第7章 周章 

 翌日、両親が家を出た後、僕は姉の部屋に向かった。

 葉月とはもう会わない――昨夜、両親にはそう言い切っていた姉だが、その後に見せた複雑な表情を、僕は見逃さなかった。

 父のストーカーだったという葉月の知らざれる過去を垣間見た姉の心境は、僕には分からない位、苦悶に満ちたものに違いなかった。

 短い期間の間に、本当の姉の様に慕う関係になっていたのだ。

 だがそれも、父親に近付く為の策略だとしたら、腹立たしさよりも虚しさが心の深淵を埋め尽くしているのだと思えた。

 そうなれば、当然、姉の意識はは嫌悪と憤怒に支配され、葉月に関わる感情は全て拒絶、払拭されるはず――なのに。

 あの時、一瞬姉の顔に浮かんだ表情は、吐き捨てた言葉とは異なる装いを醸していた。

 姉は葛藤していた。

 困惑でも、躊躇でもない。

 何かが、姉の中でぶつかり合っていた。

 それが何なのか、僕には分からなかった。

 ただ何となくすっきりしない、もやもやした感覚に、僕の思考は消化不良に陥っていた。

 姉の真意が知りたかった。

 もう二度と、葉月とは会わないのか。

 それとも、過去を知った上で、今まで通り親に内緒で会い続けるのだろうか。

 僕か聞いたところで、答えてくれるとは思えなかった。

 でも、確かめずにはいられなかった。

 僕としては、そう・・・やっぱり会って欲しくない。

 あの時、去り際に僕に向けられた憎悪の視線。今思えば、ひょっとしたら沙耶に向けられたものなのかもしれない。

 貰い物の御裾分けだと言ってて持ってきた葡萄が、偽りであったのがばれた事への、沙耶への逆恨みだとすれば、何となくストーリーが成り立つ。

 この延長線として、沙耶の葡萄直売所への放火事件へと話が繋がっていくような気がする。

 でも何故、葉月は偽る必要性があったのか。

 理由が分からないだけに、得体の知れない怖さがあった。

 僕は部屋の前で姉に声を掛けると、静かに中に入った。

 姉は誰かと電話中だった。

「――そうですか、お忙しいですものね。今まで有難う御座いました」

 姉は電話起きると、大きく吐息をついた。

「葉月さんの方から断りの連絡をしてきたよ。色々と忙しくなるから、もう来れないって」

 姉は携帯をベッドに投げ出すと、自身もごろりと横になった。

「何かすっきりしないよ」

 姉は天井を見つめながら呟いた。

 何はともあれ、結果としては良かったのだと思う。

 これで、葉月がこの家に関わる事は無いのだから。

 不意に、姉の携帯が鳴る。

 沙耶からの様だ。

「え、放火魔つかまったの!? 犯人はどんな奴? 三十代の無職の男かあ。え、死んじゃったの? 何処でよ。警察がアパートに乗り込んできた時に、三階の部屋から飛び降りて――」

 沙耶の直売所に放火したのは、葉月じゃなかったのだ。

 電話の会話を盗み聞きした感じでは、容疑者は逃走を図ったものの死亡したらしい。

 意外な展開だった。姉は勿論、僕自身も拍子抜けしたからなのか、中途半端な虚脱感と倦怠感に全身の筋肉が翻弄され、情けないくらいに弛緩していた。

 僕は、突然舞い込んだ結末に安堵を噛みしめながら、姉の部屋を後にした。

 自分の部屋に戻り、ベッドに身を委ねる。

 難解不落かと思われた問題が、思いも寄らぬ展開で、一気に片付いてしまった。

 それも、全て他力本願ときた。

 まあ、その方がこちらとしても火の粉がかかる訳でもないので、と言うよりも勝手に遠ざかってくれた訳で、立ち回りとすれば理想的な展開だった。

 後は、奴だけを警戒していればいい。

 でも、こいつが一番厄介な問題かもしれない。

 驚異的な身体能力で忍び込んで来る、まるで忍者の様な輩を相手に、武道経験は愚か腕力もままならない僕がどう対峙すればよいのか。

 答えを導き出すには余りにも難易度が高い問題だった。

 正門の辺りで車のエンジン音が聞こえる。

 誰だろう。

 運送業者? 

