それは誰が言おうと恋の歌

柳よしのり

第1話

 もしかしたら、全世界的には極々ありふれた話なのかもしれない。私、天道院てんどういん陽光ひかりは車にかれたのだ。

 なかなかに重量感のある業務用トラックだった。私の体は景気よく吹き飛び、くるくるくるくると、地面が、周りの建物が、回っていく。

 本当に回っているのはこの重たい地球じゃなくて、自分の小柄な身体なんだと気づいたときには、なんかもう頭の中が真っ白に漂白されていた。そして私の思考とはまったく無関係に思い出される人、人、人。白紙の私の脳裏には、見知った人の顔が次々と浮かんでは消えていく。

 つぐみ先輩、貴子たかこ先輩、愛理あいり。私の大切な、とても大切な人たち。

 後から思えば、それが世に言う走馬灯ってやつだったと思うんだけど、そのときはそれが人間の人生で滅多に来ない稀少な体験だったとは思ってもいなかった。だから、もっと単純に、明確に、純粋に、切実に、私は困っていた。

 これ、今日のライブ行けないかも。

 いやいや、実に困った話だった。今日は自分の晴れ舞台もいいところ、通っている高校の学園祭で、なんとも凡庸な私がバンドボーカルとしてステージに上がる日だったのだ。

 さっきまで『遅刻、遅刻』と慌てて駅まで走っていた私が、まさか学園前駅ではなくて地獄への片道切符を手に入れていたなんて洒落にもなってない。トラックの運転手ももう少し時節を選んで轢いて欲しいものだ。よりにもよってこんな大切な日に、ピンポイントに私にぶつかりに来るなんて。

 次第に近づいてくる黒いアスファルト。さすがの私も、自分を擦り潰そうとする地面なんて見ていられなくて、ぎゅっと目を瞑った。

 瞬間、雷のようなすごい音が耳元で鳴った。不思議と身体には何の感覚もなかった。

 あー、死んだよね、これ。

 いやぁ、私もほとほと運がない。何の才能もない私をボーカルに採用してくれた軽音部のみんなには悪いことをしてしまった。本当なら今頃学園祭の準備をしている学校に駆けつけて、死んでしまったことをジャンピング土下座したいところだったけど、それも叶わない。

 享年十六歳。命短し恋せよ乙女という言葉を聞いたことがあるけど、うん、確かに短いや。

 残念。とても残念。そう、心残りがある。本当にこのままでは死にきれない。みんなに合わせる顔がない。

「おい、大丈夫か! 生きてるか!」

 事故現場の近くにいた人だろうか、男の人の叫び声が聞こえた。

「あ、はい」

 私はむくりと体を起こした。

「よかった。ゴミ捨て場がクッションになったんだな! 待ってろ! 今救急車呼んでやるからな!」

 待ってろと言われても、ゴミ袋の山に半身が突き刺さった私は、まったく身動きがとれなかった。

 医者の見立てで全治一ヶ月半。幸いにも両足の骨と左鎖骨、肋骨2本のヒビだけで命に別状はなかった。下手にタイヤに巻き込まれるより、宙に跳ね飛ばされたのが幸いしたらしい。

 まったく、ゴミの回収に回ってくるのがいつも遅いと、ご近所で評判の業者に感謝しないといけない日が来るとは思ってもみなかった。

 しかしながら、医者や警察からは『奇跡だ』とか『神様が助けてくれた』とかとか言われたけど、私としては私程度を助けるなんて安っぽい神様がいたものだと、内心思っていた。私がどんな角度でゴミ袋の山に突き刺さろうと、天上でふんぞり返っている全知全能の神様からしたら、些事さじにも程があるでしょうに。

 それから本当にもう大変だった。私の携帯スマホが私の代わりに大破して、両親に連絡が出来ないし、代わりに駆けつけたクラス担任の皆川みなかわ先生と軽音部の顧問の白浜しらはま先生が、私の車椅子姿を見て大泣きするし。いや、私、死んでないんですけど。

