一 の 二

 民家の前で鉢植えに水をやっている小母おばさんが、万知也に気付いて笑顔になった。


「お帰りなさい、万知也君」


「ただいま」


 小さい頃から親切にしてくれる小母さんだった。


「ちょうど良かった、今日ね、お寿司を作ったの。後でお宅へ持っていこうと思っていたんだけれど、万知也君、持っていって」


 ちょっと待っててねと、小母さんはいったん家に入って、寿司で膨らんだビニール袋を持ってきた。


「みんなで食べてね」


「ありがとうございます、いただきます」


 家の奥の方から、小母さんを呼ぶ声がした。「はあい、今行きます」小母さんはくびを向けて返事する。


「お母さんによろしくね」


「はい。ありがとう、小母さん」


 万知也はお辞儀をして家の前を離れた。小母さんはすぐに家の中へと戻っていく。


「何貰ったの、」


 美蘭乃はまだ側にいた。ビニール袋の中身を覗き込もうとする。


「寿司」


「お寿司?」


 美蘭乃は顔を上げ、眉間を皺寄せる。「何でお寿司なんかくれるの、」


「いつも作ったらくれるんだよ」


「何それ、どうしてくれるの、」


 何故と問われても、明確な理由など、万知也も知らない。ただこうしたやりとりは昔から頻繁にあって、ごく自然のことだった。貰って、あげて、また貰ってのくり返し。理由など、おそらく無いのだろう。


「それ、食べるの、」


「食べものだからな」


 万知也があからさまに歩を速めても、美蘭乃は諦めない。


「本当に? 本当に食べるの? あの小母さんが作ったんでしょ、そのお寿司」


「何がいたいんだよ」


 万知也は立ち止まった。粘っこく厭なものが、美蘭乃の云い方にはあった。


「汚ないじゃない、だって」


「何が汚ないんだよ」


 美蘭乃は笑っていない。本気の目つき、冗談ではない。失言のつもりでもない。


「あの家、寝たきりの老人がいるんでしょ」


「だから何だよ」


「そのお世話した手で作るんでしょ」


 汚ないじゃない。


 美蘭乃は真っ直ぐに万知也を見つめ、云った。こいつは俺に同調を望んでいる。そう思った。だからこそのあけすけの言葉。だがどうしてその相手が自分なのか、万知也は判らない。


「……最低だな、お前。人の手なんて、どんな手だって汚ないだろ」


 悔しげに、美蘭乃は唇を引き結んだ。万知也は彼女を置いて、先を歩いた。


「ねえ、本当は、あたしのこと莫迦ばかにしてるんでしょ」


 美蘭乃の声だけが追いかけてくる。


「あのロクデナシの娘だって、莫迦にしてるんでしょ」


 相手になるつもりはなかったが、これ以上喋らせると彼女にとって不都合な気がした。前を向いたまま、万知也は答えた。


「親父がロクデナシだからって、何でお前までロクデナシだって決めつけなくちゃいけないんだよ」


 ──親父が立派な人間で、息子がロクデナシだって場合もあるのに。


 そのまま振り向かずに行った。美蘭乃はもう後を追ってはこなかった。


 家に帰ると、弟の縫以ぬいの靴が玄関に行儀良く揃えてあった。


「ただいま」


 縫以は居間のテーブルで、宿題の漢字ドリルと格闘していた。


「お帰り、まちやくん」


 肩に届くほどの淡い髪を揺らして、縫以は振り向いた。テーブルの上には漢字ドリルや筆記具の他に、縫以の大切なぬいぐるみたちがごろごろと置かれていた。応援団だ。


「ぬい、プリンあるぞ」


 万知也はコンビニの袋を持ち上げてみせた。途中で立ち寄って、買ってきたのだった。


「プリン!」


 大好物の登場に、縫以は大きなひとみを燦然と輝かせた。


「待ってね、あと一問で終わるから」


 縫以は先の丸くなった鉛筆で空欄に漢字を書き入れると、ドリルを閉じた。「手を洗ってくるね」と、洗面所へ走っていく。心はすっかりプリンの虜だ。


 万知也は鞄を床に下ろし、漢字ドリルを開いた。やっぱり、一画足りない。プリンに気が急いたからか、それとも元々間違って覚えたのか、万知也は縫以が書き入れた漢字に、こっそりと一画を加えた。

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