 それとも沙耶?

 僕はベッドから跳ね起きるとバルコニーに出た。

 エントランスの向こうに、黒い車体の軽自動車が駐車しているのが見える。

 あれは、葉月の車だ。

 さっきの姉への電話では、もう来れないって言っていたのじゃなかったのか?

 姉の部屋のドアが開き、やがて軽快なリズムを刻む足音が響く。

 出迎えに行ったのだ。

 俺は姉の後を追う様に自分の部屋を出た。

 姉は階段を掛け降りると、少しの躊躇いも無いままに玄関の扉を開けた。

 扉の向こうには、葉月がミカン箱位の段ボールを抱えて立っていた。

 ベージュのカットソーにネイビーのフレアスカート。決して派手な装いじゃないものの、彼女の清廉な容姿が華やかな雰囲気を醸していた。

「ごめんなさい、急にこれなくなっちゃってさ。これ、さっき電話で話した私が受験の時にまとめたノートや資料。参考になればと思って」

 葉月は玄関のフローリングに段ボールを降ろした。

「有難うございます」

 姉は嬉しそうに笑顔で答えた。

「美汐ちゃん、もう一つ謝んなきゃならない事があるの」

 葉月が神妙な面持ちで姉を見つめた。

「この前持ってきた葡萄なんだけど・・・あれ、本当は買ったやつなんだ。美汐ちゃんのお友達の所で」

「えっ」

 姉が小さく驚きの声を上げた。

「わざわざ買って来たって分かれば、ご家族の方が気を遣うでしょ。だから嘘をついたの」

「どうして、そこまでして・・・」

 姉が困惑の表情で葉月を見つめた。

「皆さんに、お詫びをしたかったから」

「お詫び? 」

「私、美汐ちゃんのお父さんのストーカーだったの」

 葉月が、躊躇いがちに言葉を紡いだ。

 姉の表情が強張る。

 半開きの口から、静かに呼気だけが漏れていた。

 僕は葉月を凝視した。

 最初の葡萄の一件を遥かに上回る衝撃の告白だった。

 思いも寄らぬ葉月の告白に、姉も僕も次に発する言葉を見失っていた。

「入社した時の新人研修で色々とお世話になって・・・優しくて、頼りがいがあって、責任感があって・・・私にとって最高の上司だった」

 葉月の一言一言が、信じがたい現実となって、姉と僕の意識に衝撃の刃筋を刻んでいく。

「尊敬が憧れに変わって、そして抑えきれなくて。でも、あなたのお父さんが愛していたのは、美汐ちゃん達家族だった。私、やっと気付いたの。私がしていた事は、お父さんだけでなく、彼が大切にしている家族の皆さんにまで迷惑をかけていたって。尊敬する上司に、私は恩を返すどころか苦しみを与えてしまっていたって。それで、お詫びがしたくて・・・ごめんなさい」

 葉月が深々と頭を下げた。

 顔を上げた彼女の大きな眼には、澄んだ輝きが揺れ動いていた。

 涙だった。

 それは、彼女が瞬きをするたびに、頬に幾筋もの軌跡を描いて行く。

 僕は葉月をじっと見つめた。

 暗い翳りを落す彼女の表情は硬く強張り、溢れ出る涙をこらえようと小刻みに震えている。

 彼女の涙が、まやかしの様には思えなかった。

 恐らく、姉もそう感じたのだろうと思う。

 葉月と対峙する姉の身体から、葛藤する魂の気配が静かに昇華していくのを、僕は感じ取っていた。

「美汐ちゃん、本当にごめんなさい。私でも役に立つならと思って、美汐ちゃんに色々と教えてあげようと思って・・・決して家族の間に入って邪魔建てしようとは思っていないから・・・私の事、嫌いになった? 」