 でも一番に困ったのは、そのまま入院させられることになったからだ。

 いや、ダメでしょ。今日はライブの日なんだから。

 私はボーカルを任せられた。私は行かないといけないんだ。

 事故に遭ったのは午前中だったけど、検査やら処置やらで、とっくに昼時は終わっていた。慣れない車椅子をなんとか動かして、病院前で客待ちしていたタクシーに何とか頼み込んだりしたりしているうちに、刻々と時間は過ぎ去っていく。学校に辿り着いた時には、すでにライブ開演時間の一時間前を切っていた。

 やっとにしてライブ会場が設営されていた体育館脇に着いたとき、私はバンドメンバーと感動の再会を果たしたのだ。

 今生の別れをし損ねた仲間達との邂逅、さぞかし涙ぐましいシーンが繰り広げられるかと思ったら、めっちゃ怒られた。

 どうやら、病院で撒いてきた先生達から連絡が行っていたようで、私は捕縛されたのだった。

「さすがに、それはまずいと思うよ?」

「ボッキボキに体折れて、ゾンビー並の耐久力。素直にドン引き」

「お願い、ライブなんてまたいつでも出来るから、ちゃんと体治そ」

 意外にも、私の仲間達は常識人ばかりだった。ほんと意外。まるで私が悪いことをしているみたいじゃない。

 つぐみ先輩なんて目に涙を溜めてるし。やっぱり年をとると涙脆くなるんですかね。私と先輩の歳は一つしか違わないけど。

「諦めなさい。この学園祭の運営を差配する生徒会長として、そんな状態の人間をステージにあげることは出来ないわ。大人しく病院に戻ることです」

 一番激しく私を責めたのはメガネ優等生の生徒会長だった。先輩達と同じ二年生だけど、おばさん臭がするというか、生真面目が制服を着て歩いてると言われるほどの絵に描いたような委員長体質。普段から制服を着崩してる私は、なんだかんだで目を付けられていて、よく校内で注意を受けてたりもした。まぁ、学校内の超有名人。みんなよく見知った仏頂面メガネの人だ。

 この人はそんな真面目っ子で、生きていて楽しいですかね、って言ってやりたいけど。今はそんな場合じゃなかった。

「もう、開演時間……、じゃないですか……」

 私はステージで歌うつもりで来たんだけど、あれ、おかしいな。声が、あんまり出ない。

「陽光ちゃん、だめ。病院行こ。ライブは中止。ねっ」

 いつもおっとりしていて優しいつぐみ先輩が、珍しく声を張り上げたけど、私は首を振った。いや、首を振ろうとしたら、体が引きって上手く振れなかった。

「演奏会中止のアナウンスをしてきます」

 生徒会長が冷徹に告げた。

「だめ!」

 私は力の限り叫んだ。今度はそれなりの声量だった。無理に出した。無理したらいける。声が出る。歌えるんだ。

 私のあまりの剣幕に気圧されたのか。みんな私をじっと見つめてきた。だから、私は

「それはだめ。……先輩。準備して、ください」

と言葉を紡いだ。

 私は本気だった。私はしっかりと皆を見つめた。私は視線に私の思いのすべてを込めたつもりだった。

 その場にいたバンドメンバーと生徒会の人たちは息をのんでいた。

 先生が居たら止められる。大人はダメだ。責任があるといつも逃げる。責任をとらなくて済むように流される。

 だから黙ってここに来た。病院を先生に見つからないように抜け出してなんとか辿り着いた。顧問の白浜に後で絶対怒られるけど、でも無理を通すなら今この瞬間しかない。

 私の言っていることは無茶苦茶だ。今日事故にあって病院に入院させられるって人間が、ステージに立とうとしているなんて、ほんと馬鹿げてる。

 それぐらいわかってる。その程度の常識は私にもある。でも、これは学園祭だから、生徒の自主性で運営するお祭りだから、だから、今日なら、今だけなら、私はまだ諦めなくて済む。その思いが私を突き動かしている。

