第5章 再来

 翌朝、姉はいつもと何ら変わらぬ素振りで朝食をとり、家族と談笑し、再び自分の部屋へと戻って行った。

 出勤する父を見送った後、母は昔の友人に会うとかで出かけて行き、僕と姉の二人だけが屋敷に残る事になった。母は出掛けに昼食の支度を姉に話していた所を見ると、しばらくは戻ってこないようだ。

 窓から吹き込む潮風は昨夜とは違い、殺戮兵器並の熱風で、流石の姉も我慢できなくなったのか、朝からクーラーの室外機がフル稼働している。

 昨夜の事、姉に言うべきなのだろうか。

 言うべきではないかもしれない。部屋を覗いていた事がばれしまうし、まずそれを咎められるだろう。それに、僕が目撃したのは・・・姉にしろ、奴にしろ、どちらも禁忌に触れる内容だった。

どう言えばいいのだろう。 

姉を怒らす事も傷付ける事も無く伝えるには、どうすればいいのだろう。

分からない。


 じゃあ、このままでもいいのか?


 ベッドの上で寝っ転がりながら、僕は自問自答を続けた。

 昨日まで段ボールが山積になっていた僕の部屋は、姉が手伝ってくれたおかげで何とか人が住める空間をキープ出来るようになっていた。かといって、机に座って勉強をする気にはなれなかった。

 あの男は、いったい何者なのだろうか。奴の行動、どう考えったって有り得ない。

 出来る訳がないというのが答えだ。

 じゃあ、昨日の出来事は僕がただ夢を見ていただけ?

 違う。

 僕は眠っていない。

 あれは夢なんかじゃない。

 実際に起きた現実だ。

 僕はベッドを離れ、ベランダに出た。

 朝だと言うのに容赦の無い日差しが、僕の身体を貫く。

 強烈な日差しに加え、これでもかとばかりに吹き付ける熱を孕んだ潮風に身を委ねながら、僕はベランダの手擦りから下界を見下ろした。

 芝生の伸びた庭の向こうに、生い茂る松林が広がっている。

 手擦りから飛び降りた後、奴はきっとあそこに逃げ込んだのだ。それは有り得るかもしれない。

 でもあの時、生い茂る草を払う音や降り積もった枯葉を踏みしめる足音は一切しなかった。

 車の駆動音と共に、黒い軽自動車が敷地に入って来る。

 車はエントランス前の駐車スペースに頭から入り、停止した。

 ドアが開き、長髪の女性が姿を現せた。

 あれは――そう、父の会社の元部下の人。都賀葉月とかいう人だ。今日はグレイのカットソーにネイビーのミニスカート。昨日のワンピースの時よりも、足の長さが際立って見える。

 どうしたんだろう? 

 僕は階段を下り、玄関に向かった。玄関では、いち早く向かった姉が、突然の来客を出迎えている。

「親戚が葡萄園をやってるんで、おすそ分けを持ってきたの。よかったら食べてね」

 都賀は大きな紙袋を姉に手渡した。とりたてなのだろう。一房一房袋にくるまれたままではあるが、それでも果実から溢れ出る濃厚な甘酸っぱい香りが玄関を隅々にまで満たしていた。

