第6章 厭忌

 夕日が、窓から見える風景を気だるいオレンジ色の光で包みこんでいる。

 葉月が立ち去った後、天候はまるでこれからのストーリー展開を物語っているかのように荒れ始め、大粒の雨と雷の応酬で乾いた大地を瞬時にして湿らせた。が、厚く層を成していた雲もおりからの強風には逆らえず、一時間程立った頃には、先程までの悪天候が幻であったかのように、雲一つない夕空にロケーションを塗り替えていた。

 沙耶はつい先ほど帰って行った。海岸は潮が満ちて居て通れないからか、帰路は正門を抜けて行った。

 僕は思わず耳を澄まして彼女の足音を確かめた。

 思ったほど聞こえない。

 やっぱり、あの夜、奴は正門から逃走したのは間違いないだろう。

 成り行きとは言え、本人の知らない間に変、質者の逃走経路の検証に利用させてもらったのはちょっと申し訳ない気がした。

 僕はベッドに寝そべりながら、ぼんやりと夕空を見上げた。

 姉は沙耶との再会を喜び、長い間自室で話し込んでいた。

 沙耶がきっきかけになって、過去の記憶がフラッシュバックするのではないか――そんな危惧を抱いていたものの、どうやらそれは僕の取り越し苦労だったようだ。

 不意に戸口に人の気配を感じる。

 姉だった。僕はゆっくりと身を起こし、姉を見つめた。

「沙耶から聞いたよ。蒼人がここまで案内してくれたって。喜んでた」

 姉が、温和な笑みを浮かべながら僕を見つめた。沙耶さんが僕の事を姉に話したらしい。

「それと、葉月さんの事も聞いた。まさかと思って冷蔵庫の葡萄の包装紙を見たら、沙耶ん家のやつだった。葉月さん、なんで私達にあんな嘘をついたんだろ」

 姉は首を傾げると大きく吐息を着いた。

「ただいまあっ!」

 階下から母の声が響く。外出から帰って来たらしい。

「美汐、ちょっと来てえ!」

 母が明るい声で姉を呼ぶ。

「はあい、今行く」

 姉はそう答えながら、小走りで階下へと向かった。

 僕は呆然としたまま、姉の姿を見送った。

 姉が、葉月に疑問を持ち始めている。僕と同じように。

 姉に伝えるべきだろうか。あの時の豹変した表情の事を。

 否。まだ早い。向こうがあからさまに尻尾を出すまでは、僕達は平静を保っていた方がいい。姉は用心深い性格だ。一度疑問に思えば、明らかに態度に出るし、自分からは接触しなくなるだろう。でもそれじゃあ解決した訳じゃない。

 真実を掴まない事には、先々何が起こるか分からない。まだ葉月が嘘をついてまで僕達の御機嫌を取ろうとしている意図が分からないうちは、あえて避けるのはまた別のリスクを負う事になる気がする。

 葉月の目的――それを掴めば、全てが明白になる。

 ベッドから立ち上がると、僕は階下へと向かった。階段を降り切った所で思わず立ち止まる。

 重く冷たい空気が、僕の脚元に纏わりついていた。生唾をごくりと嚥下し、ゆっくりと振り返る。階段横から奥に続く廊下。その奥のふすまに閉ざされた和室が否応なしに眼に映る。

 僕は嫌悪に顔をしかめながら眼を反らした。僕にとって、あの場所は鬼門だった。霊感が特別強い訳じゃない。でも、幼い頃から、あの部屋は近寄りがたい雰囲気を醸していた。

 僕の存在を根底から打ち崩すかもしれない、意識を底知れぬ畏怖に翻弄する不思議な気が、あの部屋からじわじわと滲出しているのだ。実際、家族もほとんど近寄らない。僕に至っては『開かずの間』と位置づけている禁忌の部屋だった。

 それ故に、階下に来ると否応無しに眼に触れる為、僕の生活拠点は二階中心になっていた。

 ぞくぞくする嫌な寒気が、背筋を掛け抜ける。

 あの部屋を意識する事すら、僕にとっては耐え難い苦痛なのだ。

 頭を左右に振り、意識下から奥の間への追想を遮断すると、僕はキッチンへと向かった。

 母は外出の後に買い物をしていたらしく、幾つかの買い物袋に入った食材の片づけを姉に指示していた。

「お母さん、ちょっと気になる事があるんだけど」

あらかた片づけ終えたころあいを見図ったかのように、姉は徐に口を開いた。

「何? 模試の結果?」

 心配そうに振り向く母に、姉は苦笑を浮かべた。

「違う違う、都賀さんの事で」

「どうかしたの?」

 不思議そうに見つめる母に、姉は一瞬言葉を呑み込んだ。自分の詮索が元で、事態が良からぬ方向へと展開するのではないかという不安が、姉の意識に不快なしこりとなって牽制を掛けている様に見えた。