 みんな強ばった顔をしていた。私の覚悟は十分に伝わったようである。

「ねぇ、この子、事故で頭打っておかしくなったの?」

 少し演技がかった口調であきれた様子の生徒会長。

 まぁ、この人も言いたい放題言ってくれます。そりゃ生徒会長みたいに、成績も良くて人望もあって、学校運営の一翼を担う重責に耐えて周りの期待に応えられる人には、私のように何もない人間の思いなんてわかんないんだろう。

 私たちにはこれしかないんだ。これ以外に私たちが私たちとしてみんなに認めてもらう方法がないんだ。それがバンドだ。ロックな生き方なんて、憧れというか羨望というか、非現実的だなんてわかっているけど、そうやって何かを変えたくて、自分を変えたくて、仲間を得て、何を得ようとしている。

 だから私は無理をしてでも、この演奏会に駆けつけた。ステージに立つためならなんでもしてやる。その決意のまなざしをバンドメンバー達に投げかける。

「う~ん、若干普段通りというか」

「これ、いつも通りの馬鹿」

「ですよね~」

 う~ん、私のバンド仲間からの信頼を感じてしまう。私のことをよくわかってくれている。これが私の大事な仲間、バンドメンバーです。いやぁ、照れちゃいますね。

「気持ちは、多少は察します。折角の学園祭です。あなたたちがこの日のために必死に練習していたのも知っています。というか、生徒会室が貴方たち軽音部の部室の校舎向かいにあるんですから、嫌でも練習が聞こえていました。毎日毎日遅くまで演奏してくれてましたね。ほんとその騒音具合といったら、まったく学校の周りに民家が無いからよかったものの、あれは普通に近所迷惑ですよ。練習するときは、ちゃんと窓を閉めて……、んん、それはともかく、とにかく許可できません。皆川先生にも連絡済みです。もうすぐ病院から迎えに来てくれます」

「そんな……」

「あなた一年生でしょ。学園祭なら来年もあるじゃない。今年は運が無かった。また来年頑張りなさい」

 ほんとに冷たい事をいう生徒会長様だ。わかってない、まったくわかってない。

 彼女は当たり前のことを言っているつもりなんでしょう。えぇ、そうなんでしょうよ。

「……また、またってなんですか?」

 生徒会長が冷たい視線を返してきた。私の口答えが気に入らなかったのだろう。

「また、なんて、あるわけないじゃないですか。……今年の学園祭は、今日だけ、です。やり直しなんて、ある、わけないじゃない、ですか。来年は、今日じゃない、んです。今日は今しかなくて、私が一年生で、先輩が先輩なのも今しかなくて。私が、今日として歌える、の、今日しかないんです……、そ、そんなこと、わからないんですか?」

 息が上手くできない。まったくこの痛みは邪魔です。ギスギスと強く打った場所がきしむ。なんとか言葉を紡いでいるけど、それも上手くいっていない。

 なんだろ、声が途切れ途切れになっているのは、身体の痛みを気にしてのことだったけど、紡いだ言葉はなんか稚拙で、本人の私が言うのもなんですが、変な感じだった。自分自身、言いたいことを上手く表現できていない気がした。

 あー、私はあんまり頭が良くないんです。小難しいことは考えたくない。でも、これだけは言える。私は無駄にしたくないんだ。生徒会長の言う騒音じみた私たちの練習は、決して無駄じゃ無かったと、誰かに認めてほしい。

「……頑張ったんです。みんなで、頑張って、曲を作って、必死になって、練習して。本当に、本当に、頑張った、んです。みんな、みんな。……私は、いいん、です。私のことは、どうでもいいんです」

