。

「美汐には、この事話したの? 」

「ちょっと・・・今は・・・話し辛くて」

 沙耶に問われ、僕はを濁した。

「そう・・・」

 たどたどしく答える俺を、沙耶は微笑みながら見つめた。

 彼女の澄んだ眼が、僕をじっと捉える。茶色かかった瞳の中に、当惑する僕の香をが映っていた。

 沙耶は徐に表情を曇らせると、生唾を静かに嚥下した。

 そして、意を決したかのように、ゆっくりと唇を開く。

「蒼人君・・・見ちゃった? 」

 沙耶が、僕の顔を覗き込む。

 僕は伏目がちに黙って頷いた。

「そっかあ・・・」

 沙耶は頬を強張らせながら、ぽつりぽつりと話し始めた。

 姉とは、前にここで住んでいた時から関係を結んでいたそうだ。

「蒼人君、ごめんなさい。私、美汐の事が大好きなの。美汐も私の事を想ってくれているの。だから・・・ごめんなさい」

 沙耶の眼に、涙が光っていた。

 僕は愕然としたまま、彼女を見つめていた。澄み切った瞳の奥に、ぶれない意志の強い輝きを湛えている。

 沙耶は純粋に姉を愛しているのだ。

 僕は黙って頷いた。

 驚く程に、僕は素直に沙耶の気持ちを受け入れていた。

 姉は姉なのだ。

 僕が独り占めにする事は出来ない。

 僕が勝手に作り上げたイメージの中だけで、姉を判断するのは、余りにも自分勝手な独りよがりだったのだ。

 ただ単に、僕は姉を奪われた事に戸惑い、嫉妬していただけなのだ。

 そう、思う事にした。

 そう思う事で、自分自身を納得させることにした。

 奴に姉を汚させる訳にはいけない。

 奴を敵視する事で。

 奴だけを標的にする事で。

 僕は、崩れそうな自我を必死で支えようとしていた。

「ありがとう」

 沙耶が、静かに微笑む。

「不審者の事は、私から話してみるから安心してね。蒼人君は、今まで通り美汐を守ってあげて」

 紗代はそう言うと、自転車で坂を下って行った。

 姉の幸せを望むなら、沙耶も僕の大切な人として捉えなければならない。

 また一人、守るべき魂が増えた。

 僕はそう、自覚した。

 家に戻ると、姉の部屋から話し声が聞こえて来た。

 誰かと電話をしている様だ。話し方からすると、相手は多分、沙耶なのだろう。

 恐らくさっき話した事を、彼女は早速姉に伝えてくれたのだ。

 僕はベッドに横になると、電話の会話に聞き耳を立てた。

 何をしゃべっているまでは聞こえないが、驚きの声を上げながら、真剣な口調で受け答えしているのは分かる。

 電話を終えると、姉は徐に僕の部屋にやって来た。

 予期せぬ姉の行動に戸惑っていると、姉は思いつめた表情で僕を見つめた。

「蒼人、ありがとう」

 姉はそう言うと、目を潤ませ名が僕に向かって頭を下げた。

「姉ちゃん・・・」

 驚いてベッドから半身を起こす。

「これからもよろしくお願いします」

 姉は頭を下げたまま僕にそう告げた。

 いったい、何に対してありがとうなのか。

 沙耶に伝えた奴の事を言っているのか。それとも、二人の交際を黙認したことを言っているのか。

 これからもよろしくってのは? 今まで通り、奴から守ってくれってことで、それ以上でもそれ以下でも無いよな?

 姉は困惑する僕に笑みを浮かべると、すっきりした表情で部屋を出て行った。

 崩れかけていた家のピースが、再び組み合わさったのを、僕は感じた。

 その日の夜、姉は葡萄園の放火魔を例に挙げ、この辺りに不審者が徘徊しているようだから怖いのだと父を説得し、対策を講じるように頼み込んた。

 その結果、家中のセキュリティーを見直し、防犯カメラをセットする事にしたのだ。

 父としても、不審者以外に葉月の襲来を確認したかったのだろう。決断から設置までの段取りは恐ろしく迅速だった。

 漸く掃除がひと段落着いた頃、一人の来客が現れた。

 長身で、髪を短めに整えた、見るからに清潔感のある青年だった。色白で痩身の体躯に黒い半そでのシャツにオリーブ色のスリムパンツを纏い、姿勢よく背筋を伸ばして直立している。温和なマスクに掛けられた銀縁の眼鏡の奥には、その性格を示すかのような優し気な眼が笑っていた。

