一 の 四

 かつてこの国には、常人のひとみには見えぬたくさんの裂け目があって、その裂け目からこの世とは異なる世界……異界のものたちが現われては、混乱と恐怖をもたらしていた。神話の時代の話である。


 この国のはじまりの帝は、巨大な異界の怪物ばけものを倒し、ある一族に神力を宿した針と糸をもって、その裂け目を全て繕わせた。それによりこの世界と異界との交わりはいっさい絶たれたかのように思われた。


 けれどもそれから何百年と時を経て、万知也たちの住むこの山奥の地に、異界のものが再び現われるようになった。太古の昔、はじまりの帝が繕わせた裂け目が、ほころびたのだ。


 時の帝はかつて裂け目を繕った一族の子孫を、この地に遣わせた。彼らは勅命を受けてほころびを繕った。だがしばらくするとまた、ほころびは生ずる。一族はこの地に住みつき、そのたびに繕った。それが万知也の……布目ぬのめの一族だ。


 以前この国のあちこちに在った裂け目は、今はその繕いの跡も無い。それは岩に、木に、地面に、山に、川に在った。塞がれて、二度と開くことはない。この山奥の地にだけ、ほころびは生ずる。そうしてさまざまな異界のものたち、この世界のものとはまるで異なる姿形の魔性のものたちが現われる。


 そもそもこの地に存在した裂け目は、他の地よりも遥かに多かったと、伝えにある。しかし繕いは他の地と何ら変わりなく行われた。何故なにゆえこの地にだけほころびが生ずるのか。


 ──下々げげの地ゆえにほころび生ず──


 何代目かの帝の御言葉。山と云う山に囲まれた辺鄙な奥土の地は、下の下の下等の地と云うことだ。帝のおわす帝都からも、存分に離れている。


 下々の地でも、ほころびを放っておく訳にはいかない。異界のものたちはこの狭い奥土を出て、瞬く間にこの国中を跋扈するだろう。そうしてこの国を、血と闇とに染めるだろう。命に代えても繕うことが、この国の主である帝からの、布目一族へのめいである。


 報酬の無い仕事……宿命とも云えるのか。御上からのじきじきの命であるのに、その御上から何の褒美も無い。何の労いも無い。下々の地の下々の一族には当然の務めだと、思っているのかもしれなかった。帝はいつも気高く御簾の内にいて、その竜顔を、代々の布目一族の誰も、拝謁したことはなかった。


 なんて……羯諦羯諦と般若心経を呟きながら、万知也は考える。ほころびなんて、もう生じるはずがない。あの途轍もなく巨大なほころびが生じて、父上様が死んで、ぬいが大怪我をして……幼い身を裂いたんだ、あいつは……それで終わりのはずだ。あれが最後だ。もうほころびなんて生ずるはずがない。実際それから一年の間、いずれの裂け目も綻びることはなかったのだから。


 あれが最後だったんだ。そうでなければ、おかしい。羯諦羯諦、波羅羯諦。


 古い町屋の並ぶ通りを抜けると、神社である。祀られているのは蚕の神様で、この奥土では多く養蚕が営まれてきた。上質な絹糸を造ると、一時期はなかなか儲けた家もあったらしいが、現在ではすっかり廃れてしまった。この神社の面白いのは狛犬ならぬ狛猫の置かれているところで、蚕の天敵である鼠を退治する為に、猫が重宝されてきたからだと云う。


 神社の前には堀があって、石の橋が架かっている。その上で白髪を帽子からはみ出させた老人が、くびを垂らして、何やら熱心に堀を見つめている。万知也は背後を通り過ぎようとして、妙な言葉に足を止めた。


「よつめの、よつめの、」


 水面を指差して、老人はっていた。万知也は横に並んで堀を見下ろした。通常なら人の気配にうようよと集まってくる錦鯉たちの姿が、まるで見当たらない。ふてぶてしい巨体を一体どこに隠しているのか、万知也は遠くへ視線を投げかけた。水は緩やかに波打っていた。


「よつめの、よつめの、」


 老人はくり返し同じことを口にする。日課としてこの神社に来て、鳥居に向かって深々とこうべを垂れる人だった。万知也は老人の横を離れ、境内への石段を駆け上がった。

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