「有難うございます」

 姉はぺこりと頭を下げて御辞儀をすると、都賀に羨望の眼差しを向けた。

「都賀さんって、T大現役で合格したって本当ですか?」

「ええ、まあ、運が良かっただけよ」

「そんなことないです! 凄いと思います――あ、ごめんなさい、変な事聞いちゃって」

「あなた、受験生だったっけ?」

「え、あ、はい」

 唐突なの問い掛けに、姉は驚きの表情とともにどぎまぎとした態度で答えた。

「御免なさい、実はお父様から伺っていたから。もし、何か勉強で困ったことがあったら連絡してね。私でよければアドバイスするよ」

 都賀はそう言いながら姉に携帯の番号が書かれたメモを渡した。

「あ、有難うございます」

「いえいえ。あ、ちょっと聞いていい?」

 恐縮がる姉に、都賀は軽い笑顔で答えると、徐に声を潜めて尋ねた。

「今日、お母さんはいないの?」 

「はい、昔の友達と会うって言ってました」

「そう……」

 姉の答えに、都賀は妙に意味深な表情を浮かべた。

「御両親って、仲良いの?」

唐突な問い掛けに、姉は訝しげな表情で都賀を見つめる。

「あ、ごめんなさいね。変な事聞いて。じゃあ、御両親によろしくね」

 都賀はそう言い残すと、慌ただしく玄関を後にした。

 そんな彼女を、姉は幾度となく首を傾げながら見送ると、頂いた葡萄の袋を重そうに抱えながらキッチンへと向かった。

 誰もいなくなった玄関で、僕は都賀の残像をぼんやりと追い掛けていた。

 あの人は、何故あんな事を僕達に尋ねたのか。

 父と母の仲なんて。

 まあいいや。

 僕はそれ以上深く追求する事無く、姉の後を追った。

 この日以来、姉は都賀とまめに連絡を取る様になった。姉は頻繁に携帯やメールでやり取りを繰り返し、時には今日の様に都賀が我が家に訪れることもあった。

 都賀の指導は的確で、自宅で孤独に浪人生活を送っていた姉にとっては頼りになる家庭教師だったようだ。勉強以外にも色々と悩みの相談にものってもらっているらしく、姉にとってはもはや実の姉に近い存在なのかもしれない。

 今では、姉は彼女の事を「葉月さん」と呼び、葉月も姉の事を「美汐ちゃん」と呼ぶ関係となっていた。

 仕事で家にほとんどいない多忙な父に加え、母も昔の友達からの紹介で市営の図書館に勤め始めた為、身近に知り合いがいない僕達にとって、唯一頼りになる存在といっても過言では無かった。

 但し両親は余りいい顔をしていない。結婚前の準備で忙しい時に迷惑を掛けてはいけないと再三姉に注意しては、その都度口論となっていた。

 それ故に、葉月が家に来る事は、姉は両親に内緒にしている。葉月もそれは心得ており、どんなに長くいても母の戻る一時間前には家を後にしていた。

 今日も両親が出勤して間もなく、都賀は我が家に訪れている。どうやら勉強で壁にぶつかった姉が彼女に助けを求めたらしい。

 僕は姉達の邪魔をしないよう、そっと外に出た。

 つい先程まで熱線の如く降り注いでいた日差しも急激に発達した積乱雲に遮られ、もはや降雨も時間の問題だった。

 僕はゆっくりとした足取りで裏庭へと向かった。積乱雲の呼んだ湿った空気が、生温かい突風となって僕の身体を包み込む。

 ここの所、奴の姿は見掛けていない。僕の存在が抑止力になっているのか、時折訪れる都賀葉月の存在に警戒心を抱いているのか。どちらにせよ、結果的に良い方に向かっている事には間違い無かった。

 でも油断は出来ない。この前の夜に起きた不可解な出来事を目の当たりにしている以上、また信じられない様な手段を使って接触を試みてくる可能性がある。

 僕は家の裏に回ると、磯浜へと続く坂道を下った。潮風が常に吹き付けるせいか、思っていたほど小道は雑草に埋もれてはいなかった。昔は結構長い距離の様に思えたが、今歩いてみると、意外にもそうでもないと気付く。

 磯浜に降りると、僕は下から屋敷を見上げた。

 そそり立つ壁からは、二階の部分だけがかろうじて見える。

 打ち返す波音が、静かに時を刻んでいた。

 俺は、目線を磯浜に向けた。突き出した岩が打ち返す波を受け止め、その背後にいくつもの潮溜まりを形成していた。潮溜まりには褐色や緑色の海藻が繁茂し、その周りを無数の小魚が群れを成している。

