一 の 十

「あったぞ、ほころびだ」


 木綿斗の声に、万知也は我に返る。慌てて頭を振った。何をたやすく魅入られているんだ、無能め。


「まだ全開じゃない。これなら簡単だよ、ぬい、」


 更紗が橋の上から縫以にう。足元が汚れるから下りるなと、獅子郎に懇願されたのだった。


「ぬい、」


 槙乃がそっと促す。縫以は緊張した面持ちだったが、ひとつ頷くと、魂針と神力の込められた絹糸で、ほころびを繕いにかかった。両膝を地につき、這いつくばって縫っていく。


 すると横たわって喘いでいたブルーギルたちが、一斉に身を起こして縫以をめがけて飛んできた。皆は即座に縫以の周りを囲み、飛びかかってくる魚を魂針で叩き落とした。


「こいつら、瀕死だったんじゃないのか!」


「並のブルーギルじゃないな」


 打たれて足元でのびた魚には、唇からこぼれんばかりの牙が乱杭らんぐいにはみ出している。無作法者の証だ。遠慮などいらない。


 魚を魂針で打ちながら、万知也は縫以を振り返った。縫以の小さな手ははげしくふるえて、思うように繕えない様子だった。魚は禍々しい発光とともに、次々と迫ってくる。縫以の髪の先に噛みつこうとするのを、獅子郎がすかさず打ち払った。


「ぬい、頑張れ」


 橋の上から更紗が励ます。


「頑張れ、ぬい」


 槙乃も叫ぶ。木綿斗も旺史郎も獅子郎も、縫以に声援を送る。万知也も頑張れと声を張り上げようとして、喉の奥に引っかかった。


「これが最後だ!」


 ブルーギルたちは全て地面に叩きつけられた。皆はほっと息を吐く。次の瞬間、動かなくなったはずの一匹が、突如飛び上がってもの凄い速さで縫以に向かってきた。万知也は咄嗟に反応して魚を打った。だが遅かった。縫以の服の肩口が鋭く裂かれて、縫以は悲鳴を上げた。


「ぬい!」


 縫以は肩を押さえて背を丸めている。万知也は縫以のからだに覆い被さるようにした。少しも動かない縫以の肩から血が染み出す。ああ、まただ、と、万知也の額が冷たくなる。また、縫以に傷を負わせてしまった。


「大丈夫、ぬい!」


 槙乃も駆け寄る。


「まだ繕いきれていない。怪我したのはどっちだ。右か、左か、」


 木綿斗が怪我の状況を確認する。左だよ、と、万知也は怒鳴った。利き手ではない。


 閉じかけた裂け目が。糸が緩んで大きく開いた。異界の光が妖しくざわめく。更紗が叫んだ。


「みんな、下がって!」


 万知也は縫以の躰を抱きかかえて後ろへ下がった。拍子に魂針を落としてしまう。


 裂け目から悠然と現われ出たのは、頭部に八つのひとみを持つ巨大な鯉だった。


「今度は在来種か、」


 睛は祭りの提灯のように輝いて、玄い躰を照らしている。一枚一枚が際立った鱗は見るからに堅牢で、鋼のように艶やかだった。重厚な外見に反して、優雅に浮き上がっている。


 からだが動くと鱗たちは擦れ合い、神経を引っ張るような音を立てる。鯉が厳かにくちを開けると、吸い寄せられうようにしてブルーギルたちがくらい空洞の内へと飛び込んでいった。鯉には野蛮な牙は無い。


「小物ばかりかと油断したな」


「小物だろうと大物だろうと叩きのめすだけです」


 旺史郎と獅子郎が魂針を振り上げ、鯉に挑みかかる。縫以が安全に繕えるように、裂け目から遠ざけようとする。


「ぬい、痛いだろうが今は我慢だ。俺たちが必ずお前を守るから、最後まで繕ってくれ。頼むぞ」


 そう縫以に云って、木綿斗も二人に加勢する。


「ぬい、出来るわね」


 槙乃が縫以の顔を覗き込む。


 どうしてみんな、ぬいに無理をさせるんだ。万知也は苛立いらだった。ぬいが父上様みたいになったらどうするんだ。どうしてそんなにも平気でぬいにやらせるんだ。俺たちが……俺が、守りきれなかったらどうするんだ。


 縫以の小柄な躰はふるえている。もういい、よせ、と、万知也は叫びたかった。違う、怖いのは、恐ろしいのは、この俺の方だ、無能な万知也。縫以は頷くぞ。あれだけ泣き虫だったのに、この弟は泣くのをやめたんだ。一年前から。縫以は逃げない。自分とは、違う。


 くそ、と、心の内で吐き捨て、万知也は腕の中の縫以に宣言した。


「ぬい、俺がお前を守るんだから、絶対に大丈夫だ。俺を信じろ」


 自分の台詞にぞっとした。


 縫以は面を上げた。泣いてはいない。万知也に向かって頷くと、魂針を握りなおし、ほころびを繕いはじめる。


 それを見て槙乃はただちに鯉の方へと走っていく。万知也は底に落ちている自分の魂針を見下ろした。


「まちや、ぼんやりするな!」


 木綿斗が厳しい口調で注意する。鯉の髭が棘のついた鞭のように飛んでくる。万知也は素早く魂針を取って髭をはじいた。そのまま鯉へと突進していく。


 俺は凄い、俺は強い、俺は特別だ。まだ単純に自分のことを信じていた幼い自分の声が、脳内に響く。何が「俺を信じろ」だ、大莫迦ばかやろう。

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