一 の 九

「母さんもそう思う。ぬいは繕うことだけに集中していて。後はみんなが、上手くやってくれる。何も心配することないよ」


 魂針たまはりを握る縫以の両手に、槙乃は自分の両手を重ね合わせる。縫以の魂針は、代々受け継がれてきた針だった。この世で唯一、異界の裂け目を繕うことが出来る。布目ぬのめ一族の繕い役だけが持てる、特別な針。


「その針は、父上様もずっと使ってきた針よ。父上様が、きっとぬいに力を貸してくれる。だから大丈夫。ぬいなら出来る。ぬいはお裁縫が大の得意だもの。絶対に出来るわ。自分を信じて」


「はい、母上様」


 自分を信じるとは、何と健やかな言葉だろうと、万知也は思った。月並みだけど、正しい言葉。まばゆい言葉。ぬいは良い子だな。本心から頷いて。自分だったらその言葉を、到底受け入れられない。


 ──俺の信じていた俺は何処どこへ行った?


 獅子郎が汚れないようにと、更紗の髪を結わえる。


「サーラ、鯉の命は、全て兄さんの所為にするんだよ。だからお前は、何ひとつ気にしなくて良い。良いことは全てお前の手柄だ。悪いことは、全て兄さんの所為せいだ。判ったね、」


 更紗は頷いた。


「判った、そうする。兄さんの所為にする」


「素直なサーラはいっそう可愛いな」


 獅子郎の頬がだらしなくなる。シシローは莫迦ばかだな、と、木綿斗が万知也に耳打ちする。全くもって通常どおりだな、と、万知也は思った。一年前のことを、誰も忘れてはいないのに。呆れるくらいで、丁度良いのかもしれなかった。


「じゃあ、抜くよ」


 更紗は竜のぬいぐるみに息を吹きかけた。たちまちぬいぐるみは堂々とした竜の姿となる。宙に浮かぶと、髭に覆われたくちで、堀の水を吸い込みはじめた。底が見えるのに時間はかからなかった。


 たくさんの魚が跳ね上がって青く発光する。錦鯉ではない。


「ブルーギル?」


「外来種め!」


 皆は水の抜けた堀の底へと下りた。あちこち青く光る魚が、苦しそうに身悶えている。


「鯉はいないみたいだな」


「こいつらが全部食べたか」


「やっぱり外来種を安易に持ち込むことは危険だな」


 コンクリートの底には、落ち葉の他に空き缶やペットボトル、お菓子の容器やビニール袋があった。


「ごみが多いな」


「酷いわね、神社のお堀に」


 一年のうちに何回かは、堀の清掃が行われているはずだった。それなのにこうもごみが多いとは、捨てていく者が大勢いると云うことだろう。


「誰だ、DVDなんて捨てた奴は」


 獅子郎が円盤を摘んで、顔を顰める。


「違法なやつかな、」


「こっちは花瓶があるぞ」


「凶器に使ったやつだったりしてな」


 うっすらとした泥が、コンクリートの底全体に広がっていた。


「何処だ、ほころびは」


「何だこれは、毛布か、」


「膝掛けじゃないのか、」


「何でこんなものまで落ちてるんだ」


「死体を包んで運ぶ為に使ったんだろう」


「さっきから発言が不穏だぞ、まちや」


 木綿斗がじっとりと塗れた膝掛けを持ち上げると、その下に、裂け目はあった。僅かな隙間から、異界の光がのぞいている。不規則に渦を巻く極彩色の異様な光だった。思わず見入り、忘我してしまう……妙なる光。何か甘やかに陶酔する調べが、音も無いのに脳裏に流れてくる。

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