第4章 不穏

 潮騒が、夜風にのって静かに耳に届く。

 岬の家で過ごす、久し振りの夜だった。

 受験勉強に勤しんでいた姉も、睡魔には勝てなかったのか、いつしか部屋の明かりは消え、ベランダ続きの窓には闇の帳が下りていた。

 階下も物音がしない所を見ると、家族は皆、眠りに就いた様だ。ただ、僕を除いては。

 眠れなかった。

 ベッド横たわり、目を閉じようとしても、気が高ぶっているのか、それとも緊張しているのか、意識と身体が睡魔の誘いを門前払いし続けていた。

 ベッドを離れ、バルコニーに出る。月の美しい夜だった。煌々と大地を照らす月光は、濃紺色の闇の支配に一石を投じ、存在する全てのものに立体的な陰影を齎していた。

 窓から手すりまで数メートルあり、姉の部屋と僕の部屋、そしてほとんど使われる事の無いゲストルームの三部屋に面したかなり広いスペースだ。

 僕がまだ小さかった頃、ここでよく家族でバーベキューをしたものだった。

 やらなくなったのは、いつの頃からだったろう・・・そうか、あの事件が起きてからだ。

 昼間、奴の声を耳にした事は、まだ姉には言っていない。

 突然の来客で言いそびれてしまったのだ。だが、正直のところ、僕の聞き間違いだったかもしれない。姿を見ていないだけに、確証がなかったのも話さずに二の足をふんだ原因だった。

 不安はある。

 でも、どうしようもないのも事実だ。もし、あの声が幻聴でなければ、奴は必ず仕掛けてくる。消極的かもしれないが、その時に抑えるしかない。ストーカー被害で訴えるにも、証拠がなければ警察は動いてはくれないだろう。

(僕が守ればいい――それだけの事だ)

 ?

 ふと、周囲を伺う。

 何だろ。気のせいか、妙なノイズが聞こえる。

 耳をすまし、音源を探る。

 カサカサという乾いた衣擦れの音。それに時折低い呻き声とも吐息ともとれる声が混じり、妖しげな不協和音を奏でている。

 ほどなくして、僕はその音源を突き止めた。

 姉の部屋だ。間違いなく、姉の部屋から聞こえている。

 忍び足で、ベランダ伝いに姉の部屋に向かう。不用心な事に、網戸はしてあるものの、窓とカーテンは開けたれており、中の様子はベランダからでも十分に伺う事ができた。

 受験生の姉の為にと、特別にクーラーをつけてもらっているにもかかわらず、使っていないとはもったいない話だ。

 でもひょっとしたら、姉もこの夜風を楽しんでいたのか。

 思案に暮れる間も、異音は途切れることなく僕の耳に届いていた。

 僕は目を凝らして姉の姿を追った。

 姉は仰向けになった状態でベッドの上にいた。

 淡いグレーのTシャツに同色のハーフパンツといった姿で、静かに眠りについていた。

 僕はじっと姉を見つめた。眉を微かに潜め、苦悩に満ちた表情で不規則に荒い呼吸を繰り返している。

 息を呑む。

 苦悩じゃない。恍惚だ。

 僕の眼はハーフパンツの異様な動きを捕えていた。下腹部の辺りに拳大の膨らみが生じ、それが小刻みに蠢いている。その動きは、ハーフパンツの大腿部の内側にある縫合部分が合流する最も中央部で、激しくリズムを刻んでいた。

 ハーフパンツに生じた拳大の膨らみ――それは、姉の右手だった。

 姉は右手をハーフパンツの中に忍ばせ、股間を激しく弄っているのだ。

 これが、さっきから聞こえていた衣連れの正体・・・。

 硬直したまま、僕はその光景を食い入るように見つめた。

 姉が陶酔している行為の意味くらい、僕にだって分かる。

 ショックだった。

 姉に抱いていた清廉で無垢なイメージが、瞬時にして僕の思考から払拭されていくのを感じていた。

 余りにも衝撃的な現実が、避けようのない事実として僕の思考に深く刻み込まれていく。

 見てはいけないものを見てしまった――そんな、禁足地に踏み込んでしまったかのような罪悪感が、僕の思考を鷲掴みにしていた。

 信じられなかった。

 だが僕は目を反らす事も出来ずに、ただ固唾を飲んで姉の行為を凝視し続けた。

 軽い衣擦れと怪しげな息遣いが、静まり返った夜気に恐ろしく淫猥な不協和音を奏でていた。

 どれくらいの時が流れたのだろうか。

 僕は気付いた。終焉を迎える気配も無く繰り返される怪しげな動きが、より一層激しさを増した事に。

 それは急傾斜の坂を一気に昇り詰めて行くような勢いで、ハイテンポの旋律を刻んでいく。

 姉の手の動きが止まった。

 同時に、姉の細い身体が大きく弓なりに反りかえり、硬直と弛緩を小刻みに繰りかえした。

 肩を上下させながら、姉はゆっくりと呼気を整えた。

 不意に、硬く閉じられていた姉の瞼が大きく開く。

 姉はゆっくりと状態を起こすと、額の汗を右手の甲で拭いながら、虚ろな眼線を中空に泳がせた。何かを探している素振りでは無かった。どちらかというと、自分の身に起きた現象の余韻に浸っているかのようにも見えた。