 少しも変っちゃいない。あの頃と同じだ。

 姉とよく小魚を追った潮溜まりも、記憶の中の映像と一寸のぶれも無く一致していた。

 あの事件以来、僕も姉もここに訪れてはいなかった。

 再びここに舞い戻って来ても、姉だけでなく両親もここに立ち入ろうとはしていない。

 まるで、あの嫌悪の記憶の一切合切をこの場所に封じ込め、禁足の地と定めたかのような、妙な不文律の存在を感じるのだ。

 それは誰が決めたとかいうのではなく、潜在意識に潜む本能が、あえて回避行動を取らせているのかもしれなかった。

 不意に視界の片隅に人影が過る。

 白いブラウスに洗いざらしのデニムのパンツを履いている。

 風になびくセミロングの黒髪。スリムで華奢なボディラインが、曇天のモノトーンに沈んだ背景にかろうじてその輪郭を留めている。

 女性の様だ。岩だらけの歩き辛い磯浜を、巧みにバランスを取りながら此方に向かって歩いて来る。

 まっすぐ、僕を見つめながら。

 誰だろう。僕の知らない人だ。

 いくら記憶の断片を辿っても、僕はその女性に係わる記憶に行き着く事は出来なかった。

「今日は」

 彼女は親しげに微笑みながら、僕に声を掛けてきた。ノーメイクだが、日焼けした肌が魅力的な女性だった。

 僕は困惑した。どう返事したらいいのだろう。相手は僕の事をよく知っていて声を掛けてきたのか? それともたまたまなのか?

 返事に困っている僕を、彼女は優しく見つめた。

「この上のおうちの人?」

「はい」

 僕は言葉短に答えた。

「この近くに住んでるんですか?」

「うん。あ、私、室戸沙耶。よろしく」

「僕は縞本蒼人です」

「シマモト? アオト君?……中学生?」

 彼女は何故か僕の台詞を確かめるかの様に繰り返し呟いた。

「はい。室戸さんは?」

「沙耶でいいよ。私は一応社会人。家業手伝いだけど」

「家業?」

「怪しげな仕事じゃないわよ。家が農業と果樹園やっているんで、地元の農業高校を卒業したら即採用ってわけ」

 沙耶は眼を細めて笑った。日焼けした小麦色の肌とセミロングの髪型が、中学の頃の姉と重なって見えた。あの日以来、外出を極度に嫌うようになった姉にとって、日焼けした肌は過去の幻影と言えた。

「どうしたの?」

「あ、いえ……」

 不思議そうな表情で声を掛ける沙耶にどぎまぎしながら何とか返事をすると、僕は妙に恥ずかしくなって下を向いた。無意識のうちに、僕は彼女をじっと見つめていたのだ。

 家族以外の女性と話をするのは何年振りだろうか。

 それも、こんなに臆せず会話するなんて。

「蒼人君、ひょっとして美汐ってお姉ちゃん、いる?」

「え、姉の事を知っているんですか?」

 僕は驚きの表情で沙耶を見つめた。

「やっぱりそうか。美汐の弟かあ。見たことあると思ったんだ。中一の時、姉ちゃんとは同じクラスで、何回か家にもお邪魔したことあるんだけど、覚えていない?」

「あっ!」

 僕は思わず驚きの声を上げた。昔の記憶をたどってみると、確かによく家に遊びに来ていた姉の女友達に行きつくが、陽に焼けた肌のイメージが強く、顔までもは思い出せない。それよりも衝撃的だったのは、その大人びた風貌と雰囲気だ。姉と同じ歳とは到底思えなかった。姉自身も成長していない訳ではないと思うのだが、一緒に生活しているせいなのだろうか、僕の中では身長と体重以外は変わっていない様に見えるのだ。

 彼女は既に仕事に就き、社会人として独り立ちしているからなのだろうか。家で親の庇護に甘んじてぬくぬくと生活している姉とは比べ物にならない位、沙耶の存在は人間的にも成熟しているように感じられた。