「どうでもいい?」

 瞬間、生徒会長の眉が跳ね上がった。腕組みをして、とても威圧的に見えた。それでも私は続ける。続けてしまう。

「……わ、私が事故にあって、私が出られない、のは、私の責任だから。でも、先輩達は、……違います。私が、ステージに上がれ、ないのは、別にどうだって……」

 私たちはバンドだ。私たちは全員揃って演奏する、歌を作り上げる。たとえ私が実力が不足している形だけのボーカルだったとしても、私は任せてもらったのだ。そんな私が居ないだけで先輩達の練習を、ライブを台無しにしてしまうなんて。赦されるはずがない。他の誰でも無い、私が私を赦さない。絶対に、絶対に。

「なら、歌無しで演奏することね。それなら別に止めません。あなたが病院に戻るなら、残るメンバーでの演奏会。悪くないでしょう。束野つかのさんたちなら楽器だけでも、それなりに出来るでしょ」

「まぁね」

 即答の貴子先輩。そりゃそうだ。貴子先輩は元々ギター片手に駅前で弾き流しとかできる人だ。ギターさえあれば、いつでもどこでもなんだって出来る。それがみんなの憧れ束野貴子というギターリストだ。

 しかし、つぐみ先輩と愛理は苦い顔をしていた。

 ボーカルがいなくて曲構成をどうするのか、そんなの事前に全く考えていない。貴子先輩とは違ってリズムパートの二人は合わせ練習をしていない曲なんて出来やしない。私たちは軽音部、プロみたいな実力はないから、今からボーカル無しのインストロメタル曲に変えるなんて現実味がまったくない。

 だったら貴子先輩のソロライブでもやるのか。それはそれで客受けがいいんだろうけど、貴子先輩の目は笑っていなかった。先輩だってバンドの一員で、みんなでライブをやるために練習してきたのに、たった一人でステージに上がるのを望んでいないのは明白だった。

 いや、私は知ってる貴子先輩はソロでも出来る人だから、余計にバンドを大事にしてくれている。みんなで力を合わせることで独りでは出来ないことが出来ると知っている人だ。だから私は。やっぱり納得がいかない。

「だめ……だよ。それじゃあ。今日の歌は、愛理が作った詩だから、つぐみ先輩が、作ってくれた曲だから……。私、歌がそんなに上手くない、ってわかって、ます。楽器が出来ないから、ボーカルに、してもらってるって、……わかって、ます。でも、つぐみ先輩が作った曲で、愛理が作った歌が、みんなに、聞いて、もらえ、ないのが……」

「声、出てないじゃない」

 痛烈な生徒会長の一言。私が必死に隠そうと、声を出そうとしているのに、やっぱりバレてる。肋骨の痛みより鎖骨の方が問題だった。片腕が思うように動かないことが、これほど声に影響するとは思っていなかった。

「出ます。出します、声」

 気合いだ。気合いしかない。私の身体がどうなろうと知ったこっちゃないけど、ちゃんと歌えるのか、声が出せるのか。やってみないと、試してみないとわからないけど、どうにかするしかない。

 私はずっとそれで焦っていたのだ。早くステージのマイクでどれぐらいの声を出せるのか試さないと。早くステージに上がらないと、私はずっとそう思ってここまで駆けつけたのだ。

「出しますって、軽音部ってそんなに体育会系だったとはね」

 生徒会長が一際深いため息をついた。

「……、あなたの気持ちはわかったわ。でも、人生どうにもならない時ぐらいあるものよ。それは今、あなた自身が一番わかっているでしょ? 歌える状態じゃないでしょ? 精神論でなんとかなるなら、車椅子から立ってみなさい」

 瞬間、私は何の躊躇もなく、車椅子から身体を投げ出した。

 立った。私は立ってみせたのだ。

 でも、私の足はぷるぷると震えてる。でも立ったよ。立ってみせたよ。

 私は笑っていた。痛いという顔なんて絶対にしない。してやらない。

 いつも澄ました顔をしている貴子先輩ですら驚いた顔をしていた。愛理は見ていられなかったのか顔を伏せてしまっていた。

 私が無理をしているのなんて一目瞭然だった。誰も私がまともにステージに立てる状態だなんて思っていない。

 そんなのは私が一番知っている。単純骨折をギブスで固めているとはいえ、骨の折れた足で立ち上がるのがこんなにも耐えがたい苦痛だとは思っていなかった。それでも私は立って、声を出すために息を吸う。