 葉月がじっと姉の眼を見つめた。

 姉は静かに首を横に振った。憂いに満ちた葉月の瞳に、穏やかな表情の姉の顔が映っていた。

「美汐ちゃん、有難う」

 葉月は姉を抱き締めた。

 彼女が、唇をそっと姉の唇に重ねる。

 姉は抗う事無く、目を閉じてそれを受け止めた。

 時が止まった。

 そして。

 僕の思考は零になった。

 全ての背景がモノトーンに沈み、葉月と姉の輪郭だけが白く浮かんでいる。

 僕が階段の陰から覗き見ている事に気付かないのか、葉月と姉は貪るように互いの唇を食んだ。

 何の躊躇も見られない二人の行動は、それが今回が初めてではなく、常習的に行われている行為である事を、明確に裏付けていた。

 僕は眼球が零れ落ちそうになる位にまで目を見開き、不条理な現実を反芻した。

 昨夜、姉が見せた葛藤の表情の理由が、これだったのか。

 あの状況でも、葉月との関係に終止符を打ちたくなかったのだ。

 家庭教師と生徒の枠を超えた、二人の情念が絡み合う淫欲の関係に。

 葉月が、そっと唇を離す。

 姉は物足りなさそうに、恍惚とした目で葉月を見つめた。

「今日はここまでね。もうすぐ、美汐ちゃんのお友達が来ちゃうから」

「沙耶が? 」

「そ。途中、車で追い抜いたの。そろそろ着く頃だと思うしね」

「分かった」

「じゃ、また都合が良くなったら連絡するから」

 葉月はそう言うと、再び姉の唇に軽く唇を重ねた。

「それじゃ」

 葉月は姉から離れると、逃げるように扉を開けて去って行った。

 と、ほとんど間を開けないうちに、玄関の扉が開いた。

 沙耶が、きょとんとした表情でエントランスの方を見ていた。

「いらっしゃい・・・どうしたの? 」

 沙耶の奇行に姉が首を傾げた。

「家庭教師のお姉さんとそこでいれちがったんだけど、さっき私に謝って来たのよ。昨日はごめんなさいって」

「あ、多分、それ葡萄の事だよ」

「葡萄? 」

「自分からゲロった。本当は沙耶ん家で買ったんだけど、私達が気を遣わない様に嘘をついたんだって」

「それでか」

 姉の説明に、沙耶は納得したらしく、大きく頷いた。

「上がって! 部屋で話そうよ」

 姉は沙耶にそう促すと、足元の段ボールを抱えた。

「何、それ」

「家庭教師のお姉さんから貰ったの。受験の資料だって。レベチだから、私には難し過ぎてそのままは使えないけど、参考にはなるかも」

「ふうん」

「お姉さん、もう来れないんだって」

「え? 」

「結婚するから、その準備で忙しくなるんだろうな。詳しい理由は聞いていないけど」

 姉は淡々と語ると、一度箱を持ち直し、階段を上がり始めた。

 まずい、と思ったが遅かった。このままじゃ、僕が葉月との行為を覗き見ていたことに気付かれてしまう。

 僕は偶然鉢合わせた様な素振りを演じながら、あたかも進路を譲るかのように、なにくわぬ顔で階段を上がった。

「御邪魔します」

 沙耶が笑顔で声を掛けて来る。暑さのせいか、白地に英語のロゴが入ったTシャツが彼女の肌に貼り付き、ふくよかな双丘を覆う白いブラジャーがはっきりと浮き上がって見える。彼女のベージュのショートパンツも同様に、黒々と浮かぶ汗染みが微妙な陰影を醸していた。

