誰もいない

しろめしめじ

第1章 幻夏

 塚原彪は書類から目を離すと、傍らの卓上カレンダーに視線を向けた。

 今日から八月。新しく変わった暦を見つめながら、塚原は深い溜息をついた。

 彼にとって、一年の中で最も憂鬱な月の始まりだった。

 強い日差しを受けて焼け付いたアスファルトの臭いが立ち込める外とは違い、空調の効いた署内は快適ではあったが、彼にとって、暑さの厳しい夏そのものではなく、八月と言う暦自体が憂鬱な気分を醸す要因だった。

(何事も無く過ぎてくれればいいのだが)

 額に苦悩の皺を刻みながら、白髪が混じり始めた頭をがしがしとかき回すと、塚原は再び机上の書類に目を向けた。昨日発生した強盗傷害事件に係る報告書だ。犯人は程なく逮捕され、被害者も軽傷で済んだのが幸いだった。

 地方の警察署とは言え、決してのんびりしている訳ではない。どんなにのどかな街であっても、何かしらの事件が日々発生しているのだ。

 そこで、人々が生活を営んでいる限りは。

 とは言うものの、都市部に比べれば、そうそう凶悪事件ばかり起きている訳ではない。窃盗や傷害事件が起きる位で、仰々しく捜査本部を構える程のヤマではなかった。

 だが、八月は違った。過去を振り返ってみても、こののどかな地方都市を震撼させるような大事件は決まって八月に起きていた。

 因縁めいた話などは信じない塚原だったが、八月のジンクスだけは否定出来ず、甘んじて受け止めている様な状況だった。

 不意に、机上の電話が鳴った。

 いち早くそれに反応したのは、この春に異動で塚原の下に配属された咲田彩夏だ。   

 まだ二十代の駆け出しだが、真面目な上に誰よりも負けん気が強く、すぐに諦めたりしない粘り強さには、職務に厳しいが故に『鬼塚』の異名を持つ塚原ですら一目を置く存在だった。

 はきはきとした口調で応対をしていた咲田の表情が硬く強張る。

 受話器の向こうの見えない相手に何度も相槌を打つ彼女の素振りから、ただ事でない事案が舞い込んだのは明らかだった。

 咲田の電話対応の様子を見ていた塚原は、彼女の隣の席の女性刑事に目配せをした。彼女――鈴村は黙って頷くと席を立った。咲田の六年先輩で、彼女の教育係を受け持っており、人当たりも良く、まだ右も左も分からない彼女にとっては頼りがいのある存在だった。

 咲田は緊迫した表情で塚原を見た。

「咲田、行くぞ 」

 塚原は受話器を握りしめたまま固まっている咲田に声を掛け、席を立った。

 咲田は面食らった。電話の内容をまだ一言も伝えていないのに、席を立つ上司の態度が腑に落ちなかったのだ。だが、電話の最中に塚原の合図で鈴村が先に席を立ったのを見届けている。

 どういうことなのか。

 電話の内容を告げぬうちに現場へ向かおうとする上司達にに途方に暮れながらも、咲田は妙な事に気付いた。他の刑事達は驚くどころか、重苦しい表情で塚原を見送っているのだ。まるで彼がこれから向かう事案が何であるかを察しているかのように。

「咲田、受話器を置いて早く来いっ! 」

 塚原にせかされて我に返った咲田は、受話器を戻すと慌てて彼の後を追い掛けた。

(これが当たり前なのか)

 咲田は困惑しながらも、やむなくこれを現実として受け止めた。

 元々言葉の少ない上司だった。彼の意向を少しでも早く理解しようと、自分なりに努力してきたつもりだった。

 それでも、現場に向かう際には最小限の情報共有は必ず行っていたのだ。それも塚原自身の言葉でだ。

 今回の様に説明も無いままに行動するのは初めてだった。しかも、この事案に関わる情報は、咲田しか知らないはずなのだ。

(まだまだ塚原を理解出来ていないって事か)

 咲田は悔しそうに唇を嚙みしめた。

 




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