「この前、葡萄をいっぱいもらったよね。親戚の葡萄園からもらったもののおすそ分けだって」

「それが、どうかしたの?」

「あれ、嘘だって分かった」

「えっ?」

 母が訝しげに眉を寄せる。。

「それ、どう言う事?」

「あの葡萄、買ったやつだった。室戸葡萄園で」

 母は呆気にとられた表情で、ぽかんと口を開けたまま姉を凝視した。

「ほんと? それ」

「うん。沙耶から聞いた。今日、うちに遊びに来たの」

「沙耶さんって、中学の時一緒だった?」

「そう。あの子ん家、葡萄園やってるでしょ。ほら、此処に来る途中に、葡萄直売所ってのぼりがいっぱい立っているとこ。沙耶は家の手伝いをやっていて、あの人に売ったって言ってた。なんか、おかしいよね?」

 姉の口述の中で、いつの間にか『葉月』が『あの人』へと変貌を遂げていた。

「私達が遠慮すると思ったんじゃないの? それで都賀さんはとっさに嘘をついたのよ」

 母が苦笑しながら答えた。

「でも、やっぱり何か変!」

 姉が猜疑的な目つきで床面を見つめた。

 遠くでサイレンの音が聞こえる。火事だろうか。複数のサイレンが重なり合いながら、次第に近くなり、瞬時にして通り過ぎて行く。

 姉の動きが止まった。手に持っていた小麦粉の袋が床面に落ちる。手が、小刻みに震えていた。虚ろな眼線が、熱病患者の様に中空を彷徨っている。

「美汐?」

 母、心配そうに姉に声を掛けた。

「あ、御免。大丈夫」

 姉は慌てて小麦粉の袋を拾い上げると、シンク傍の床下収納に押し込んだ。

 サイレンのせいだ。

 蘇ったのだ、あの時の悪夢が。あの時も鳴り響くサイレンと共に無数のパトカーが家の前庭に殺到し、窓越しに見えるパトライトの赤い光が絶えることなく回り続けていた。

 恐怖の鉤爪に意識を鷲掴みにされたまま、母の腕の中で小刻みに震え続ける姉には、その様子を窓から垣間見る余裕はなかっただろう。ただ、怒涛の如く押し寄せ来るサイレンの音が、姉の意識に重度のトラウマを刻み込んだのは間違いなかった。

 しかし引越先では、サイレンの音に苦悩する事は無く、本人も特に意識しているようではなかった。

 恐らく、この場所だから。この家だから、それも、引っ越し前と何も変わらない家の風貌だから、意識の奥底に封印していたはずの記憶が、サイレンの音とともにフラッシュバックしたのかもしれない。