 僕はどきどきしながら、それを悟られない様に黙って会釈をした。

「沙耶、汗凄過ぎ。車で来たんじゃないの? 」

「チャリだよ」

「え、あの坂登って来たんだ」

「中学の時みたいにすいすいって訳にはいかなかったけど、何とかね。海岸から来る方が近くていいんだけど、潮が満ちてきたら帰れなくなるし。歩いて坂道下るのは遅くなるし」

 沙耶が苦笑いを浮かべる。とは言え、あの坂を自転車で登って来たのは大したものだ。小学生の頃、あの坂を上り下りして通学するのが嫌で仕方が無かった。通学路がずっと平坦な道ばかりの友達が羨ましかったのを覚えている。

 この屋敷を建てたのは僕の曽祖父だ。

 曽祖父はこの地方の銀行の頭取を務め、その後、県会議員や知事を経験している。

 自分で言うのもなんだけど、縞川家はこの地方では知る人ぞ知る名家で、金融や政治の世界に多くの血縁者を排出してきたらしい。因みに祖父も曽祖父と同じ銀行で頭取まで昇進し、その後早々と同じく地方政界に進出している。この流れで行けば、父もいずれ政界に進出するのかもしれない。

 そんな曽祖父だったからか、選民意識が強く、それもあって人から見降ろされる場所に住居を構えたくないと言う妙な考えから、この小高い丘に家を建てたそうだ。

 僕が生まれた頃には、もう他界していたので、曽祖父が実際どんな人物だったかは分からない。だけど、曾孫の僕としては、くだらない自己顕示欲を満たすために、山城気取りでこんな場所に家なんか建ててんじゃねえとつくづく思う。。