 さあ、声を出すんだ。

 新曲の歌い出し。

 一音目から高いボーカル泣かせの新曲。

 つぐみ先輩の渾身のオリジナルだ。

 その最初の音を今ここで。

「はい、そこまで」

 気が狂いそうなほどに痛んだ身体を、生徒会長に優しく支えられた。

「立てなんて言ってごめんなさい。別に意地悪をするつもりはなかったの」

 いつも口うるさい生徒会長の素直な謝罪。生徒会長は意外にも力強く、私はゆっくりと車椅子に身体を戻された。

 それに抵抗がまったくできなかったのが私の限界だった。私の身体は壊れていたのだ。ステージで歌うなんて無理だったのだ。私の全身から気持ち悪い脂汗がにじんでいた。一瞬立ち上がっただけなのに、私の身体が悲鳴を上げていた。

 私の瞳から、液体が流れてきた。

 わかっていたのに、無理をして、気合いでどうにかなるなんて本気で思ってなかったのに。それでもそんなこと認められずにここまで来たのに。

 ああ、ついに私は折れてしまったのだ。骨だけでなく心がポキリと折れてしまった。

 車椅子に座った私の顔に、生徒会長が頬寄せる。

「悔しいのね。悲しいのね」

 やっぱり、いつもの口うるさい生徒会長とは思えない優しい声。

「私の体、なんて、どうなっても、よかったんです、……でも、でも、でも、みんなで練習して、みんなが聞いてくれるために、集まってる、のに……」

「どうでもいい、ね。さっきもそう言ってましたね。ほんと、聞き捨てならなわ。あなたは自分が傷ついて、その言っているみんなが喜ぶと思っているの?」

 泣いていた。バンドメンバーの三人は私よりずっと酷い大泣きだった。ずっと、ライブが中止になるかもしれないと不安だったろう。後輩が、仲間が事故にあったと聞いてショックだっただろう。そんな思いを押し込めて、当人の私が自分を責めないように、みんな無理して振る舞ってくれていたのだ。単なる女子高生がそうしてずっと我慢していんたんだ。

 それを私が泣かせてしまった。大事な人たちを泣かしてしまった。

「……ごめん、なさい」

 弱々しく零れた声。やっぱりそんな声しか出せないようでは歌えるはずもない。生徒会長は、涙を止められない私を優しく抱きしめてくれていた。

「わかった? あなたは病院に行く。身体を治す。ね?」

「……は、い」

「そう。じゃあ確認だけど、あなたはあなた自身はのね。あなたは自分が歌わなくても、彼女達が演奏して歌を聞いてもらえたら満足なのね?」

 何を言い出すんだろうと、私はよくわかっていなかった。

 でも生徒会長が言ったことは間違っていなかった。

 事故に遭って怪我をした私がステージに上がれないのは自分の責任で仕方が無い、とは思う。悔しいけどそれは私が受けるべき罰なのだ。

 だから私は、わずかに、力弱く首を縦に振った。

 頬が振れそうなほどに近い生徒会長の顔は、なんだか腑に落ちたという不敵な笑みを浮かべていた。

「でも、ボーカル録音なんてしてない、よな?」

「ええ、そんな準備はないですよ」

 涙の跡が顔に残る貴子先輩の言葉に、慌てて答えた愛理も顔を拭って答えた。

 打つ手がない。その確認がなされたことで、重たい空気がさらに重たくなった気がした。せめてデモ録音でもあればよかったのだが、インディーズで活動するなんてレベルにも満たない素人バンドの私たち軽音部にそんな用意なかった。

「代役を用意します。あなたたちはステージで楽器の準備をしておいてください。けいはこの子の迎えが来るまで付いておいて」

 私たちバンドメンバーは生徒会長が何を言い出したのか、一瞬理解できなかった。それに対して名前を呼ばれた生徒会の女性は違った。体育館の壁にもたれかかって事の成り行きを静かに見守っていた女生徒が直ぐに私の所に来た。

