二 の 四

「これ、まちやくんいつも食べてるでしょ。好きなんだよね、」


「……まあな」


 別に好きだから食べている訳ではなかった。すぐに氾濫する思考を明晰にしておきたくて、その為の装置でしかなかった。


「お礼って、何のお礼だ?」


「この間の、お仕事の時の。まちやくん、ぬいのこと守ってくれてどうもありがとう」


 屈託の無い笑顔に、万知也は胸を踏みつけられたように苦しくなった。


「着替えて、走りにいってくる」


 万知也は立ち上がった。縫以は猫のぬいぐるみの片手を持って、自分の代わりに振ってみせた。


「行ってらっしゃい、頑張ってね」


「俺は頑張らない」


 間髪入れず答える万知也に、縫以は笑った。「まちやくんは頑張らなくても、何でも出来るもんね」


 皮肉ではない、純粋の賛辞。この弟は、まだこの兄のことを特別だと信じているのだ。


「そうだよ。俺は特別なんだ」


 いつものように心の中で般若心経を唱えながら、万知也は走った。胸ポケットに入れたタブレット菓子のケースが、酷く喧しい音を立てる。ありがとうだって、ありがとうだって、そんなこと、そんな礼を云われたくて俺はお前を守ったんじゃないんだ。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。


 俺はあの時に逃げた自分を赦せないだけだ。自分が真に無能なのだと思いたくないだけだ。お前の為なんかじゃない。俺はもう二度と自分に失望したくないだけだ。それくらい俺は無能で最低で、全くもって特別な存在なんかじゃない。


 神社の前を通り過ぎて、お決まりの道から外れる。山を登った。傾斜がきつく、息が上がる。よろめいて、後ろから来た自動車にクラクションを鳴らされた。


 山の上には公園があって、そこからこの奥土の町を見下ろせる。見下ろすたび、なんて狭いのだろうと思う。大きな山々にぐるりと取り囲まれて、とても窮屈に感ぜられる。


 下々げげの下の地と呼ばれた僻地だ。長く交通が不便で他の地から閉ざされていたおかげか、昔からの慣習が今でも多く息づいている。帝都をはじめとした華やかな都市からすれば、野暮ったく、はなはだ古くさいことだろう。


 けれどもここに生きる者はみな呑気のんきで、当たり前をただ当たり前に生きて、自分の寸法は産まれた時から定められていると、つゆほども疑わない。何にも逆らわず、何も求めず、何て無慾な、何てつまらない……そんな思いが、かつての傲慢さの残滓として胸をよぎった。


 神童だと皆に騒がれたのは、万知也にとってそれこそ当然のことだった。こんな片田舎にこんな凄い子どもがいるなんてと、大人たちは万知也を褒めそやした。保育園に入る前から漢字を書きはじめ、般若心経を皮切りに百人一首や論語を諳んじ、世界中の国旗を覚えた。


 両親はさほどではなかったが、保育園の先生や近所の大人たちは驚愕し、感心をした。そんな彼らの反応を、幼い万知也は冷静に眺めていた。自分が凄いことくらい、自分が一番良く理解している。自分はみんなとは違う、特別なのだからと。


 小学校に上がっても、一度もテストの為に勉強などしなかった。する必要などいっさいなかった。素数を見つけることに夢中になり、円周率を暗記し、元素周期表に親しんだ。誰も彼もが万知也はただものではない、こんな田舎に置いておくのはもったいないと云った。両親はそんな周囲の助言に少し困っているようだったが、万知也の好きにして良いとしてくれた。


 十一歳の時に無理を云って一族の仕事を始めた。掟では十二歳からだが、自分なら十一歳でも良いだろうと考えた。皆はまだ早いと反対したが、父は認めてくれた。万知也は当然だと思った。得意になって、俺は特別なんだ、凄い奴なのだと、いとけない縫以に刷り込んだ。


 だが所詮は井の中の蛙だった。誰だったかに勧められて、暗記の能力を競う全国大会に出場した。万知也君なら絶対に優勝するだろうと太鼓判を押され、万知也自身もそのつもりだった。生まれて初めて帝都へ行き、予選を余裕で勝ち上がって本戦に出た。子ども部門にエントリーさせられたのが不服だった。自分なら大人相手にだって優勝出来る。


 しかし結果は惨敗だった。下から三番目と云う現実だった。自分より年下の子にも、負けた。自分程度の奴なんて、この国に、この世界に、いくらだっているのだと、思い知らされた。自分は沙漠さばくの砂の一粒でしかなかった。山奥の、ちょっとばかり前頭前野の発達したましらでしかなかった。ずかしいや。つくづく羞ずかしいや。

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