第2章 帰郷

「久し振りよね……」

 眩しそうに眼を細めながら、姉は車窓の風景を眺めた。僕は頷くと、姉越しに外の風景に眼を向けた。海のすぐそばまで迫る山の延長線に、険しい岩肌を潮に黒く染めた磯浜が、打ち寄せる白波の合間から顔を覗かしている。

 あの頃と少しも変わっていない。数年前にここで生活していた時の記憶の心象風景と、たった今、ダイレクトに視界に映し出されている現状の風景が、寸部の狂いも無く重ね合わさっていた。

「帰って来ることになるとはな」

 父が何処か苦しげに呟いた。

「あの家、売れなくて良かったんじゃないの?」

 母が妙に明るい声で話す。

「まあな。今となってはそうかもしれないね」

 父は感慨深げにそう答えると、ハンドルを右に切った。車は国道とは名ばかりの一車線の車道をそれると、細い坂道を低い唸り声を上げて登っていく。

 雑木林が真近にまで迫る小道。アスファルトで舗装はされているものの、生い茂る木々が覆いかぶさるように枝葉の伸長を競った挙句、濃厚な緑のトンネルを築いていた。

 車の足取りが急速に軽くなる。傾いていた車窓の風景が、水平を取り戻していく。

 不意に、視界が広がる。

 小高い丘の頂上は意外にも大きく開け、荒れてはいるが広い芝生の庭園が広がっている。

 その正面に、古びた二階建ての住宅が建っていた。煤けた褐色のタイルの外壁が、年月の移ろいを感じさせるも、新築時の豪奢な装いを彷彿される重厚な存在感を醸している。

 家屋の前には、既に引越し業者のトラックが横付けされており、その後ろに止められた白い4ドアのセダンから、四十代後半の白髪交じりの男が穏やかな笑みとともに姿を現した。

「縞川さん、どうも」

 男は目じりを下げながら愛想よく父に話し掛ける。この家の管理を委託していた不動産屋の羽田野とかいう人だ。

 売却を前提に、父はこの男性に維持管理を頼んだのだ。

 が、残念ながらずっと買い手がつかず、今に至ってしまった。賃貸契約の客は何組かいたらしいが、あくまでも本来住む家の新築や改築が完成するまでの仮住まいだったらしく、短期間でしかなかったらしい。

 でもそれは、急遽此方に舞い戻って来る事になった僕達家族にとっては、好都合と言えば好都合だった。借家やアパートを借りて、見ず知らずの近所に気を使って暮らすよりも、馴染みの地で暮らすのが一番だ。それに、ここは住宅地から少し離れたところにあるので、近所そのものが存在せず、余計な気を使う必要も皆無だった。

「早速荷物を運びいれますので、皆さんで引っ越し業者さんに置き場所を指示してあげて下さい。それと、これ、お預かりしていました家の鍵です。どうぞ」

 羽田野は父に鍵の束を渡すと、用があるからと言い残してそそくさと立ち去って行った。

「さて、作業開始とするか」

 父は長袖のシャツを腕まくりすると、運送業者の方達に挨拶し、家の中へと足早に進んだ。母と姉は父を追い掛けるようにして後に続く。何事にもリーダーシップを獲りたがる父の性格が、こういった時に特にいかんなく発揮される。どちらかというとのんびり屋の母と姉は、いつもそんな父に振りまわされている。僕はというと、正直そのどちらとも似ていない。  

マイペースの母と、機動力の父――そのどちらの要素ともにバランス良くブレンドされて、又違う一つの個性を生みだしているのだ。

 とりあえず、そう思っておくことにした。

 姉達の後は追わず、僕は、家の外壁に沿って歩みを進めた。僕の荷物は大してないし、運送業者の方に運んでもらったら、後で少しづつ片付けるつもりだった。

 生い茂っていたはずの雑草は、きれいに刈り取られ、むき出しになった地面が強い日差しに乾き、白くなっている。海の傍の高台だけに風は強く、熱の塊となって容赦無く僕を打ち据えて行く。

 家の角を曲がる。

 同時に、恐ろしく広角に視界が広がる。

 海だ。

 急こう配の切り立った崖。

 その下に、真っ青な海が広がっている。間近に迫る海は激しく白波が立ち、大自然の力を容赦なく見せつけている。

 切り立った崖には、つづれ折りの小道があり、十数分程掛けて下っていくと、磯浜まで降りる事が出来る。波が静かな時には、潮だまりを覗けば、様々な小魚やイソギンチャクなどを観察することが出来るので、幼い頃、よく姉と磯遊びをしたものだった。ただし両親は、正直のところ余りいい顔はしていなかったと思う。いくら穏やかな時に限ったとはいえ、子供だけの海での遊びは危険極まりない。親ならそう思って当然だろう。 

 僕はそっと崖から身を乗り出した。当時の小道は雑草で覆われ、その所在を厚いグリーンの壁で覆い隠していた。管理会社も、流石に此処までは手を掛けてくれなかったようだ。

 僕は踵を返すと、来た道をゆっくりと戻――


 待っていたよ

 

 慌てて振り返る。

 誰もいない。

でも、聞こえた。はっきりと。

 男の声だ。若い男の声。

 それも、聞き覚えのある。

 それどころか、忘れられない声。

(あいつが、この近くにいる?)

(まさか、そんな……)

 聞き耳をたて、周囲を伺う。

 人影はもとより息遣いすら感じられない。

 聞こえるのは潮風の吹き抜ける音と、波の砕ける音。その他に時折聞こえるのは引越し業者と父の声くらいだ。

(気のせいか)

 ひょっとしたら引越し業者の声が潮風の悪戯でそう聞こえたのかもしれない。

 僕は自分にそう言い聞かせ、気を取り直すと再び帰路に着いた。

 家に入ると、行き来する引越し業者のスタッフとすれ違いながら、僕は自分の部屋へと向かった。階段を上がり、一番奥の部屋へと向かう。部屋には既に荷物を運びこまれており、ベッドの横に段ボールが整然と並んでいる。

 僕はベッドに寝転がった。開け放たれた窓から、仄かに甘い潮風が心地良く部屋に流れ込んでくる。

 隣の部屋の姉の部屋からは、後片付けをする物音が絶え間なく聞こえてくる。浪人生の身故に、少しでも早く身の回りを整理し、受験勉強に集中したいのだろう。手を休めようとする気配は全く感じられない。世間の学生は夏休みまっただ中でも、姉の心中は真冬に近いのだ。

 不意に、開けっ放しのドアの向こうに人影が現れた。

 姉だった。姉は、温和な表情で優しい微笑を浮かべながら俺を見つめていた。

「蒼人、また戻って来ちゃったね」

 うん、と、僕は黙って頷いた。

 姉は何か言いたげな表情を浮かべたものの、言葉を飲み込んだまま、再び自分の部屋に戻っていった。

 姉が何を言いたかったのか、僕には分かる。

『ここには二度と来たくなかった』

 姉の顔に一瞬浮かんだ憂いの色は、明らかにそう物語っていた。

 分かるような気がする。

 たぶん、言葉や表情には出さないものの、父や母も少なからずそう思っているに違いない。

 勿論、僕自身も。

 それ故に、僕は迷っていた。

 声の事、姉に伝えるべきか。

 伝える事で、かえって不安を煽る事になってしまわないか。いや、それでも、少しでも警戒した方が。万が一ってことも考えられるから。

 どうしようか。

 ぼんやりと中空を眺める。

 思い出したくもない。

 でも、あの時の光景は決して消える事無く、僕の脳裏に生々しい映像となって焼き付いていた。

 

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