第3話 声の先生?




「もう……行くんだね」



 静かな声が草原を歩く少女を呼び止める。

 そよぐ風に飛ばされないよう帽子を優しく抑え、ゆっくりと振り返った。



「ええ。いつまでもこんなところで立ち止まってられないもの」



「近づいたと思えばすぐ離れていく……。まるで猫みたい」



「猫……か。ふふっ、私らしくていいじゃない」



 近づく少女が優しく笑う。



「いつもそう……。そうやってあなたは笑ってばっかりで――」



「当たり前じゃない。だって、あなたのお姉ちゃんだもの……」



 笑いながら、でも少しだけ悲しそうな顔で額をコツンとぶつけた。

 と同時に風が草原の草を勢いよく吹き上げ、少女の被っていた帽子が青い空へと舞い上がる。



「もう、行かなくちゃ」



「……」



 俯いたまま肩を震わせるその姿を見て、少女は落ち着いた様子でほんの少し息を吐き出し元の道を歩きだした。



「絶対!」



 震えながらも精いっぱいに吐き出すその声に、歩き始めた少女が足を止める。



「絶対追い越してしてやるんだからっ」



「ええ。待ってるわ」



 微かに呟いた言葉は誰の耳にも届くことなく風に流されていく。



「追い越して……やるんだから……」



 少女はほんの小さく笑い、光の差す方へとまた歩きだした。








「はいオッケーです。じゃ、確認するのでお待ちくだーさいっ」



 機械の電源を落とし、音無さんが学長とスーツ姿の二人の方を振り返る。



「どうでしょ?何かあります?」



「いっやぁ、最後良かったねぇ……。西園寺君、ほんとに泣いてるかと思ったよ」



「ええ。文句のつけようがないくらいの演技です」



 学長、スーツ姿の二人が満面の笑みで顔を見合わせた。



「じゃ、今のでオッケーということで」



 音無さんが再度スタジオの方に視線を戻し、改めてマイクの電源に手を伸ばす。



「はい、頂きました。これで本日の収録は以上となります、お疲れさまでした」



 その言葉に、スタジオ内にいる声優たちが各々頭を下げる。

 声は聞こえてこないが、お互いにお疲れさまなんて声をかけているのだろう。



 スタジオへ続く扉が開き、ホッと安堵の表情を浮かべた八尺さんが顔を出す。



「いやぁ……なんか知らない人に見られるのって恥ずかしいですね~」



「ベテランが何言ってんですか」



 八尺さんの言葉に、続いて出てきた男性声優がツッコんだ。

 二条 ほまれ。男性だが女性並みに高い声を出すことで有名な声優だ。主役を張るような声質ではないが、主要役としてはここ最近では一番手堅い評価がある声優だろう。



「如月君もお疲れさまでした」



「い、いえ……こちらこそ貴重な経験ありがとうございました!」



 謎にも八尺さんが俺に向かって深々と頭を下げる。その姿に思わず椅子から飛び立ち、八尺さんに負けないくらいに深々と頭を下げた。



 アニメーションというものは映像があって、それに声優が声を当てる。いわばテレビや映画を見ているようなものだ。

 だが、声優のアフレコ現場はそうじゃない。アニメーションが完成しているのは極稀、普通は静止画がちょっと動く程度のものに声を当てなければならない。


 今の収録もそう。白黒で表情すら描かれておらず、5秒に1回程度にしか動かなかったその映像に声を当てたはず。






 ただ、それだけのはずなのに……。






「ちなみに如月君はこれからどうしますか?」



 頭を下げたままの俺を覗き込むように、八尺さんが尋ねる。



「えっと……」



「おや、八尺君は随分と如月君のことを気にいってるみたいだね」



 俺が返す言葉に迷っていると、立ち上がった学長が茶化すように八尺さんに話を振る。



「だって如月君みたいな若い子って可愛いじゃないですか」



 つい数分前まで迫真の演技をしていたとは思えないくらいに甘い声を、和やかな表情とともに八尺さんの口が漏らした。



「ちなみに八尺君、この後僕とインタビューというのは忘れてないですね?」



「あっ……」



 いかにも『忘れてました!』という嫌そうな顔で八尺さんが学長を見上げる。

 二条さんにベテランと呼ばれ敬語扱い、高校3年生を若い絶賛する見た目20代前半の八尺さんは一体何歳なのだろうか……。



「すいません如月君、私この後もちょっと案内はできそうにないみたいで……。代わりにと言ってはなんですが、これ良かったら持って帰ってください」



 そう言って、八尺さんが手に持っていた冊子を俺の方へと差し出す。

 CM・PVと大きく書かれたオレンジ色の表紙。ところどころに付箋が張られ、片手で持てるよう少しだけ反り返った、紛れもないついさっきまで行っていた収録の台本だ。



「でもこれって……」



「いいんですよ。どうせ私はもう使いませんし、それならいっそ未来の声優さんに持っててもらった方が価値もありますし。……あ、でも」



 八尺さんがそこで一度言葉を止めた。



「SNSにアップするのだけはやめてくださいね!」



 そういって八尺さんが満面の笑みを俺に向けた。

 ……え、何この人。惚れそうなんですが?



