下々の地にほころびあり

ユメノ

《一》

一 の 一

《序》


 それはまあ、かつて見たことのないほど巨大なだった訳さ。


 そしてそのは、やはり巨大な鬼のひとみでありくちだった。あらゆるものを情緒なく呑み込む夜の淵のような黒目からは、無論のこと何の感情も読み取れない。感情と云うものが、一体奴には在るのだろうか、幾つもの光が輪となって、一定の速度で点滅をしている。


 非道の睛。無慈悲の睛。屠るもの、圧倒的に屠るもののまなざし。そいつの本体を捕らえなくったって、ほんの隙間から覗いた片っ方の睛だけで十分に、まざまざと、判った。


 誰もが戦慄をした。そのまなざしに、文字どおり凍てついた。これほどの存在を前にして、自分が為すべきことを忘却しない者がいるだろうか。いたのだ。唯一人だけ、父上様が。


 皆がおののき立ち尽くすなかを、己が務めを果たそうと、父上様は我が身ひとつでほころびを繕いに行った。今ここで繕わなければ、誰も彼もあの異界の鬼に屠られて、世界は再び混沌と残酷の神代に引き戻される。だから。


 けれども次の刹那、鬼はおおきくまばたきをして、その刃の如き酷薄な睫毛が、鋭く重なり合って父上様の全身を切り刻んだ。迸る血潮は遠く地上より眺めていた我々の頬にまでかかって、我々の言葉を根こそぎ奪った。我々は叫ぶことすら出来ず、果敢はかなく父上様が喰われるのを見つめていた。まるで遥かなる幻想のように。


 俺はつくづく無能な奴だ。




《一》


万知也まちや、嫁が来たぞ」


 同級生の台詞に、万知也は盛大に顔をしかめた。


「その云い方は金輪際よしてくれ。あいつはだ」


 丁重に、正確に、間違いを正す。だが相手は合点がいかないらしく、


って何だよ」


「又従姉妹だよ」


「又従姉妹って何だよ」


 面倒になった。万知也は説明を放棄し、鞄を持って立ち上がる。教室の入り口の前に、美蘭乃みらのがいた。頬のてっぺんを変に持ち上げて、笑う。何千何万回と練習済みの作り笑顔だな、と、万知也は思った。


「一緒に帰ろ」


「帰らない」


「どうして。方向一緒でしょ」


 美蘭乃は腕をからませてくる。万知也はさっさと振りほどいた。そのまま見向きもせずに廊下を歩く。美蘭乃は小走りでついてきた。


「あたしが分家だからって、莫迦ばかにしてる」


「……は、」


 唐突な一言に、思わず振り向いた。ブンケ。日常生活ではあまり用いないその単語と、莫迦にすると云う行為が、どうして結びつくのか。不可解だった。


「何ってるんだ。そんなこと、莫迦にする材料になんかならないだろ」


 くだらない。一蹴する。玄関で靴を履き替えて校舎を出る。美蘭乃も後ろを張り付いてくる。


「ついてくるな」


「だって、方向一緒だもの」


 美蘭乃は万知也と同じ敷地内にある祖父母宅で暮らしている。一年半ほど前に、遠い帝都から突然やってきたのだった。


 大伯父の息子一家と対面するのは、それがはじめてだった。父親と、娘の美蘭乃と、弟の燈利とうり。母親を亡くして、三人でこの国の中心である帝都で暮らしていた。大伯父……祖父の兄は、若い頃にこの地を去ってからずっと消息不明だった。


 存在すら知らなかったこの一家を、祖父母も万知也の両親も、当たり前のように受け入れた。生活に困っているのなら、しばらくここで暮らせば良いと、祖父は真心を示した。それから三日後、父親は二人の子どもを残して、何処かへ消えてしまった。今日に至るまでいっさいの連絡も無い。


「もう少し離れて歩いてくれ」


 そんな風にくっつかれるのは何だか落ち着かず、万知也は美蘭乃に云った。


「三歩下がって歩く女が好きなんだ。万知也って、あんがい古風なんだね」


 万知也は溜息を吐く。どうもこのはとこの言動は理解しがたい。同い年なんだから仲良くしてあげてちょうだいねと、お祖母様には何度も頼まれたが、「仲良く」の意味合いが、彼女と自分とではどうも異なるようだった。

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