「沙耶ちゃん、シャワー浴びた方がいいよ。服も洗濯しちゃお」

「え、でも・・・」

「帰るまでには乾くよ。乾燥機に放りこむから大丈夫」

 姉は自分の部屋に段ボールを降ろすと、箪笥からバスタオルを二枚取り出した。

「一緒にシャワー浴びよ」

 姉が遠慮がちな沙耶にバスタオルを手渡した。

「じゃあ、そうしようかな」

「うん、決定! 」

 姉が沙耶の手を引き、階下のバスルームへ向かう。

 流石にその後を追う訳には行かないので、僕はやむなく姉の部屋に残る事にした。

 それ自体、姉に怒られるのかもしれないけれど、確かめておきたい事があったのだ。

 葉月が姉に渡した段ボールの中身。

 興味と言うよりも、不安の方が大きかった。

 僕は不安が思い過ごしであるよう祈りながら、段ボールのフラップを捲った。

 参考書やノートが、ぎっしりと詰まっている。

 ノートを手に取り、ぱらぱらと捲ってみた。

 思わず舌を巻く。

 難しい文言や方程式が緻密書き込まれていると思ったが、そうではなかった。

 読みやすい字で要点だけシンプルにまとめられたノートは、そのまま参考書として販売できるくらいのレベルだった。

 葉月の頭の良さが、際立って見えた。

 このノートを参考にすれば、姉も浪人生活から卒業できるかもしれない。

 段ボールの中を人通り目を通してみたが、純粋に受験に関わる資料のみが梱包されていた。

 僕が案じていた事案――ついさっき、玄関で垣間見た二人の関係に触れる物は無かった。

 それを期待して物色したんじゃない。万が一、沙耶の眼に留まったらまずいような気がしたのだ。

 段ボールの中身を元に戻したタイミングで、姉達が部屋に戻って来た。

 まずい。

 階段の時は上手くやり過ごせたが、流石にここはヤバいかも。

 今更部屋を飛び出した所で、鉢合わせになるだけだ。

 咄嗟に僕が逃げ込んだのは、姉のベッドの下だった。

「クーラーつけとけばよかったね」

 姉が残念そうに沙耶に言った。

 ベッドがきしみ、二人の足首が目の前に見えた。

 二人とも、ベッドに腰を降ろしたらしい。

「放火した犯人、よく捕まったね」

 姉が徐に話を切り出した。

「監視カメラに犯人の姿と車のナンバーが映ってた。この時期になるとさ、葡萄を盗みに来る奴がいるんで、去年、果樹園と直売所に監視カメラ付けたんだよね」

「カメラつけて正解だったね」

「そ。正解だった」

「犯人、どんな人なの? 」

「それが、知らない人なんだよ。私は勿論だけど、親もじいばあも知らないって」

「お客さん? 」

「かもしれない・・・でも、そんなお客さんを怒らせるようなトラブル起きてないから、全然見当が付かないの。でもさ、ひょっとしたら私達には些細な事だと思っていても、お客さんに取っちゃ許せないような事があったのかもしれない――でも、今となっては何も調べようがないし」

「犯人、死んじゃったもんね」

「うん」

「刑事さんが言ってたけど、犯行の動機とかもう少し調べてみるって」

「そうよね、すっきりしないもんね」

「うん」

 不意に会話が途切れた。

 何やらひそひそ話を始めたのか、姉が沙耶の体にぴったりと身を寄せた。

 まずい。

 僕がベッドの下に隠れているのがばれたのかも。

「美汐、喉かわいちゃった」

 沙耶が姉に話し掛けた。

「分かった。何か飲み物持って来るね」

 姉は、ベッドから立ち上がると、部屋から出て行った。

 出来れば、沙耶もトイレにでも行ってくれると助かるのだけど。

 不意に、目の前に黒い影が現れる。

「わっ! 」

 僕は思わず叫び声を上げると、ベッドで頭をぶつけた。

「蒼人君、そこで何してんのかなあ」

 沙耶が、じっと僕を見つめている。

「あのう、これは・・・ごめんなさい」

 僕は観念してベッドの下から這い出した。

 驚いた事に沙耶は体にバスタオルを巻き付けただけの格好だった。姉は彼女に服を貸さなかったのか。それとも彼女が遠慮してそれを断ったのか。バスタオルでは隠し切れない胸元の谷間が、生々しく目に飛び込んで来る。

