《三》

三 の 一

 夜天よぞらの何も無い空間を荘厳に切り裂いて、鬼のは現われた。


 誰もがその圧倒的な存在に息を呑んだ。人間を超える存在……けれども神のような慈悲を持たぬだろうことは、そのまなざしを遠く地上から眺めるだけでも歴々と、判った。


 敵いっこない、あんな怪物ばけものに、俺たちが、俺が、敵うはずはない。万知也だけではなく、そこにいる全員が、そう確信したはずだ。否、唯一人、父上様を除いて。


 飛び上がるだけで天翔けることは出来ない鶏の、その不細工な跳躍を借りて、父上様は果敢に繕いに行った。


 全身から噴き出した熱い血が、地上に縫いつけられた万知也の鈍い頬を打った。瞬きひとつで鬼は父上様の命を屠った。そうして緩慢な咀嚼で、一片も残さずに完璧に飲み込んだ。


 父上様の魂針が流星のように夜天を伝って落ちてくると、槙乃が言葉になる前の感情の原型を叫び、皆は憤然と魂針を振り上げた。異界の裂け目は自然と消滅し、槙乃たちの魂針は虚しく空を切っただけだった。万知也は阿呆のように双手もろてを下ろして、ただぼんやりと、全ての事が終わるまでその場に立ち尽くしていた。自分の想像を超える相手に、挑む前から尻尾を巻いた。


 笑顔や、やさしい表情ばかり記憶にある父親の死に際を、万知也は幾度くり返し夢に見ただろう。そしてそのたびに後悔をする。無能だから、何度でも後悔を、する。


 混ぜ上がったプリン液を漉しながら、万知也は父の死んだすぐ後に、大怪我をした縫以にプリンを作ってやったことをおもい出す。生まれてはじめて作ったプリンを、縫以は大喜びでいっぺんに二つも平らげた。残ったものを自分でも食べてみると、ざらざらとして食感は悪いし、がたくさん入ってみっともないし、全く酷い出来だった。


 何も出来ない奴が、無理なんてするものではない。


「布目くん、手際が良いね」


 横から話しかけられ、我に返った。すぐ近くに昨日クラスにやって来たばかりの転校生の顔がある。班ごとに別れての調理実習で、ナポリタンスパゲティとサラダとプリンを作っていた。五人いる中の万知也とこの転校生が、プリンの担当だった。


「プリン作ったことあるの?」


 帝都から引っ越してきたと云う彼女は、みんなとは違う制服を着ている。昔の宮中の姫君のように横の髪をひとつかみだけ短く切って、後ろは腰まで長い。真っ直ぐな前髪から覗くひとみは流れるように吊り上がって、何とかと云う女優に似ていると、皆は噂している。


「……前に一度だけ」


「そっかあ。お料理、得意なんだね」


 人懐っこい性格なのか、単に万知也の前の席だからか、初日から良く話しかけられる。時期外れの転校生で途惑とまどうことも多いだろうに、ちっともそんな素振りを見せない。これまでにも何度か転校したことがあるのかもしれなかった。


 出来上がったプリンは、初めて作ったものより美味おいしかった。自分一人で作ったからではないかもしれないと、万知也は思った。


 放課後、万知也が帰りの支度をしていると、転校生が振り向いて、


「布目君、一緒に帰ろ」


 聞けば方角が一緒だった。断る理由もなく共に教室を出ると、美蘭乃がいた。万知也を呼びにきたらしい。睡眠不足は解消したのか、先日より顔色は良くなっている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る