 不意に、姉の携帯からメールの着信音が鳴る。

「沙耶からだ……」

メールを開き、読み始めた刹那、姉の表情が驚愕に歪んだ 

「お母さん、大変! 沙耶ん家の葡萄の直売所が火事だって!」

「えっ、じゃあさっきのサイレンは……皆さんは無事だったの?」

「大丈夫みたい――えっ?」

 姉がかっと眼を見開き、携帯の画面を再び凝視した。

「放火かもしれないって……果樹園にいた沙耶のおじいちゃんが、火の手が上がった直後に慌てて直売所から走り去った黒い軽自動車を目撃したんだって……ああああっ!」 

「どうしたの?」

 突然大声を上げた姉を、母は驚きの表情で凝視した。

「あの人、確か黒い軽自動車に乗ってた。今日来た時も」

「今日も来られたの?」

 訝しげに問いただす母に、姉はバツの悪そうな表情を浮かべた。

「うん……」

 姉は観念したかのように今までの経緯を母に語り始めた。

「そうだったの……今までに何回も来られてたの……でも、黒い軽自動車なんて、幾らでも走っているじゃない。都賀さんのとは言い切れないでしょ」

「そりゃそうだけど」

「簡単に人を疑うものじゃないわよ。都賀さんも忙しいだろうに好意で色々と勉強のお手伝いをしてくれている訳でしょ。そんな事する人には思えないけど」

 あくまでも冷静に答える母に、姉は不満げに唇を歪めた。

「でもね、お母さん。今思えば、時々変な事きくんだよね、あの人」

「どんな事?」

「お父さんとお母さんの事」

「どんなふうに?」

 母が神妙な面持ちで姉に問い掛けた。

「仲、良いかって。喧嘩とかしてないかって」

 姉の言葉に、母の表情が歪んだ。

「どう言う意味なの、それ」

「分からない。今までは深く考えなかったけど、『仲良いね』だったら分かるけど、『仲良い?』なんて、普通、そんな事聞かないよね」

「そう言われれば、そうよね……」

 大真面目な表情で語る姉の論説に、母は不安気に同意した。

「お母さん、余り考えたくないけど」

 姉が神妙な面持ちで呟いた。

「お父さん、あの人と浮気してないかな……」

「まさか? そんな事」

 母が驚きの声を上げる。

 驚いたのは母だけじゃない。僕も思わず姉の言葉に耳を疑い、呼吸をすることすら忘れて立ち竦んでいた。

 思い付きもしなかった展開だった。むしろ僕の思考の中では、最もあり得ない事実の代表格的存在だった。

「でも、都賀さん、結婚するって」

 母は震える声でかろうじて言葉を綴った。思いもよらぬ姉の一言に、母は明らかに動揺を隠せないでいた。

「そんなの、本当かどうかなんて分かったもんじゃないでしょ」

「でもまさか、お父さんがあの人となんて……」

「ひょっとしたら、向こうの方から一方的にかもしれないけど」

「それは、無理があるんじゃ――だって、お父さんとあの人じゃ、親子くらい歳離れているじゃない」

「分からないわよ、お父さん、あの歳の割にはお腹は出ていないし、髪の毛もふさふさだし、結構もてたりして。お母さん、変な無言電話とかない?」

「ある訳ないでしょ。さあ、夕食の準備にかかるから手伝って!」

 姉の突拍子もない推論に呆れた表情を浮かべながら、母はばっさりとそれを切り捨てた。

「へーい」

 姉は渋々それに答えた。

 父が帰宅したのは、いつもの様に午後八時を過ぎた頃だった。

 母は特によそよそしい態度をとる訳でもなく、いつもと変わらない感じで父に対峙していた。

 缶ビールをグラスに注ぎ、遅い夕食を取り始めた時、姉が階下から降りてきた。

「御帰りなさい」

 姉はごく自然な態度で父に声を掛けると、冷蔵庫からコーラのペットボトルを取り出し、テーブルについた。

「どうだ、調子は?」

 いつもの様に、父は姉に静かな口調で語り掛けた。自宅での浪人生活というストイック且つハイプレッシャーな日々を送る姉を心配しての父の決まり文句だ。

「まあまあ」

 姉の方もいつもの様に曖昧な返事を帰す。

 いつもなら、会話はこれで終わり、姉は自分の部屋へ戻って行くのだが、今日に限ってはいっこうに席を立とうとはしなかった。

 黙りこくったまま、姉はペットボトルのふたを開けると、コーラをちびりちびりと口に含んだ。

 僕は予感した。姉は父に都賀葉月との関係を問いただすつもりなのだ。今のところ、母は特に何も触れずに静観の姿勢を維持しているが、いざとなればキッチンが修羅と化すのは避けられないだろう。

「どうした美汐、何かあったのか?」

 いつもと違う姉の態度に何かしら感じるものがあったのか、父は口元に笑みを浮かべながらじっと見つめると、やさしい口調で語り掛けた。

 姉は、キッチンで洗い物をしている母の背に一度ちらりと眼線を投げ掛けると、重い口を開いた。

「お父さん、都賀さんとはどんな関係なの?」

「元上司と部下の関係」

「本当に?」

「本当だ。それ以上でもそれ以下でもない」

 父はにやにや笑いを浮かべながらグラスのビールを飲み干した。

「ふざけないでっ! お父さん、私真面目に聞いてるのっ!」

 姉が豹変していた。かっと眼を見開き、全身を小刻みに震わせながら真っ向から父を見据えていた。

「おいおい、どうしたんだいったい。何をおこっている?」

 間延びした口調であくまでも平静を保とうとする父の態度が気に入らないのか、姉は更に眼を吊り上げてテーブルを強く叩いた。

「こうなったらはっきり言うからねっ! お父さん、あの女と浮気してんじゃないっ?」

 詰め寄る姉に、父は一瞬たじろぐとグラスをテーブルに置いた。

「馬鹿な事言うんじゃない」

 父は姉から眼線を反らすと静かな口調で否定した。

「だって、あの人、変だよ。今思えば何かと私達に近付いて来るし、この前貰った葡萄だっておすそ分けだなんて言ってたけど買ったもんだって分かったし……」

 姉は夕方母に話した事を再び父に話した。

 黙って姉の話しを聞く父の顔を、僕はつぶさに観察した。感情的にまくしたてる姉の話しを冷静な態度で聞き役に回る父の姿に、僕は姉の推測が誤っていたのではないかと思いながらも、かえって真剣な表情で話しに聞き入るその姿事態に、妙な違和感を覚えていた。