「美汐は今何やってんの?」

「えっと、そのう、浪人してます」

「そうなんだ。大変なんだね」

 沙耶は、気まずそうに表情を歪めた。

「気にしないで下さい。本人は結構気楽なんで」

 僕は慌てて沙耶に声を掛ける。

「予備校とか行ってるの?」

「いえ、宅浪です。最近、時々ボランティアで教えてくれる家庭教師の御世話になっています。実は今も来てる最中なんです」

「ボランティア? 」

 沙耶が訝しげな表情で僕を見つめた。僕は頭の中で時系列を整理しながらそのいきさつをかいつまんで沙耶に説明した。

「へええ、T大出の美人家庭教師か。凄いね、別世界の存在だな」

 沙耶が驚きの声を上げる。

「沙耶さん、そろそろこの場所、まずいですよ」

「え?」

 きょとんとした表情の沙耶に、僕は彼女の後方を指差した。

 強風にあおられた荒波が、磯浜のかなり岸近くまで打ち寄せ、さっき沙耶が歩いて来た辺りは既に泡立つ白波に激しく洗われている。もはや、引き返すのは危険を伴うことぐらい一目瞭然だ。

「どうしよう」

 沙耶は困惑した眼で僕を見つめた。

「うちの庭を抜けて行って下さい。あ、そうだ。姉に会っていけばどうですか?」

「でも、家庭教師が来ているんだったら勉強の邪魔しちゃあまずいし……会うのはまた今度にするね」

 沙耶は一時思案した挙句、笑顔でそう僕に返した。

「分かりました。じゃあ、とりあえず行きますか。案内します」

「ありがとう」                 

 会釈する沙耶の前に立ち、僕は庭へと続く坂道を進んだ。

 沙耶は、歩みを進める毎に広がる展望を感慨深げに眺めながら、無言のまま僕の後に従っていた。

 姉の中学生の時の友達か。

 と、言う事は。

 知っているに違いない。あの事件の事を。

 ふと、一抹の不安が過る。

 もし、姉がこの人と顔を合わしたら、当時の記憶がフラッシュバックし、パニックに陥らないだろうか。沙耶さんは今日は会わないとは言っていたが、今日以外の日で会った所で、当然そのリスクは回避される訳ではない。

 あの事件の後、姉は外出を極度に嫌うようになり、一時期引きこもり状態になっていた。タイミング良く父の異動で引っ越しを余儀なくされ、この地を離れる事で何とか立ち直る事が出来たのだ。

 こちらに戻る事が決まった時は、再び姉の脳裏に悪夢が蘇り、再発するのではないかと不安を抱いたものの、当の本人は意外にも平静だったので安心していた。

 が、それもどこまで耐えうるのか、姉本人以外は推し量る事すら不可能だろう。もし、現時点が限界点すれすれだったらどうしようか……そう考えると懸念事項は無限大に膨れ上がるものの、葉月さんと交流している姿を見ると、それも取り越し苦労の様に思える。