 この生徒会の女性、校内でも目立つ存在の生徒会長とは違い、どうにも名前が思い出せない。確か二年の女子で副会長だったはずだ。

 その副会長は、了解という意味合いなのだろう。私以外のメンバーはステージに出るようにと手で促した。

「だ、代役って、なんですか?」

 私の素直な疑問を口にしたが、それは無視されて副会長に車椅子のグリップを握られてしまった。

「はい、あなたはこっちね。先生が来るまでは客席の方で見ていましょうか」

 と私の車椅子は押され始める。先輩達も意味がわからず生徒会長に食ってかかっていたが、私だけ訳もわからぬうちに体育館の裏から連れ出されてしまった。

 私が客席に着く頃には、先輩たちはもうステージ上に現れていた。だが、その表情は硬い。

 そりゃそうだ。私も知らない代役なんて、先輩達も知らない存在だ。不安で当たり前。さっきの体育館裏を私が強制的に出された後でどんな話になったのか、私には知る由も無い。みんな集中が出来てない様子で、ぎこちなく楽器のチューニングを確認していた。

 それに対して何も知らない観客側は違う。学内でもギターリストとしても有名な貴子先輩がステージに現れたのだ、それだけで観客として集まった生徒達は沸き始めていた。

 私たちは軽音部のバンドとして学内である程度の知名度はあるものの、決して大人気というわけではない。体育館にパイプ椅子を並べて作られた観客席も、ステージに近い所は埋まっているものの、後ろの方は人がまばらだった。

 それでも、この客席の様子で人が少ないってことではないのを私は知っている。素人バンドがライブをしても集まってくれるのは微々たる人たち。だからこそ来てくれた人に、せめてもの歌を届けたかった。自分たちの長くはない学生生活で、できる限りの時間をかけて作り上げた歌を聴いて欲しかった。集まってくれた人たちを目にしてしまっただけで、私は胸苦しくなる。

 また泣きそうだった。体の痛みは歯を食いしばって耐えていたけど、ステージで歌えない悔しさには耐えられそうにない。

 貴子先輩が突然ギターをかき鳴らし、短いフレーズの即興始めた。定番のダイヤモンドヘッドから始まり、最近のJPOPのサビまで、キャッチーなフレーズを繰り返し、リフを刻んで観客を沸かせ始める。

 これは時間稼ぎだ。楽器はステージ設営のときから準備していたのでチューニングも簡単な確認程度で十分だったはずだ。

 だから、間を保たせないと、場を盛り上げないと、というアーティスト独特の嗅覚が働いたのだろう。何も知らない観客は無邪気に盛り上がりを見せた。そう、ライブが始まる。その湧き上がるような期待感が会場に流れ始めていた。

「ねぇ、先輩、代役って、誰なんですか?」

 私の横に仁王立ちしている副会長に改めて聞いてみた。彼女は特に心配げでもなく、無表情のままステージを見つめていた。

 無視されたわけではないのだろうが、副会長は答えなかった。

 いや、たぶん答えを知らないのだと感づいた。

 そもそも、やっぱり代役なんて存在するはずがない。これが演奏一週間前なら曲を練習する時間がある。代役を用意することも出来たかもしれない。でも演奏の当日、しかも数分前だ。誰を連れてきたところで、歌詞すら知らない私たちのオリジナルソングを歌える人間なんていないはず。

 また涙で視界が歪み始めた。自分がみんなの学園祭を無茶苦茶にした。事故に遭ったのは不可抗力だったとしても、自分さえ事故に遭わなければこんなことになっていなかった。自分がこのステージの上で集まってくれた人たちに元気に挨拶をする。そんな未来が待っていたはずなのに。

