白磁の閨(ねや)

「いえね、母屋を一巡りしてみたのですがどうやら誰にも僕が見えないようで往生していたんですよ。いや、往生できていないからこうしてここに居るわけですが、はは」

「笑えませんが」

「面目ない……」


 己の骨壷をしげしげと眺める兄は、透けていることを除けばまるで生前のままだった。黒く豊かな髪を結い束ね、気に入りだった鳩羽はとば色のひとえを着流している。よくある幽霊絵のように死装束でもなければ天冠も付けてはいない。


「……どうして」

「ああ、それはね、僕にもよく分からなくて、ほら初七日とか四十九日とかあるでしょう、今世と来世の狭間だとか三途さんずを渡るまでの猶予とかそういう、なんというかそういうものなんじゃないかと、まあ、それでも君にだけ見えているのがどうしてかはわかりませんけれど、」

「そうじゃない」

 浮ついた調子の早口を遮った。ぐっと兄のことをめつける。

「そうじゃありません」

 束の間口をつぐんで、それから兄は訥々とつとつと語り出した。

「――本当にね、よく分からないんです。あれこれと思い悩んでいたのは、ええ、確かですけれど、命をとうとまでは、思っていたかどうか……いや、どこかにそういう心があったから、あんなに水辺へ寄ったりしたのかな……自分のことなのに、どうしてでしょうね。はっきりと覚えていないんです。申し訳ない」

 また、眉尻を下げて笑う。兄はいつもそうだった。息子でもおかしくないような歳の弟に敬語を使い、いつだって何か申し訳なさそうに、困ったように笑うのだ。気楽だからと一人で離れに住み、縁談も受けず、三十八にもなって独り身のまま――

「……兄様はいつもそうだ」

「面目――」

「面目も煉獄もあるかこの唐変木!」


 兄は呆気に取られた顔をした。それもそうだろう。私が兄と暮らした十九年、声を荒らげたことなど一度もなかったからだ。


「兄様がそうやって申し訳ないだの面目ないだの言ってのらりくらりと逃げて来たことが全部! 全部私に降り掛かってるんです分かりますか! 母屋に顔を出す親戚のご機嫌伺いも! 縁談も! 跡継ぎも! 全部です! 私がどれだけ苦労しているか、どれだけ――」

 声が詰まる。

「――どれだけ、兄様に傍に居て欲しかったか」


 畳表に涙が落ちた。


 母に折檻された私の頬に氷嚢ひょうのうを当ててくれたのは兄様だった。父に叱責された私の涙を拭ってくれたのも兄様だった。兄様が居たから、居てくれたから、私は。


 いつしか私は子供のように泣き伏していた。

 幽霊には触れられないが、ぬくもりはあるのだと私は生まれて初めて知った。


「……申し訳なかったですね」

 私の頭を撫でるように手を動かしながら兄は言う。

「君のためと――家を継がせるのが君のためと、そう思ってあれやこれやと気を回していたつもりでしたが……どうにもいけなかったようだ」

 文字どおりの最期まで空回りでした、と苦笑いが頭上から降ってくる。

「……いいえ、最後ではないでしょう」

「おや」

 涙を拭って体を起こす。

「だって兄様は、現にここに居るのですから」

「……ははあ、君」

「初七日? 四十九日? とんでもない。幽霊結構。病気の心配も老いる心配も無いということでしょう」

「悪いことを考えますねえ」

「兄様」

 裾を直し、襟を正して端座した。

「私が死ぬまで、傍に居てもらいますよ」

「いやはや、これが泣く子と地頭には勝てぬ、というやつですか」


 困ったことになりました、と。

 言葉とは裏腹、含羞はにかんだように微笑む兄を透かして、月光が白磁の骨壷を照らしていた。

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月光の庭、白磁の閨(ねや) 朧(oboro) @_oboro_

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