 姉も僕も、心の中に広がる薄暗いダンジョンの中を彷徨いながら生活する日々を送っていた。

 この地を離れて生活していた時はそうでもなかったのだが、再びここに舞い戻ると知ってからは、しばらくふさぎ込んでいたのだ。

 その延長線でなのか、当然なのか、ここに戻って来てからは、一切家から足を踏み出してはいない。それこそ庭に出るのも躊躇うほどなのだ。

 僕が奴の存在に攻撃的な姿勢を取っているのに対して、姉は脅威としてとらえているからなのだろうか。

 そのくせ、予備校に入り、別途アパートを借りて浪人生活を送るのは拒絶した。

 夜、一人になるのが怖いかららしい。

 両親も、姉の身に何かあっては遅いからと本人の気持ちを重視した結果、宅浪の道を歩むことになったのだ。

 ある意味、葉月さんの存在は、閉塞した現実から救い出してくれる救いの女神なのかもしれない。

 現時点では、姉にとっても僕にとっても外の世界との唯一の接点と言っても過言ではないのだから。

 もしこのタイミングで、過去のあの事件を知っている者が現れたら、姉はどうなってしまうのか。

 過去の記憶がフラッシュバックして、恐らく姉が姉で無くなるような気がする。

 沙耶と会った事は、内緒にしておこう。

 そうすることにした。

 気がつくと、僕は無言のまま坂道を登っていた。気まずいなと思いながら沙耶さんに眼線を向けると、本人は眼下の景色を興味深く見つめており、特に気にはしていない様だ。

 坂を登り詰めた僕達は、中庭を抜けた。

 姉達が、足音で僕達の存在に気付くかもしれない――その心配は意外にも問題が無い事が分かった。

 思っていたほど、足音がしないのだ。

 同時に、奴の逃走経路も何となく分かった。

 奴は飛び降りた後、恐らくバルコニーの下に身を潜めたのだろう。

 その後、僕の動向を伺いながら、玄関の前を通り、正門を抜けて逃げたのだ。

 照明に無い裏の崖を下って海岸に抜けるのはまず無理だし、薮を抜けようにも道無き道を進むのは困難だ。

 あの時、足音一つ残さずに奴が消えた理由が、何となく分かったような気がする。

 玄関の前に差しかかる。と、不意にドアが開く。

「じゃあね、美汐ちゃん」

 葉月さんがドアの向こうから現れ、追っかけ姉が姿を現す。

「葉月さん、有難う御座いました。あっ!」

 姉が驚きの声を上げながらこちらを凝視した。

「沙耶?」

「美汐、おひさしぶりっ!」

 僕の横で沙耶さんが姉に手を振っていた。

「美汐ちゃんのお友達?」

「はい、中一の時、同じクラスだったんです」

 姉の説明に葉月は愛想笑いを浮かべながら頷いた。と、その時不意に沙耶さんが葉月さ

んに深々と頭を下げる。

「この前は有難う御座いました」

 沙耶さんの意表を突く態度に、葉月さんは困惑した表情で姉と沙耶さんを見た。

「あのう、何の事?」

葉月さんは首を傾げると、愛想笑いで沙耶さんに返す。

「え、覚えていませんか? 私、室戸葡萄園の娘なんです。ほら、先日いらっしゃった時に、巨峰をたくさん買っていただいて――」

「御免なさい、きっと人違いよ。じゃあね」

 葉月さんは困った様な笑みを浮かべると、そそくさと立ち去って行った。

「私の勘違いかなあ」

 沙耶さんは訝しげな表情で、葉月の後ろ姿を見送った。

「沙耶、上がって!」

 姉は満面の笑みを浮かべながら沙耶さんを手招きした。

「えっ、でも……いいの?」

 沙耶さんは遠慮がちに答えた。きっと僕が姉が浪人生である事を彼女に話したから、気を遣っているに違いなかった。

「大丈夫よ、どうぞ!」

 姉に招き入れられ、沙耶さんはドアの向こうに引っ張られるように消えた。

 始終机に向かっている姉にとっては、いいタイミングでの息抜きかもしれない。

 僕は姉達の後を追わず、そのまま前庭へと向かった。同時に、葉月さんの車が僕の前を通り過ぎて行く。

 不意に、葉月さんがこちらに眼線を向ける。

 僕は立ち止まり、会釈を――。

 刹那、僕の眼線は瞬時にして凍てついていた。

 葉月さんは凍るような冷たい憎悪の視線で、僕を射抜いていた。

 今までの笑顔が、全てまやかしであったかのような鬼気迫る表情に、僕は戦慄を覚えていた。

 体の震えが止まらなかった。歯の根が合わないと言う状況を、僕は生まれて初めて体験していた。

 何なんだ。今の、あの人の顔。

 彼女の機嫌を損ねた記憶は、僕にはない。

 多分、そんな程度のものじゃない。

 ナイフで胸元を抉るような、それそのものが冷酷無比の凶器と化した目線だった。

 気の小さい者だったら、目線を合わせただけで失禁してしまいそうな残酷性を秘めた圧を孕んでいた。

 きっと、彼女の心の奥底には、僕の知らない闇深い何かが息を潜めているに違いない。

 僕は葉月さん――否、葉月の秘められたもう一つの姿を垣間見た様な気がした。


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