「おはようございます」

「おはよう石岡君。悪いな、せっかくの休みの日に」

 会釈をする青年に、父が声を掛ける。

「いえいえ、僕の方からお手伝いさせて頂きたくて、声をお掛けしたんですから、気になさらないでください」

 青年は目を細めながら微笑んだ。

 父が勤め先から社員が一名来ると言っていたのは、彼の事らしい。

 何でもパソコンとかセキュリティー関係に精通しており、今回の工事についても彼にアドバイスを乞うたと言っていた。そして今日工事を実施する話をしたら、是非同席させて欲しいと自分から申し出てくれたそうだ。

 最初は父も断ったのだが、会社のセキュリティ―設備を構築した際も彼がかかわった事で順調に機能しており、普段も父の右腕として業務を支えてくれている彼の好意に甘える事にしたらしい。

 父が石岡を応接間に招き入れると、母が珈琲とお菓子を持って現れた。

「奥様、御無沙汰しております」

 石岡が母に会釈をする。

「石岡さん、お久し振り。こちらの生活は慣れました? 」

 母はにこやかに彼に話し掛けた。話し振りからすると、母は彼と面識があるようだ。

「はい。自然が多くていい所ですよね。魚も美味しいですし」

「それは良かった。今日はごめんなさいね、お休みなのに来ていただいて」

「いえいえ。お気になさらないでください。この手の分野は私の趣味でもありますので」

「じゃあ、宜しくお願いします」

 母は石岡に頭を下げると部屋を後にした。

 母が部屋を出たのを見届けると、石岡はそっと父に話し掛けた。

「支店長、ひょっとして今回の件は、例の事が関係しているのでしょうか」

「まあ、無い事はないが、どっちかと言うと、最近近所で放火があったのが一番の理由だな。それに・・・そっちの件はもう解決したものと思っているよ」

「まあ、そうですよね。本人も結婚するみたいだし。意外だったな・・・寿退社なんて」

「ああ、私も驚いた。でも、これでまあ、彼女にとってはいい方向に向かったのは確かだな」

 父がしみじみ頷く。

 葉月の事を言っているのだ。二人の会話から、石岡もどうやら彼女が過去に起こしたストーカーの一件を知っているらしい。

「実はつい最近まで、都賀は頻繁にここに来ていた。私が出社した後だけどね」

「えっ!? まさかっ? 」

 父の言葉を聞き、石岡の表情が硬く強張る。

「安心してくれ。ストーキングじゃない。娘の家庭教師をしてくれてたんだ」

「家庭教師? 」

 石岡がきょとんとした表情を浮かべた。

「石岡君には言ってなかったか。実は娘は宅浪中なんだ。予備校も塾も行かずに、家で試験勉強をしているんでね、正直、都賀が娘の面倒を見てくれたのは有難かったな。でも、どうやら彼女も色々と忙しくなってきたらしく、今はもう来ていなようだけどね」

「そうなんですか・・・支店長には、特に何も無かったんですか? 」

「ああ、何も無かった。都賀も、娘に気を遣って面倒を見てくれたんだろうな。あの一件で、俺も本社から地方に飛ばされた訳だからな。ある意味、俺へのお詫びかもしれないなとは思っている」

