一 の 三

 準備万端の縫以が戻ってくる。台所からスプーンも持ってきていた。万知也は袋からプリンを出して、縫以の前に置いた。縫以はいそいそと蓋を開け、


「いただきます」


 ひとくち食べて、にっこりと笑う。全くもって素直さの権化だな、この弟はと、万知也は改めて思った。


「おいしいか?」


「うん、とってもおいしい。まちやくん、ありがとう」


「いいよ、ついでだったから」


 大量生産の安価なプリンを、こんなにも美味おいしそうに食べる人は他にはおるまいと云うくらい、縫以は仕合しあわせそうに食べる。この小さな弟には、仕合わせの大小など無いのかもしれないと、万知也は時々考える。まだ十歳なら、普通はそうなのかもしれないが、自分が十歳の時は、違った。


「そんなにおいしいか、このプリン」


「うん、おいしい。でもね、まちやくんの作ってくれたプリンが、今までで一番おいしかった」


 何気ない一言。他意のない一言。けれど万知也には少々重たい一言だった。つい話を逸らしてしまう。


「俺の分も食べるか?」


 まだ蓋の開けていないプリンを、縫以のプリンの隣りに置いた。


「良いの?」


 縫以はまたひとみを燦然とさせ、


「でも、夜ご飯の前にあんまり食べたら、母上様に叱られちゃう」


 母親のいつけと、大好物の間で気持ちが揺れ動く。ただでさえ縫以は食が細く、他の同じ年頃の子と比べてからだが小さい。夕飯を残すことは、母の槙乃の哀しむことだった。


「いいよ、夕飯の食べられない分は、俺が母上様には判らないように代わりに食べてやるから」


 だから気にせず食べろと促すと、縫以は二つ目のプリンに手を伸ばした。万知也は制服のポケットからタブレット菓子のケースを抜き取り、手のひらに二粒振る。


 縫以はプリンの蓋をめくると、妙なことを云いだした。


「まちやくん、このプリン、まだ産まれてない」


 万知也はタブレットを噛んだ。もっとも強烈なミント味だ。「プリンはもともと死んでるだろ」


縫以は困ったように眉根を寄せて万知也を見る。


「でもね、産まれていないものは、食べられないよ」


 何だろうこの哲学的な台詞はと、不振に思って万知也は縫以の手元のプリンを覗き込んだ。一瞬にしてプリンの定義が揺らぐ。なじみのあるプラスチック製の容器にたっぷりと注がれていたのは、透明の目玉のような蛙の卵。あのいつまでも懐かしい甘さの、やさしい黄身色をした、なめらかな舌ざわりのあれではない。


「ぬい、貸せ、」


 万知也はすぐさま縫以の手からプリンの容器を取り上げた。蓋を閉め、ガムテープでぐるぐる巻きにする。そうして台所へ運んで、冷蔵庫の奥に用心深く、しまった。


 心配そうに台所までついてきた縫以が、おそるおそるたずねる。


「まちやくん、これって、だよね」


 万知也は冷蔵庫に手をついたまま、くびを横に振った。


「いや、違う。まだ判らない。食品偽装かもしれない。あるいは新しい試みに、鶏卵の代わりに蛙の卵を使ったのかもしれない」


「まちやくん、ご飯いっぱい炊いておいた方が良いんじゃないかな、」


「いいや、まだ判らないんだ。ぬい、仕事の準備をしようとするな」


「まちやくん、」


「走ってくる」


 大急ぎで万知也は自分の部屋で着替えると、玄関を飛び出した。いつものように般若心経を胸で唱えながら、いつもの道を、走る。


 あれは違う、断じて違う、ではない。先ほどの光景を、頑なに頭で否定する。

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