第4話
ついに迎えた大会当日。付け焼き刃なのかもしれないけれどやれる事はやってきたつもりだ。
早朝、家族に見送られ家を出る。会場へのバスを乗り継いでいる途中でメッセージの着信音が鳴った。
『さて、僕の役目はここまでだ。君の重ねてきた練習は君を裏切ったりしない。それだけを胸に刻んであとは全力を尽くすだけだよ。君の健闘と幸運を祈る』
『エデア、本当にありがとう。私頑張ってくるよ』
そのあと、『
いよいよ勝負の時が来た。
もちろん
腰を落としスターティングブロックに足を掛けると、場には静寂のみが流れた。
「位置について、用意」
スタートを知らせるピストルの合図が鳴る。
多少出遅れてしまうのはもう割り切った。
練習どおり一つ目のコーナーまでは歩幅を大きく、最大スピードで加速。コーナー後、直線では速度を落としつつ後続についていく。
二つ目のコーナーからは歩幅を狭く。呼吸は常にスムーズに。とにかくペースを崩さないように進んでいく。ここまでは順調だ。
そうして最終コーナーを曲がりきったところで途端に手足の回転は鈍く、呼吸が続かない。いつもここからがきつくなる。
もちろん勝つ為の練習を必死にしてきた。ただ、現時点で前方には四人。おまけに先頭の選手には大きく離されている。
散々繰り返してきたイメージどおりにはいかない。ここから一気に駆け上がり一位になるのには差がつきすぎている。
これまで頑張ってきた。けれど、私はもうここまでなのかもしれないと直感する。
私の陸上は残り100メートルしかない。
それを思うと何故だか目には熱いものがじわりと浮かんできて、思わず足を止めてしまいそうになる。
「
私にはその声が誰なのかがすぐにわかった。
「思い出しなさい、『練習は君を裏切ったりしない』!」
その瞬間、視界が大きく広がったような気がした。
歓声の中にも関わらず、私の視線は一直線に観客席の豊島さんの姿を捉える。
彼女の首元に私のものと同じ色形をしたお守りが見えた。
それはまるで、スローモーションの世界にいるように赤く輝きながら揺れている。
これまで『
『君を心から応援している』
あの日靴箱に入れられていた手紙を思い返す。
フィニッシュラインまであと50メートル。
憧れは憧れのままでいるのが一番いい。
本当にそうなのかどうかが、今の私にはわからなくなっている。
あれほど苦しかった呼吸が続く。何かに背中を押されたように手と足が回る。
溢れる涙を振り払い、一人二人と追い抜いて、ついには二番手と先頭を走る選手の姿が見えてくる。
子供の頃から走るのが大好きだった。
その始まりはきっと、勝てなくても誰も見ていなくても、その時できうる走りをしようと全力でもがく事だったはずだ。
私はあの時思い描いていた自分から、今の自分がかけ離れていくのが許せなかったのかもしれない。
そうしていつからか私からは『楽しい』が抜け落ちてしまっていた。
大事な事を思い出させてくれた人達の姿を浮かべる。
すると、苦しさの中にいても最後までやりきろうという気持ちが湧いてくる。
ここからはつまらない拘りを捨てて、難しく考えるのをやめよう。
まずはこのレースを勝つ為に走るのではなくて、楽しむ為に走ろう。
その結果一番になれなくたっていい。
フィニッシュラインまであと20メートル。
目指していた最後の背中が近づいて、次第に歓声は大きくなっていく――。
競技が終わると、私は息も絶え絶えになりながらひたすらに豊島さんの姿を追い求めた。
ようやく正面にその姿を見つけると、覚束ない足取りながらも歩みよる。
「これ、豊島さんでしょ。あの手紙もエデアも、もしかしてあなたがした事なの?」
首に掛けたお守りを手に取って見せる。
「だったら、何だって言うの」
彼女は俯いて、その声色とは裏腹に両手を震わせていた。
「なんで」
私がそう言いかけてすぐ、遠くの方から声が聞こえてきた。
「おねえちゃん、さっきのすごかったね~! おとーさんもおかーさんもはやくはやく!」
