一 の 八

 万知也たちが玄関を出ると、居残り組の絹江と淑子が見送りに切り火を切った。


「しっかり務めを果たしてくるんですよ」


「はい、お祖母様。行ってきます」


「行ってらっしゃい」


 皆は自らの心臓に刺した針を引き抜いた。それは普段は自分以外の者には見えない。皮膚の上から深々と突き刺さって、裁縫のまち針のように頭に丸い飾りがついている。これを魂針たまはりと呼ぶ。


 一族の者は仕事を始める前の儀式で、この魂針を心臓に突き刺す。心臓は一度その動きを止めて、それまでの音とは異なる音で再び鳴りだす。つまり我々は異形の怪物ばけものたちと戦うために一度死んで、常とは異なる存在として、生きはじめるのだ。


 魂針を引き抜くと、万知也たちの姿は一族以外の者には不可視となる。この世の者でも、あの世の者でもない存在に、いっとき、なる。抜いた魂針はめいめいの手の内で巨大化して、棍棒や槍のような武器となる。縫以の魂針だけは他の者たちと形が異なり、畳針ほどの大きさで、頭には飾りではなく縫い糸を通す為の穴が空いている。戦う役目でない更紗の魂針も皆とは少し違って、頭の飾りが蓮華の花の形をしていた。


「どっちだ、サーラ」


蚕魂こだま神社」


 万知也が日課のランニングで今日も通った神社だった。


「近いな、有難い」


 時刻は夜中の一時少し前。二時になるとほころびた裂け目が大きく開き、異界の力が最も強力に働く。その前に、仕事を終わらせなければならない。


 皆は神社まで走った。更紗と縫以は白い虎に跨った。更紗が虎のぬいぐるみに息を吹きかけると、たちまち本物の虎となった。


「叔母上様にも馬を出しましょうか、」


 更紗の勧めを、槙乃は断った。


「有難う、サーラ。でも走っていった方がからだも温まるし、気分も高まるし、良いのよ」


 息子たちに劣ることなく、彼女は走った。子どもの頃から体力のあることが、彼女の自慢だった。


 神社に着くと、更紗がまず周囲に結界を張った。境界線を引いて、一般の人たちに目隠しをする。真夜中とはえ異形の怪物ばけものの大騒ぎを見られたら大ごとだ。結界内はほの光る幻想の小花が可憐に舞う。


 皆は橋の上に立って辺りを見回した。


「ほころびは何処どこだ、」


「この堀の下……かな、」


 更紗は小くびを傾げた。一同は堀を見下ろした。頼りない外灯の写す水は、闇を溶かし込んだようだった。生者でもない亡者でもない我らは夜目が利くが、さすがに暗い水の底までは確かめることは出来ない。


「判らないな」


「とても底までは見えないわね」


「どうやって繕えば良いんだ? こんな水の中を」


 木綿斗が魂針を肩にのせてくびを捻る。更紗は端然と表情を動かさずに答えた。「水を抜く」


 一同、驚きの声を上げる。


「堀の水を? 全部?」


「それはまた大胆だな」


「水の中の鯉はどうするんだ、干上がるぞ」


「そうだね、可哀想だ。やめようか、」


 更紗はやさしい。木綿斗がかぶりを振る。


「いや、だがたかがいっときのことだ。ぬいに泳いで繕わせる訳にはいかない」


 縫以はだ。堀はさして深くはないだろうが、底に裂け目があるのだとすると、潜って繕うことになる。縫以にはそれは難しいだろう。万知也も木綿斗の意見に賛成だった。この堀の鯉は総じて貪欲で逞しいし、僅かのあいだ水を抜いたくらいでは、びくともしないだろう。


「ぬい、急がせてしまうことになるけれど、それで良いか、」


 長兄の問いかけに、縫以はまごついたように槙乃を、それから万知也を見た。万知也が頷くと、縫以も頷きを返した。自分の魂針を、両手で強く握りしめる。


「うん、大丈夫。頑張る」


「ぬいなら出来るよ」


 更紗が縫以の肩に手を置く。

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