「来たわ」

 副会長の言葉に顔をあげた。

 それは生徒会長だった。あのお堅い生徒会長が舞台袖からステージに現れた。しかし、先ほどまでは制服姿であったが、どうしてか体操服のジャージの上着を羽織っていた。

 生徒会長がステージ上に用意されていたマイクの電源を入れると、体育館のスピーカーからは独特の甲高いノイズが響いた。

『お集まりの皆さん。軽音部主催バンド「ブラウニーラック」の生演奏会の開演時間となりましたが、まずは残念なお知らせがあります』

 生徒会長が現れ、何事だと皆息をのんだ。

『今からこのステージで歌うはずだったボーカルの天道院さんは、都合が悪くなり本日の演奏会はお休みになりました』

 会場がどよめく。あちこちから心配そうな声があがる。自身のことながら恐縮に身が固まる。

 客席から「ボーカルなし?」という声が聞こえてくる。やはりバンドのライブでボーカルがいないと聞いて、落胆する様子が伝わってくる。

『なので、本日のボーカルは代役となります』

 会場が一際ザワついた。当然の反応。会場内が落ち着くのを、まるで全校集会での挨拶で生徒が静かになるのを見守るかのごとく、手慣れた様子で生徒会長は待っていた。

『……、それでは聞いてください新曲です「ノーリーブス」』

「え?」

 驚きに、真抜けた声を上げてしまう。驚いたのは会場にいた全員だ。観衆も、ステージに立っているバンドメンバーも、みんながみんな、状況がわからず困惑していた。

 そんな戸惑いの空気を読みもせず、生徒会長がドラムの愛理を振り向き視線を向けた。マイクに声が入らないように生徒会長は口元だけを動かした。「カウント」と言いたいのだろう。それを察して愛理が反射的にスティックでカウントを入れる。

 そして始めるシャッフルビート。突然のことで混乱しているのだろう愛理のドラムが乱れ気味に始まる。

 そこにつぐみ先輩のベースと貴子先輩のギターが乗る。さすが二人は音楽経験者としての年期が違う。乱れたドラムにも合わせて入ってきた。

 その瞬間、生徒会長はジャージの上着を脱ぎ捨てた。

 ジャージの下には一昔前のアイドルが来ていそうなノースーブの衣装。赤い生地に襟元にチェック柄が入った派手な衣装だった。

 そして、生徒会長がいつも後頭部でお団子にしている髪留めを外すと、綺麗な黒髪のロングヘヤーが流れた。メガネも外して髪留めとジャージを合わせて投げ捨てる。

 そこに居たのは誰なのだろう。いや、生徒会長だったはずの誰か。いつもとまったく印象が違うので、私の頭がついていけない。いつもお堅い小言をまくし立ててくる印象しか無い生徒会長が黒髪を掻き上げている姿は、まったくの別人にしか思えなかった。

「わざわざ、あれを演劇部に借りに行っていたのね」

 半ばあきれたような、副会長のぼやきが漏れた。

 その間も演奏は続いていた。もうすぐ長めの前奏が終わる。ついに私たちの新曲のワンフレーズ目の歌い出しが来たのだ。

 ああ、神様。どうか、どうかお願いです。

 事故で私の命の助けた安っぽい神様なら、私のお願いを聞いて欲しい。始まってしまった曲を、私たちの新曲を助けてください。そう願ってしまった。両の手を胸の前で組み、祈るように願ってしまった。

 そこに正確に歌詞が紡がれた。

 会場に響く歌声。スピーカー越しでもわかる。芯の通ったボーカル。

 これがあの生徒会長の歌声?

 どうして歌えるの?

 どうして歌詞を知っているの?

 先輩達と初めて合わせたんじゃないの?