「部屋を出るなら今のうちだよ。お姉さんには黙っておくから」

 予期せぬ沙耶の言葉に、僕は驚きを隠せなかった。

 てっきり説教されえた上で、姉に突き出されるものと覚悟していたのだ。

「蒼人君、お姉さんをずっと守ってるんでしょ。あの時以来・・・」

 沙耶が、優しい眼差しで僕を見つめた。

「はい」

 僕は素直に頷いた。

「だと思ったよ。でも、ベッドの下はやり過ぎかな」

「でした」

「さ、美汐がも出って来る前に、部屋から出て」

「有難うございます」

 僕は何故か沙耶に敬礼すると、あたふたと姉の部屋から飛び出し自分の部屋に飛び込んだ。

 二呼吸後、姉が軽快な足取りで階段を駆け上がって来る。

 僕はベッドに横になると、文庫本を手に無関心を装う。

 不意に、姉が僕の部屋に入って来た。驚いた事に、姉も沙耶と同じくバスタオルを体に巻き付けただけのあられも無い恰好のままだった。

 ひょっとしたら、ベッドの下に隠れていた事が姉にもばれていて、僕に説教しに来たのか。

「これ、蒼人の分ね」

 姉はジンジャーエールのペットボトルを僕の机の上に置いた。

 手にはコーラのペットボトルを二本抱えている。

「ありがと」

 そそくさと部屋を出て行く姉の背に、お礼の言葉を投げ掛ける。

 安堵の吐息が、無意識のうちに喉元から迸る。

 どうやら姉は気付いていなかったらしい。

 自分の足元に僕が息を潜めて隠れていたなんて知ったら、多分、一生口をきいてもらえないだろう。

 僕は文庫本を枕元に置いた。

 姉は話すつもりなのだろうか。

 葉月が、父のストーカーだったって事を。

 言わない。

 多分、言わない。

 玄関での感じじゃあ、これからも関係を続けたいような素振りだった。

 なら、友達の沙耶に対しても悪い印象を与えるような言葉を綴りはしないだろう。

 僕は、ジンジャーエールのボトルに手を伸ばし――止まる。

 嫌な気配を感じる。

 僕は五感を研ぎ澄ませる。誰に教わった訳でもない。ただ僕の本能が、無意識のうちに僕にそうさせていた。

 僕の気を乱す、異様な違和感。

 外。バルコニーだ。

 僕は部屋を飛び出した。

 窓を開け、外に出る。

 奴がいた。

 あの夜に現れた時と同じ風貌で。

 季節に逆行するかのような上下黒のスエット。しかもトップスは長袖だ。

 奴はバルコニーの手すりに腰掛け、腕を組みながら不満気に俺を見据えている。

「おい、何であいつを引き込んだ」

「あいつって? 」

「あいつはあいつだ。名前なんか呼びたくねえ、反吐が出る」

「沙耶さんか? 」

「そいつだよそいつ! 俺はそいつが大っ嫌いなんだ! 」

 奴は忌々し気に罵ると、唇をわなわなと震わせた。

「妙な家庭教師が来たかと思えば、今度はあいつかよっ、くそっ! 」

「沙耶さんの事、知っているのか? 」

「知らねえし、知りたくもねえ」

 奴は眉間に皺を寄せながら、嫌悪露に吐き捨てた。

「何故、そこまで彼女を嫌う? 」

「うるせえっ! 今日は気分が悪い。帰るぜ」

「一生来るな」

 一気に間合いを詰め、奴に殴り掛かる。

 消えた。

 一瞬きもしていない、ほんの僅かの時の狭間をかいくぐる様に、奴の姿は僕の視界から消え去っていた。

 バルコニーの手摺から身を乗り出し、周囲の様子を伺う。

 いない。

 目の前の薮にも、海岸へ抜ける庭の小径にも、正門に続く小径にも、奴の姿は無かった。

 ひょっとしたら、このバルコニーの下?

 僕は更に手摺から身を乗り出した。

「誰を探してんだあ? 」

 嘲笑を浮かべる奴の顔が、僕を覗き込む。

 奴は僕の真横にいた。

 そんなはずは・・・?