一番近くで支えてくれていた家族が手を振っている。
「佑香っちー、最後の叫びめっちゃグッと来た! 次は絶対一位取ろ! 陸上ってさ、よく、わかん、なかったけど、なかなか、アツイね」
喝を入れてくれた友達が涙ぐんでいる。
「ごめん皆、ちょっとだけ待ってて!」
私は彼らの方にそう告げて、再び豊島さんを見つめる。
その表情はいまだにわからないままだ。
「私なんかに構うより、早く行ってあげたほうがいいんじゃない?」
そう言って彼女は私に背を向ける。
「ねえ。なんであんな事をしたの?」
「……どうしても、勝って欲しかったから」
彼女は振り向くような形でそう答えた。
「でもあんなに回りくどいやり方じゃなくて、直接言ってくれればいいのに」
「だって」
そう言ったきり彼女は黙った。それでも私はその言葉の続きを待ち続ける。
沈黙の
「あなたを目の前にすると、思ってもいない言葉ばかり出てきてしまう。目さえ合わせられない。だからよ。私だってもっと、素直になれたらあなたと」
彼女は自分の言葉に驚いたかのように目を見開いて、すぐに両手で口を塞いだ。
私はただ驚いてその様子だけをじっと見つめていた。
「なんでもないわ。気味の悪い真似をしてごめんなさいね。でも、これでもうおしまい。今後クラスで目が合っても、無視してくれればいい。誰かに面白おかしく話すのも構わない。ただ、せめて遠くから見ているくらいは許して」
私の返事を待たずに彼女は走りだしてその姿は遠くなっていった。
一人立ち尽くし、今まで彼女の取った私に対しての言動を思い返してみる。
私はずっと彼女に嫌われているものとばかり思っていた。
今ならはっきりとわかる。
豊島さんはまるで私そのものだ。
一つ大きな違いがあるのだとしたら、彼女は彼女なりに勇気を出した。
一方の私は自分にとって都合のいい言葉に逃げ込んで、言い訳をしていただけだ。
このまま終わってしまっていいはずがない。
私は、憧れのその先を知りたい。
屈んで地面に両手をつく。
目を瞑り精神を研ぎ澄ませると、慣れ親しんだスタートの合図が聞こえたような気がした。
大地を蹴って踏み出す一歩目がこのうえなく軽い。
跳んでいくように駆け出して、私の足はほどなくして彼女の姿を捉え始めた。
「どうして追って来るの」
「聞いてよ」
「来ないで」
「私ね」
「もうおしまいだって言ったでしょ!」
「まだ、あなたに伝えてない事があるんだ」
逃げていく背中に言葉を掛け続けて、ようやく彼女の動きは止まった。
「豊島かえで! よく聞いて。私はこれから何があっても、ずっと、ずっと陸上を続けていくよ」
「えっ……?」
彼女は驚いた様子でこちらに振り向いた。
「私はただ、豊島さんの一番に」
そう言いかけて唐突に息が詰まった。
何かがいつもと違う。少なくとも普段どおりではないと感じた。走りきったあとでもここまで苦しくなることはない。
そんな私を見てなのか、彼女は小さく首を傾げている。
「あ、ううん。次の大会は一番になりたいんだ。だからさ、よかったらまたアドバイスとか……今度は面と向かって貰えると嬉しいんだけど。いいかな?」
言い終えると、じわじわと顔に熱を帯びていくのがわかった。
心臓を打つ鼓動の音がどんなものよりも騒がしく感じる。
それと同時に、こんなに暖かな気持ちになるのは初めてだった。
手のひらを胸に当ててそれをかみしめる。
次の瞬間、気持ちのいい風が吹いて綺麗な黒髪がふわりとなびいた。
髪をかきあげた豊島さんの頬には雫がつたい、次第に地面を濡らしていった。
私は居ても立っても居られず側へと駆け寄り、涙の跡を指でやさしくなぞった。すると彼女の瞳の中には私がしっかりと映っている。
あのお守りを大事そうに両手で抱えながら、
「仕方がないわね」
そう声を震わせて、真っ赤な目をした憧れの人は私に向けて初めて笑った。
スプリンター ひなみ @hinami_yut
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