二 の 五

 悄然と帰ったホテルで見たニュースを憶えている。帝の御孫である有詞ありこと親王が、幼少のみぎりより論語を覚え、諳んじていたと褒め称えられていた。万知也と同じ年に生まれた、次の次の帝となる運命さだめ親王みこ。同じ論語読みで、親王みこましらの何が違う。天と地ほどに、違う。


 それから万知也の「天才」は、煙のように消えた。相変わらず勉強は出来るが、以前のように神がかってはいない。それでも一度築かれた神童の張りぼては、いまだ有効だった。……ただの張りぼてだ、はずかしい。何が特別だ、羞かしい。善良で純朴な人たちに持ち上げられて輝かされた張りぼてだった。


 自分は天才でも神童でも何でもない。それ以前に、無能だった。真にはずかしいのは、知能の出来不出来ではに。人格の出来不出来だ。


 俺は肝心なところで逃げた。肝心なところで怖気づいて、何も出来なかった。卑怯で、無能な、臆病者だ。羯諦羯諦、くそったれ!


 万知也は山を駆け下りた。神社まで戻ってきて、膝に手をついた。吹き出た額の汗を拭い、顔を上げると、子どもたちが縦に一列になって歩いてきた。前後で手を繋いでいる。やたら両の目の離れた感じのする子どもたちだった。兄弟だろうか、だが多い。


 最後の一人が余った片手を上げたかと思うと、飛んできた蜻蛉とんぼを素早く捕まえた。そうしてその蜻蛉を無表情にくちに入れると、頬を動かしためらいもなく飲み込んでしまう。


「……おいおい、」


 何食わぬ態度で真横を通っていった背中を、万知也は呆然と見送った。



 ● ● ● ● ●



 夕飯の芋の煮物を、槙乃は瞼をつむってじっくりと味わった。


「うーん、美味しい。やっぱりおばあ様の作る煮物には叶わないわあ」


「いつ食べてもお祖母様の料理は美味いな」


 木綿斗も賛同する。隣りから祖母の絹江が夕飯に食べるようにと、鍋ごと持ってきてくれたのだった。


 子芋を甘辛く煮たのは、家族全員が大好きなおかずだった。山のように器に盛っても、あっと云う間に空っぽになる。


「ぬい、これどうしたの?」


 槙乃は縫以が膝に置いていたぬいぐるみを取り上げた。


「あ……、」


 縫以は箸を落とした。イルカの鰭の片方が取れかかっている。もっとふっくらとしていたはずなのに全体的に萎んでいて、ところどころ汚れてもいた。


「鰭がちぎれそうだな」


 木綿斗が眉根を寄せる。縫以は槙乃からぬいぐるみを取り返した。


「だ、大丈夫。すぐになおせるから」


 焦った様子で席を立ち、裁縫箱のある自分の部屋へ行こうとする。


「ぬい、まだご飯がたくさん残ってるよ。それとももうごちそう様?」


「あ、ううん……、」


 縫以は椅子に坐りなおし、隠すようにイルカを背中に挟んだ。隣席の木綿斗と万知也は密かに目線を交わした。


 夕飯が終わると、縫以は自分の部屋へとそそくさと上がってしまった。木綿斗と万知也は二人で後片付けをした。


「ぬいのさ、あれ、誰かにやられたんじゃないかな、」


 居間で洗濯物を畳む槙乃に聞こえないように、万知也は小声で喋った。


「やっぱりそう思うか、」


 木綿斗も声を潜める。


「ぬいが大事なものを自分で壊すものか」


「同感だな。しかし誰にやられたんだろう。学校の友達かな、」


 万知也は鼻に皺を寄せた。「それ、友達じゃないだろ」


 そうだなと、木綿斗は苦笑する。万知也は苛々いらいらと洗い終わった皿を拭いた。


「ぬいは絶対にそいつの名前を出さないよ」


「そう、判っててやってるんだよ、相手は。卑劣だな」


 木綿斗は蛇口を締め、濡れた手を手ぬぐいで拭いた。槙乃は畳んだ洗濯物を仕舞しま

に行ったのか、居間からいなくなっていた。

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