 色んな疑問が頭を過る。でも私の心配をよそに、歌は途切れずに演奏は続いていく。

「すごい……」

 何のはばかりも無く、本心が漏れていた。

 会場の中の誰よりも、生徒会長の歌唱力がわかる。自分自身が今日ここで歌うためにどれだけ練習してきたか。つぐみ先輩が作る曲はいつも一筋縄でいかないテンポの曲を作る。それを正ボーカルの自分より正確に歌っている。

 それだけじゃない。乱れて始まった愛理のドラムはかなり走り気味だったのを、生徒会長は歌いながら手で抑えるように合図を送っていた。

 私だったら自分が歌うだけで、曲についていくだけで精一杯なのに。そんな余裕まである。

 Aメロ、Bメロ、どこをとっても歌い方に不満なんてない抑揚も完璧だった。

 そしてサビ。一気にキーが上がるサビの入りも安定した裏声を響かせる。サビ終わりのロングトーンも広がりのあるビブラート。聞いている者たちの耳に心地よさが届いてくる。

「綺麗……」

 泣いていた。痛いとか、悔しいとかでは目尻を湿らす程度だったのに、ぽろぽろと涙が溢れて止め処なかった。

 当初、バンドメンバーではない生徒会長が歌い出したことに戸惑っていた観客は、もう誰も気にしていなかった。皆の身体は曲のリズムに揺れていた。素人バンドの演奏会なんて、盛り上がらないことなんてざらにあるけど、そんな一般論はお構いなしに、問答無用の歌声だった。

 当初乱れていたドラムも落ち着きを取り戻し、ベースのつぐみ先輩とのリズムアンサンブルもいつもの調子を上げていた。本番での出来と考えるならベストに近い演奏。貴子先輩なんてノリノリでギターアレンジを入れる始末。

 それもこれもボーカルの安定感が成せる技だ。リズムパートが乱れても、ボーカルが全く乱れずに付いてくる。正しいリズムに導いてくれるような安定感のあるどっしりとした歌声。

 私とは全然違う。私にはここまでの声を出す肺活量はない。乱れたドラムに惑わされないリズム感なんてない。声質は悪くないとボーカルをやらせてもらっているけど、そんな私とは自力が違うんだ。これは全くの別物。私のボーカルと比べて一つも二つもレベルの高い歌声に、私は打ち震える。

 なのに同じなんだ。

 とっくに気づいていた。これは譜面や歌詞を事前に見たんじゃない。私と同じ歌い方、歌詞の繋ぎ方、ブレスの入れ方、全部一緒だった。いつもつぐみ先輩から「お願いだから楽譜を覚えて」と怒られる私の自分勝手な歌い方そのものだった。実力のない私にはこの歌い方しかできないからと、勝手にアレンジを入れている私の歌い方。それとまったく同じように歌っている、自分と同じように歌ってくれている。

 これは耳コピだ。他の誰でも無い、私の歌声をそのまま覚えて歌ってくれているのだ。

 さっき近所迷惑だって、騒音だって、そう言っていたのに、ずっと聞いてくれていたんだ、私の歌を。私たちの練習を。

 この舞台にバンドのみんなを上げたい。ライブを壊したくない。その思いを受け止めて、私の歌声を届けてくれている。私の代わりに、私以上の歌声で歌ってくれている。

 本来なら自分の真似をされて、それでその上を行かれたときは悔しいと思うべきなのだろう。でも私はわんわん泣いた。人目を気にせず感動で涙していた。

 この曲はこんなにもすごい曲だったのか、自分が上手く歌えてないだけで、こんなにも心揺さぶられる歌詞で、骨を折った身にして体が揺れるのが我慢できないほど弾けるような旋律だったのか。

 私たちの曲は、私たちのバンドはこんなにもすごいんだ。素晴らしい音楽なんだ。そう世界に向けて言ってくれているように思えた。

 私は感動に震えていた。幸福に包まれていた。歌えない私の代わりに、この歌を、この素晴らしい歌を皆に届けてくれたことに感謝しかなかった。

 私は本当に嬉しかったのだ。この日、この瞬間、この一生に一度しか無い高一の学園祭で、この歌声を聴けたことを一生忘れないだろう。

 私はこのとき、歌の可能性を信じさせてくれた生徒会長、柊木ひいらき華枝はなえの歌声に恋をしてしまっていたのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

それは誰が言おうと恋の歌 柳よしのり @yanagiyosinori

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