 信じられない。

 奴は消えたのだ。

 確実に、僕の視界から消え失せたはずなのだ。

 奴は僕の両足を抱え込む。

 一瞬の出来事で、僕には抵抗する余地すらなかった。

 体が、中空に投げ出される。

 奴が僕を逆さに抱えたまま、バルコニーの手摺を乗り越える。

 声が出ない。

 超高速で迫り来る地面。

 このままじゃあ、頭から地面に打ち据えられて死ぬ。

 寸刻みで過ぎ行く時の狭間で、死への恐怖が一気に増大する。

 止まった。

 地面まで後数ミリの所で、落下が静止に転じた。

 奴が僕の身体を解放した。

 地面に倒れ込む。

 動けなかった。死を覚悟した恐怖の余韻が身体の震えとなって僕の身体を支配し、弛緩の束縛を緩めようとしなかった。

「小便漏らさなかっただけ大したもんだぜ」

 奴は冷笑を浮かべながら、僕を見下ろした。

「これで分かったろ、お前の実力じゃ俺は倒せねえ。舐めた真似するんじゃねえぞ」

 奴は小馬鹿にしたように僕を侮辱すると、姿を消した。

 堂々と正門から出て行く奴の姿を、朧げながら視界の片隅で捉えた。

 情けなかった。

 涙が止まらなかった。

 実力の差を見せつけられた悔しさと、余りにも無力な自分の不甲斐なさに、僕は声を殺して泣き続けた。

 十数分経った頃に、僕は漸く立ち上がることが出来た。体の震えは治まったものの、全身に纏わり付く虚脱感までは拭い切れない。

 よろよろとゾンビの様な足取りで玄関に向かう。

 流石に、この事は姉にも伝えなければならない。

 勿論、沙耶にも。

 ドアノブに手を掛ける。

 開かない。訪問者を拒絶する金属音だけが無機質な旋律を刻む。

 防犯の為、常に施錠しているのだ。

 呼び鈴を鳴らして姉を呼んでもいいのだが、何となく気が引けた。

 登ってみるか。

 僕はバルコニーを見上げた。

 多分、奴も支柱をよじ登って来るのだろう。 

 僕にも出来るかもしれない。

 再びバルコニーに向かう。

 支柱には白いペンキが塗られており、汗ばんだ手で触れると滑り、その挑戦が容易ではない事を悟る。当然、電柱の様に足を掛ける金具などついていない。

 よしっ!

 僕は支柱にしがみ付いた。予想通り、汗ばんだ掌が支柱の表面との摩擦を和らげる潤滑剤となって、体は一向に上に上がらない。

 勿論、それだけじゃない。腕力、握力、脚力・・・様々な面で、僕は奴より劣っている。

 でも。僕は諦めない。

 掌の汗を拭いながら、何度も支柱に飛びつく。

 まるで、風に揺れる柳の枝に掴まろうとする雨蛙の様に。

 実際には雨蛙よりも無様だ。

 奴が見ていたら、腹を抱えて笑うだろう。

 其れでも何度か試みているうちに、こつが呑み込めてきた気がする。

 両手の指に力を籠めると同時に、足で支柱を挟み込む。

 これを繰り返すのだ。

 何回目の挑戦に当たるのだろうか。

 僕は漸くバルコニーの支柱を昇り詰め、柵に手を掛けた。

 ここまで来れば、後は簡単だ。

 手摺を乗り越え、バルコニーのフロアーに転がり込む。

 出来た。 

 奴しか出来ないと思っていた事が、僕にも出来た。

 他愛も無い事かもしれない。

 でも、達成感が半端無かった。

 やれば出来るのだ。まずは挑戦してみない事には、先に進まないのだ。

 大きく息を吐く。

 奴には負けない。

 出来無いと諦めていた事を成し遂げた結果、僕は確実に数段成長したような気がした。

 僕は意気揚々と自分の部屋に向かった。

 奴の事を二人に話さなけれえばならないのだ。

 奴がいまだに姉を付け回している事、そして何故か小夜の存在に嫌悪している事を。

 自分の部屋に戻る前に、何気に姉の部屋を覗いてみる。昼間だと言うのに、姉の部屋は遮光カーテンが閉じられ、外界と完全に遮断されていた。

 おかしい。

 さっきまで、カーテンは開いていたはず。

 僕は姉の部屋に近付き、僅かに開いたカーテンの隙間から何気なくそっと中を伺った。

 見なければよかった。

 僕の眼には、唇を重ねながら、裸で抱き合う姉と沙耶の姿が映っていた。

 ベッドに仰向けで横たわる姉の上に、沙耶が覆いかぶさるように体を重ね、足を絡め合っている。

 姉は、沙耶とも関係を持っていたのか。

 僕は愕然としたまま、愛撫し合う二人の姿を凝視した。

 姉には、もはや清廉なイメージは一片も残ってはいなかった。

 淫獣だった。

 本能の欲するままに、衝動的な感情に溺れる欲情の化身にしか思えなかった。

 これじゃ。

 奴と一緒じゃないかよ。

 度重なる情念の渦巻く光景に、僕は、姉に抱いていた禁忌の思いが急速に薄れて行くのを感じ取っていた。

 



 

 

 


 

 

 

 

 




 

  



 

 

 

 

 

 


 

 

 




 

 

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