一 の 十一

「くそっ」


 万知也はたまはりの先に力を込めて鯉のからだを貫こうとした。これは自らの心臓に突き刺した針なのだから、己の心次第で大きくも鋭くも硬くもなる。


 しかし鋼の鱗は万知也の針をゆるさない。表面だけを甘っちょろく擦って、勢い余った万知也は無様に転んだ。俺の心は軟弱と云うことか。


 旺史郎が八つのうちの一つの目玉を刺す。鯉の全身が不快な金属音をがなり立てる。目玉からは緑色の液体が吹き出した。


「目玉はいけるか、」


「そのようだな」


 木綿斗も獅子郎も目玉を狙いに変えた。青色の液体と紫色の液体が、魂針に突かれた二つからそれぞれ吹き出す。


「こいつの血は何色が正解なんだ」


「しかもやたら生温かいしな」


 槙乃が振り乱される鯉の髭を、魂針で器用に巻き取る。残った目玉を他の者たちで刺して破壊すると、鯉は倒れた。開いたくちから吐き出されたのは、先ほど呑み込んだブルーギルではなく、大量の錦鯉だった。まだ生きているらしく、しきりに身をくねらせている。


「この堀の鯉たちか、」


「どうやらそうらしい」


 巨大な鯉の姿がかき消えると同時に、縫以が大声を上げた。


「終わったよ!」


「じゃあ、水を戻すね」


 更紗は竜の腹を軽く叩いた。皆は急いで堀から上がった。竜が吸い上げた水を堀に戻す。横向けになって絶命しかけていた錦鯉たちが、悠々と泳ぎだす。竜は水を吐ききると、縮んで元のぬいぐるみの形になった。


「ぬい、痛かったのによく頑張ったね」


 槙乃が縫以を抱きしめる。「無事で良かった……」語尾が微かに潤んだ。


「怪我はどうだ、大丈夫か、」


「大丈夫」


 縫以はしっかりとした口調で答えた。木綿斗が肩口を調べる。服は裂けたが、幸いにも皮膚はちょっとかすっただけだった。万知也が見たように、血も大袈裟に染み出してはいなかった。皆は胸を撫で下ろした。


「ぬい、弱虫が出ちゃった」


 縫以は俯く。ううん、と、槙乃はかぶりを振る。「ぬいは最後まで頑張ったじゃない」


「本当にぬいは偉いよ」


 更紗も微笑んだ。


「サーラ、兄さんのことも褒めてくれないか。あの目玉のうち二つを兄さんが壊したんだ」


「うん、兄さんも偉かったね」


 ついでのように更紗は獅子郎を褒めた。


「久々のお勤めだったが、皆が無事で良かったな、槙乃さん」


 旺史郎の言葉に、槙乃は深く頷く。「ええ、本当に」


「そう云や底のごみをそのままにしてきてしまったな」


 木綿斗が橋から堀を見下ろす。外灯に錦鯉の背がちらちらと見えた。


「あんなたくさんのごみの中を泳ぐなんて、可哀想ね」


「かわいそう……、」


 縫以も呟く。


「……あの八つ目の鯉は、本当に向こう側の存在だったのかな、」


「どう云うことだい、サーラ?」


 愛する弟の髪をほどきながら、獅子郎がたずねる。更紗は天を仰いで吐息した。


「僕もよく判らないよ、兄さん。それより少しお腹が空いたな」


「俺も空いた」「俺も」


 魂針を心臓にしまいながら、皆は口々に同感を示す。


「帰って何か食べましょうか」


「おばあ様と淑子がおにぎりを作って待ってくれているはずだ」


 やったあと、一同は歓声を上げる。


「ああ、嬉しい。鮭のおむすびあるかしら」


「俺は明太子が良いな」


「おかかあるかなあ」


「疲れた時は梅干しだな」


「……肉が食いたい」


林檎りんご……、」


 喋りながら橋を下りて、ぞろぞろと帰っていく。視線を感じて、万知也は振り返った。石灯籠の影に、誰かいるようだった。一体いつからいたのだろう。


「どうした、まちや。置いていくぞ」


 木綿斗が気付いて声をかけてくる。万知也は軽く走って追いついた。


「誰かいたみたいだ」


「気にするな。どうせ他の人間には、ここで何が起こったのかなんて、判らないんだ」


「そうだな」


 万知也はもう一度後ろを振り向いた。もう人影は去っていったようだった。兄の云うとおり気にすることはないだろうと、考えた。左胸のあたりを服の上から触る。


 今日の自分は及第だろうか。前を歩く縫以の背中を見つめる。肩で柔らかな髪が揺れている。うなじから尻まで一直線に裂けた傷口を隠す為に、縫以は髪を伸ばしている。万知也の所為せいで負った傷だった。


 俺は特別じゃない。神童なんかじゃない。無力な、無能な奴だ。けれど無能なりに、勤めなければならない。そうでなければ、また、大切なものを傷つけてしまう。愚かな失敗は、もうごめんだ。


 明くる日、万知也が日課のランニングで神社を通ると、橋の上に帽子を被った老人が立っている。昨日と全く同じように、堀の水面を食い入るように見つめていた。


「よつめの……、よつめの……、」


 老人はそう呟いていた。水の中ではいつもと変わることなく錦鯉たちが貪婪なからだで泳いでいる。


 万知也は胸で般若心経を唱えながら、再び走りだした。

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