香水



その人は、いつもオレンジジュースを飲んでいた。





「ソラ先輩」

「わっ、久しぶり!」



なんでもない関係だった。友達の仲良しの先輩。

個別に連絡も取らないし、二人で遊びに行ったこともない。

でもお互い顔は知ってる。インスタも交換してるし、きっと街ですれ違ったら声をかける、そんな仲。


「お久しぶりです」

「本当だね、留学どうだった?」

「楽しかったです、実はそのままあっちで就職することになって」

「そうなの!」


都内の小さな教会、大学の同期が横並びに座る席、その端っこに座る私の隣に先輩が座った。先輩は結っていたヘアゴムを解き、重そうなビジネスバッグを足元に置いた。


「インスタたまに流れて来てたからさ、すごい頑張ってるんだな~と思って」

「先輩こそ…休日出勤ですか?」

「そうそう、でも途中で抜けてきちゃった」



初めて出会ったとき、まだ私が化粧の一つも知らなかったあの青い時代。

友達と放課後、ぼーっと教室から見える玄関と、帰宅していく他の生徒たちを見ていた。


「こらー!ソラ待ちなさい!」


先生の大きな怒号と共に、帰宅中の生徒が皆声の方に振り返る。

生徒玄関から飛び出してきたその人は、皆の注目を浴びながら鞄を抱きかかえ、その黒い髪をなびかせて走っていた。


「すみませんでした~!」


追うことを諦めた先生と、校門へ一目散に走っていくその女の人。

隣で見ていた友達は、大笑いしながら動画を撮っていた。


「ちょ、勝手に撮っていいの?」

「いーのいーの、あれ知り合いの先輩だから」

「知り合いなの?」

「そうそう、中学の部活の先輩」



ソラ先輩を知った日。

先輩の黒い髪が揺れる様子が、脳裏に焼き付いて離れなかった。




「ねえねえ」

「…えっと、ソラ、せんぱい」

「私のこと知ってるの?」

「あ、はい、先生から逃げてたの…」

「あ~あれね」


バイトしてるのバレちゃってさ、とまるで反省していないように笑ったソラ先輩は、教室を見渡し、私の友だちの名前を出した。


「あ、なんか先生に呼ばれてましたよ」

「マジか」

「何かあったんですか?」

「いや、体操服忘れちゃってさ」


同学年のクラス体育なくてさー、なんて頭をかきながら携帯を取り出していじり出したソラ先輩に、私はなぜか、条件反射のように、口が勝手に、


「わ、たしので良ければ、貸しましょうか」



その日の放課後、先輩は購買で売ってる人気のお菓子とオレンジジュースを小さな袋いっぱいに詰めて、「ハルちゃん 体操服ありがとう」とご丁寧にハートマークまでつけて届けてくれた。先輩が着た体操服は、大人っぽい香水の匂いが残っていた。



大学は、そのまま内部進学を利用した。私立の女子高として有名だった分、そのまま進学をする人も多く、私も友達も、勿論ソラ先輩も同様だった。

高校と大学、変わったのは一日のスケジュールくらいで、特に大きな変化もなく過ごしていた。ソラ先輩とは、学内アルバイトで偶然会ったりすることがあったくらいだった。



「ハルちゃん」

「ソラ先輩」

「留学するんだって?」



ある日、学内のカフェで勉強していたところに、ソラ先輩があの日と同じオレンジジュースと一緒にやってきた。どこで仕入れたのか、私がイギリスに留学するという情報と一緒に。


「そうなんです、そのまま大学院に行きたくて」

「そっか、寂しくなるね」

「…寂しいですか?」

「寂しいよ、一緒にバイトする人いなくなるもん」

「…でも、先輩も今年でいなくなっちゃうじゃないですか」

「へへ、そうだね」



就職活動を終え、相変わらずアルバイト三昧の先輩。留学の準備に向けて勉強尽くしの私。なんの接点も共通点もないのに、なぜかその笑顔が本当に寂しそうで、私は笑えなかった。


「…先輩、初めて会った日のこと、覚えてますか?」

「うん、覚えてるよ」

「…あの日、先輩がつけてた香水、私未だに忘れられません」



先輩は少し驚いたような顔をして、また笑った。

何つけてたかもう覚えてないな、なんて言った。私も笑った。



「私もね、たぶんこのオレンジジュース見る度、ハルちゃんのこと思い出すと思う」

「え?」

「それだけ。じゃあね」



それ以来、特に連絡をとることはなかった。出国の日、フォロワーの少ないインスタのストーリーに「いってきます」と飛行機の写真を載せた。友人たちから励ましのメッセージがくる中、ソラ先輩が残したのはいいねだった。無意識に、ソラ先輩のアカウントのトップを開き、ストーリーを開く。私はなぜか泣いていた。



「いってらっしゃい 頑張って」



いつものオレンジジュースの写真と共に、載せられていたのはその一言だった。

メンションも何もない。だけど、そのメッセージは、私だけが分かる私へのメッセージだった。





『新郎新婦の入場です―…』


音楽と共に、あの日笑いながらソラ先輩の動画を撮っていた友人が入場してくる。レッドカーペットの先には、いつか紹介してくれた男性が立っていた。友人は笑いながら泣いていて、私と目が合うと、嬉しそうにまた目を細めた。


「きれい」


ソラ先輩が横でつぶやいた。目いっぱいに溜めた涙が、ゆっくり零れ落ちそうになる。拭いたくなったその手を留め、横からそっとティッシュを渡した。


「へへ、ごめんね、ありがと」


優しく目元を抑える左手と、その薬指に光る指輪を見て、私は笑った。

先輩がとてもきれいだったから。



「…本当、きれいですよね」



あの日、私が覚えた感情を、ゆっくりと思い出してみる。

揺れた黒い髪と、先生の怒鳴り声と、袋いっぱいのお菓子とオレンジジュース。



「私たち、気づいたらすごく大人になってたんだね」

「…本当ですよね」

「高校生の頃、何して過ごしてたか、もう思い出せないよ」



でも私は、未だに忘れていないことが一つだけある。

先輩がつけていたあの香り。私が心臓を掴まれたように惹かれたあの香り。


先輩は知らないだろう、私が大人になって、偶然あの香りを街で見つけ、今身に着けていること。先輩は知らない。あの日、あの日々、先輩が私の全てになってしまった、そんな日々があったことを。

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マスト・ラブ @hi___ragi

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