 姉はひととおりのいきさつを話し終えると、再びコーラを口に含んだ。

「何回も、この家に来てたのか」

 姉が話し終えるのを待っていたかのように、父は静かに語りだした。

「うん」

 姉は気まずそうに頷いた。両親に咎められていた禁忌を破ったことに対して戒める事が父の口から発せられるのを予期したのか、姉は堅く唇を結ぶと、うなだれる様にうつ向いた。

「そうか……」

 父は呻くような低い声で一言呟いた。

 それだけだった。

 姉は驚いた表情で、父を凝視した。てっきり葉月と会っていた事を咎められ、今までの反撃をされるかもと身構えた姉だった。が、予想外の肩すかしに気が抜けたのか、疲れた様な呆けた表情を浮かべながら、姉はキッチンで二人に背を向けたまま食器を洗い続けている母に眼線を向けた。 

「お父さん、美汐にはちゃんと話しておいた方がいいかも」

 二人の話しを黙って聞いていた母が、静かに呟いた。

 姉は驚愕に顔を硬直させたまま、母を凝視した。

 知っているんだ。

 母は、何もかもを。

 父は無言のまま母の背中を見つめると、姉に再び向き合った。

 父の喉が大きく鳴る。

「美汐、いいかい。お父さんの言う事、信じられないかもしれないけど、ちゃんと聞いてほしいんだ」

 父の真面目な表情に、姉は黙って頷いた。

「お父さん、ストーカーされてたんだ」

「えっ? 誰に?」

「都賀さんだよ」

 思いもよらぬ父の言葉に、姉は悲鳴に近い驚きの声を上げた。

 驚いたのは姉だけじゃない。僕も同様に動揺し、思わず口をぱくぱくさせるだけの醜態ぶりを晒していた。

「信じられない……」

 姉は父から眼を反らすと眼線をテーブルの上に向けた。

「都賀が新人の頃、お父さんが彼女の教育を受け持ってね。まあそれでかな、多分話し易かったんだろう、教育期間が終わっても、何か引っ掛かる事があれば俺を訪ねて来てた。最初はその程度だったんだけどね。メールや電話が頻繁に来るようになって、しまいには帰宅時に待ち伏せている時もあった。本人には何回か注意したんだけどね。聞く耳もたなかった。最後にやむ追えず、私の方から会社に訴え出てね、それで今回の人事になった訳だ。お父さんは支店長になれたし、彼女も係長になった訳だから、会社は遺恨の残らない様に最高の配慮をしてくれたよ」

「でも、あの人、会社を辞めちゃったんでしょ?」

「ああ。辞めたって聞いた時は驚いたけど、本人は寿退社だって言ってたから、俺もほっとはしてるんだけどな」

「それもほんとかどうだか」 

 姉が吐き捨てる様に呟く。

「俺も正直気になって会社の総務担当に聞いてみたんだ」

「どうだったの?」

「退職理由はそうなっていた。実家も隣の市であってるし、相手は親から勧められたお見合いの相手らしい。何でもIT関係の若手実業家で、親も県会議員らしいよ」

「そう、なんだ」

「まあ、取り合えずは一件落着ってとこか。葡萄の件は多分僕達が気がねしない様にと思っての事じゃないんだろうかね」

父はグラスのビールを一気に飲み乾した。

「でも、沙耶ん家の葡萄直売所に放火したは何故? 自分の嘘がばれたからじゃないの?」

「放火犯が都賀さんとは決まってないんだろ?」

「うん、まあ」

 姉はどこか納得していない素振りを見せながらも、渋々頷いた。

「あの人とはもう会わない。電話もかけない」

 姉が、疲れた様な低い声でぼそぼそと呟いた。

「その方がいい」 

 父が静かに頷く。

 僕は無言のまま、二階へと向かった。

 いたたまれなかった。ストーカーの被害者だった父と、それを理解し、陰ながら支えた母の存在が、余りにも生々しく感じられるのが辛かった。

 余りにも信じられないゴシップ的展開に、僕の思考はあらゆる洞察を拒否していた。

 でも、あの時の顔が、今となってはそれを裏付ける証拠とも言えるような気がする。

 憤怒、憎悪、侮蔑。恨みと怒りの入り混じった、鬼女の様な鬼気迫る表情。いったいどんな思いが積み重なれば、あんな顔になるのだろうか。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る