「じゃあ八尺君、そろそろ行こうか」



「はい」



 学長に続き音響室を後にした八尺さんが去り際にもう一度だけ俺の方を振り返った。



「それでは如月君、またいつか、どこかで会えるといいですね」




 *   *   *   *   *




「フンフーンっと」



 右手に買い物袋、左手に八尺さんから頂戴した貴重な台本を持ち、上機嫌にマンションの階段を上る。

 ちょっと出かけるつもりが、まさか現役バリバリの声優アフレコ聞けるとは……。そして右手に持っているのはついさっきまで使われていた生の台本。これは運がいいなんてもんじゃない。



「おかえり~」



 嗚呼、そういえばこいつがいたな……。


 家のドアを開くと同時にどこからともなくフヨリと現れた幽霊ちゃん(仮)に、高ぶっていた気持ちが一瞬にして現実へと引き戻される。

 思わず白目をむきそうだ。



「ねぇねぇ、どこ行ってたの?」



 うるさい。黙れ。

 あと俺の前を飛ぶな。前が見えん。



「買い物?ふーん……結構遅かったね」



 俺の歩幅に合わせ、幽霊ちゃんが(仮)器用に俺の周りを飛ぶ。そして右手に持った買い物袋をじっと見つめ何かを納得したようだ。




 正直……鬱陶しいことこの上ない。


 東京での一人暮らし。多少の不安はあるものの、本来なら夢と希望に満ち溢れた新生活の第一歩だろう。

 誰にも邪魔されず発生の練習ができるし、歌だって歌える。一晩中アニメを見てたって怒られやしない、俺だけの部屋だ。




 だが、この部屋にはこいつがいる。




 リビングに入り、だだっ広い部屋の真ん中に雑にスーパーの買い物袋を床に落とした。



「ね~え~」



 幽霊ちゃんは俺の周りを飛んだまま、依然その口を閉じる気配はどこにもない。

 というか、なぜこいつはこんなに喋る……。


 今まで何十と幽霊を見てきたが、ここまで積極的に幽霊に話しかけられたことなんて一度もない。そもそも会話として成り立っていないことを幽霊ちゃん(仮)は気づいていないのだろうか?



「ねぇ、ほんとに見えてないの?」



 ああ、見えてない。

 何も見えないし、何も聞こえない。



「……」



 幽霊ちゃん(仮)が無言でじっと見つめる。その距離およそ数センチ。

 吸い込まれてしまうんじゃないかと思えるほどに真っ黒な瞳。わずかに幽霊ちゃん(仮)の呼吸が俺の唇を撫でた。



「ほんとに見えてないんだ……」



 少し暗いトーンの声。

 肩をほんの少しだけ落とし、ふわりと幽霊ちゃん(仮)の身体が俺の目の前から飛び去っていく。


 罪悪感と、不甲斐なさ。

 もし幽霊と話せるのが俺じゃなかったら、もしかしたらこの幽霊ちゃん(仮)も成仏できたのかもしれない。そう考えると、ほんの少しだけ胸が痛――。



「ふふっ……ふへへへへっ……」



 今にも涎が垂れてきそうな、なんともゲスい笑い声だ。

 俺が本気で罪悪感を感じているこの状況で、後ろから伸びてくるこの細く白い腕は一体何なのだろうか。



「あったかぁ~い……」



 はあっと幽霊ちゃん(仮)の吐息が俺の耳にかかる。

 首元に当たっている柔らかい毛先がほんの少しだけこしょばい。



「あぁ~……人肌さいこ~」



 グイッと首元が閉まるのと同時に、柔らかな感触が俺の背中を圧迫した。

 直接幽霊と触れ合ったことなんて今まで一度もなかったが、実際触れてみると案外幽霊も生身も大差はない。というよりか、俺からしたらほんとに誰かに抱きしめられているような感覚だ。