 虫の音が、静かに時の移ろいを告げる。

 姉はベッドから降りると、ふらふらした足取りで部屋を出て行った。

「清純そうなイメージだけど、やることはやるんだな」

 俺の耳元で淫猥な男声が囁いた。

 僕の意識を驚愕の顎にがっちりと喰らい付く。

 凄まじい緊張が、全身の筋肉を金縛りに陥れていた。

 体が、動かない。

 手も足も。

 顔も。

 振り向く事すら出来ない。

 僕は、歯をぐっと食いしばると、自己制御出来なくなった首を無理矢理横に向けた。

 奴だ。

 腕をだらりと伸ばして僕のすぐ傍らに立ち、こちらの様子を伺いながら野卑な笑みを浮かべている。

「お前の姉ちゃん、いい女になったねえ。おまけに、再会早々いいものを見させてもらったぜ」

「お・ま・え・・・どうや・・・って? 」

 僕は強張った唇を無理矢理解きほぐしながら、言葉を綴る。

「どうやって? そりゃあ企業秘密だな」

 奴はおどけた口調で嘲笑を浮かべた。

「・・・失せろ」

 俺はありったけの憎悪を奴にぶつけた。

「何を偉そうに。お前も姉ちゃんがやってるのを覗いていたんじゃねえか」

 奴がじろりと僕を見据えた。

 反論出来無かった。

 僕は唇を噛みしめた。悔しいけれど、事実だ。

「なあ、お前も姉ちゃんとやりてえんだろ? 」

「・・・」

「俺に協力してくれるなら、やらしてやってもいいぜ。ただし、俺がやった後だけどな」

 奴は凍てつく僕の顔を見据えながら、楽し気に口角を吊り上げた。

「断る」

 僕は奴に強く言い放った。言霊にありったけの嫌気を込めて、奴に真っ向から拒絶の呪詛を叩きつけた。

 無意識のうちに固く結んだ拳に力が入る。

「おいおい、そんなに殺気立つこたあねえだろ。まあ、いいや、今夜は帰るわ。お前の姉ちゃんがいくのと同時に、俺も行かせてもらったからな」

 奴はにやにや笑いながら、僕の鼻先に右手を突き出した。大きく開かれた掌に、粘着質の液体が纏わり付き、植物的な異臭を放っていた。

 あの時と一緒だ。

 あの時、奴が放り投げた姉のショーツに付着していたものと。

 僕の中で、何かが弾けた。

 拳を握りしめたまま、奴に跳びかかる。

 奴の右手に付着した不快な粘液が自分の身体に付着するリスクを気にするよりも、煮えくり返る怒りの方が勝っていた。

 だが、僕の奇襲を見透かしていたかのように、奴は余裕の笑みを浮かべながら身をかわすと、後方に大きく跳躍した。

 黒い巨影が、大きく中空を舞う。

 奴は重力の束縛を拒絶するかのような身のこなしで、数メートル離れた手すりの上に降り立った。

 信じられない様な身体能力だった。

 あの身軽さなら、バルコニーの支柱をよじ登ってここまで来るのは他愛も無い事だろう。

「また来るよ。その時までに、よく考えておくんだな」

 奴はそう言い残すと、直立したままゆっくりと後方に倒れ込んだ。

 僕は慌てて手摺に駆け寄った。

 いない。

 敷地の間近まで勢力を誇る薮に逃げ込んだのか。それとも、僕の追跡を避けるために、建屋の影にじっと身を潜めているのか。

 どちらにせよ、もはや僕の視界にその姿を捕える事は出来なかった。

 姉の部屋からベッドのきしむ音がする。姉が、部屋に戻ってきた様だ。

 僕は再び姉の部屋の前に忍び寄る。

 聞き耳を立ててみる。 

 先程の様な怪しい呻き声や衣擦れは聞こえてこない。

 しばらくすると、静かな寝息が安息の旋律を刻み始める。

 姉は眠りに付いたらしい。

 奴は何者何だろうか。

 気配を一切感じさせずに僕の真横に立っていただけでなく、僕の反撃を軽々交わした挙句に二階の高さから飛び降りて一瞬にして雲隠れしてしまストは、常人では考えられない。

 ただ、答えの見えない不条理な現状に憤慨しながらも、僕は唯一はっきりとした事実だけは実感していた。

 奴が、再び姉を狙っている――その、最も考えたくなかった最悪の事実を。





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