「そうかもしれませんね」

 父の推察に、石岡は同意した。

「支店長、娘さんが受験生なのでしたら、物音には気を配るよう、工事担当者にも申し入れておきます。なるべくご迷惑を掛けない様に致しますので」

「ああ。ま、余り気を遣わなくても大丈夫だよ」

 父は答えると、珈琲に口を付けた。

 玄関の呼び鈴が鳴る。

「たぶん、電気工事業者の方ですね」

「そうだな。行こうか」

 父と石岡はソファーから立ち上がると、足早に玄関に向かった。

 玄関には、父と同じ位の年恰好の工事担当者が一名と、石岡と同じ位かと思しき若い担当者が二名、工具箱を片手に立っていた。

 彼らと父達は挨拶を交わすと、図面をもとに設置個所の再確認を始めた。

 その後は、電気工事の担当者がカメラの取り付けとケーブルの設置を淡々とこなしていく。

 父と石岡は取り付け場所を確認した後、リビングに戻って来た。

 石岡はリビングの片隅に机を置き、新しく設置したパソコンの前に腰を降ろした。

 父が見守る中、石岡がパソコンの設定に取り掛かる。パソコンはカメラ専用に購入したデスクトップのもので、専用の机の上に設置し、チェアーも用意した。更に同じものを両親の寝室の隣にある父の書斎にも設置し、両方で確認出来るようにした。

 カメラは全部で八台。家の側面四面が映る様に四台、正門、二階のバルコニー、車庫、玄関に各一台。カメラは動体を捉えたら足がを開始するように設定し、保存する映像を絞り込めるようにした。また、マニュアル操作で通常録画も可能となる様になっている。金額的にいくらかかったのかは分からない。だが、その代わり、安心と安全が保障されるのなら安いものだ。

 電気工事の技術者もパソコンの設定に来たものの、ほとんど石岡一人でやってのけた。

 更には、業者が用意したマニュアルを元に、自身でデジカメ撮影した画像を加工して簡単操作マニュアル迄創り上げてしまった。

「メーカーさんのマニュアルは完璧なんですが、肝心な所が省略されている事が多いんですよね」

 彼がそう言いながら造り上げたマニュアルは、パソコンの操作が全く分からない人でも出来るような、要点を絞ったもので、しかも専門用語を使わずに表現してあり、これなら僕や母でも何とか操作出来そうだ。

「マニュアルはこのパソコンに保存してあります。そうだ、支店長の書斎のパソコン、プリンターが繋がってましたよね。プリントアウトしてよろしいですか? その方が使い勝手がいいですから」

「ああ、頼むよ」

 父が笑みを浮かべながら石岡に依頼した。

「あのお兄さん、凄いね。うちに引っ張りたくなるな」

 年配の工事担当者が目を細め、関心した様に何度も頷いた。

 カメラの設営から何から何まで終了したのは十一時を少し回った頃だった。電気工事の業者の方々は早々に引き上げ、石岡は父がお礼に外で食事をして来ると言って連れ出したので、家には姉と母と僕の三人だけが残された。

「お父さん達、お寿司食べに行くみたいよ」

 キッチンへ飲み物を取りに来た姉に、母が羨ましそうに言った。

「いいなあ。ね、お母さん、お昼、出前取ろうよ。私達も朝から掃除したんだし、御褒美があってもいいと思うんだけど」

 姉が言葉巧みに母に色目を使う。

「そうよね! 出前取ろうか? 何がいいの? やっぱ上寿司かな」

 姉の口車に乗った母が、がぜんその気になる。

「私、鰻重! 」

「え!? 」

 姉の変化球に戸惑う母だったが、結局寿司を頼むみたいだ。姉は不満気だったが渋々頷いている。

 二人のやり取りに苦笑を浮かべながら、僕は何気にモニターに目を向ける。

 今はテスト的にカメラを連続駆動しているから、モニターには設置した八箇所の映像が流れている。

 当然、動くものは無く、同じ映像がただただ映し出されているだけだった。

 これで奴が忍び込んできても、映像を証拠に不法侵入で警察に突き出せるのだ。

 何となく、じわじわと安堵感がこみ上げて来る。

 ふと、視界の片隅に何かが見えた。

 モニターの映像じゃない。

 僕の眼に、それは直接映り込んできたのだ。

 僕は反射的に眼を向け、視界に飛び込んできた違和感を追う。

 意識が凍りつく。

 奴だ。

 リビングの窓の外から、奴がこちらを見てにやにや笑っている。

 そんなはずは・・・。

 僕は慌ててモニターを見た。

 何も映ってはいない。

 再びリビングの窓に目線を向ける。

 いない・・・。

 気のせい?

 僕は窓に駆け寄り、外の様子を見た。

 誰もいない。

 誰もいないのだ。

 じゃあ、さっきのは・・・。

 僕は呆然と立ち竦んだまま、窓外の風景を凝視していた。


 

 

 

 

 





  


 

 

 

 

 

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