 少しだけ得しているような気がする……。




 既に一欠片の罪悪感すらも心からは消え去り、大きく口の空いたスーパーの袋の横にドカッと腰を落とす。

 今の音、もしかしたら101号室に結構響いたかもしれない。なんてことを腰を落とした後に気づく。




 東京と言っても案外静かなものだ。

 家賃も高いだけあって、壁が厚く作られているというのもあるかもしれない。が、騒がしい音なんて一切聞こえない。聞こえてくるのは耳元ですぅすぅと繰り返す幽霊ちゃん(仮)の呼吸の音だけだ。


 スーパーの袋に手を伸ばそうとして、持ち上げたその腕をまた下げる。

 どうやら幽霊といえども体重は生前と変わらないのかもしれない。完全に幽霊ちゃん(仮)の体重がかかったこの状況、買ってきた弁当を食べれないことはないが、さぞ不自然な食べ方になることだろう。



「うーん……」



 と考えるふりをしつつ、ゆっくりと背中を冷たいフローリングへと近づけていく。

 少しだけ黄色がかった照明を隠すように、ムーッとした幽霊ちゃん(仮)が俺の顔を覗き込んだ。

 話せないと分かって落ち込むどころか、早く起き上がれと言わんばかりの形相だ。こんな自己中心的な幽霊ちゃん(仮)に申し訳ないと思ってしまったさっきの自分が情けない……。



「そ・う・だ」



 達磨にも劣らないキレでフローリングに着きかけた背中をグリンと起き上がらせる。

 勿論、幽霊ちゃん(仮)の目力に負けたわけではない。演技が頭に残ってるうちに台本を読んでみようという、紛れもない向上心からの復帰だ。



「台本台本……」



 買い物袋の横に落ちてあったオレンジ色の台本を拾い上げ、適当なページを開く。

 何一つメモがかかれていない、綺麗な1ページだ。



「さあ少年!君は何が欲しい。金か?名誉か?それとも……」「ううん、違う。僕がほしいのはそんなんじゃ――」



 うん……。




 なんか違うな……。

 八尺さんと西園寺瑠香の掛け合いの時は無いはずの映像が色鮮やかに見えたんだが……いったい何が違うのだろうか。感情というか、何かが足りないような気がするんだが……。


 いや、待てよ?

 あれか、腹式呼吸か。確か腹筋に力を入れて喋るみたいな……。



「フンッ」



 と、わずかに声が漏れる。

 だが行けそうだ。今なら西園寺瑠香にも負けないくらいの演技が!



「ううん違うッ!僕がほしい――」



「ああぅ……違います違います!声を出すときは肩が上がらないように意識して……」



 腹筋に力を籠めて喋り始めた刹那、幽霊ちゃん(仮)が慌てた様に俺の両肩に体重をかける。

 ノッてきたところだというのになんだコイツは?不愉快極まりない。






 不愉快極まりない……。

 が、確かに幽霊ちゃん(仮)に肩を抑えられた状態だとまっすぐに声が通っているような気はする……。



「おおっ、すごくよくなりましたよ!あとはですね……」



 そう言って幽霊ちゃん(仮)が俺の1メートルほど前に立ち、精一杯広げた掌を俺の目線ちょい上くらいに掲げた。



「ここに声を飛ばすようにして……」



 こう……か?

 幽霊ちゃん(仮)の指示する通り、ほんの少しだけ顔を上にあげる。



「もう少し顎は下です」



 顎……?引けってことか?

 視線は幽霊ちゃん(仮)の掌に残しつつ、二十顎に近い感覚を喉元につくる。



「――僕がほしいのは……君なんだ!」






 ……いくら相手が幽霊とはいえ、こんなセリフを女の子に向けて言うのは案外恥ずかしい。



「いいじゃないですかっ!後半また肩が上がっちゃってましたけど、すごくよくなってます!」



 目の前の幽霊ちゃん(仮)がパァっと嬉しそうな表情を溢した。



「まぁ確かに、肩を落とした方が喉からスッと出てる感じがするな……」



「当たり前じゃないですかっ!姿勢と喉の形は発声の基礎中の基――えっ?」



 俺の思考回路が『しまった』という回答に辿り着く。

 が、フフンとドヤ顔をかましていた表情が一変、口をポカンと開けたまま幽霊ちゃん(仮)が俺を見つめたまま時が止まる。



「えっ……」



 ポカンと開いたままの口から、呆けたようなあぶれた様な、なんとも形容しがたい声が――



「えええええええええええええええええええっっっ!!!???」



 俺の鼓膜に響きわたった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

声優見習いと幽霊ちゃん(仮):お試し3話 のなめ @peano

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