マスト・ラブ

@hi___ragi

靴紐


「すみません、降ります」


うとうとしていた意識が一気に現実世界へ戻される。うたた寝していて、危うく唇からこぼれかけたよだれを咄嗟に喉の奥に戻す。

ぱっと、隣に座るその人と目が合う。なぜか、見覚えがあった。



「あ、すみませ…押します」

「ありがとうございます」


「おります」と書かれたボタンを押すと、ピンポーンと大きな音と共に、次のバス停で車両が停まると女の人のアナウンスが伝える。そこそこ混みあったバスの中で、隣に座っていたのは黒いリュックと分厚い教科書を膝に乗せた女の子だった。同じ大学の子だろうか、顔をあげると、もうバスは目的地までたどり着いていた。


バスが停車場に着くと、ぞろぞろと同世代の男女が降りていく。自分もその大勢の一人で、隣の子もその中の一人だったようだ。校門に向かって大きなあくびをしながら歩く。大きなキャンパスは移動時間が長く、二限の講義を受ける教室までは五分強歩くだろうか。


建物のある道のりを歩きながら、外にあるカフェテリアの看板を見る。今日の定食のメニューは何だろう。目を凝らしながら看板を見つめていると、その視界に黒いリュックが入る。さっきの女の子だった。


「今日の定食、ハンバーグステーキだって、…うん、授業終わったら速ダッシュね。先に着いた方が食券買うので」


真剣な面持ちで電話をしながら、どうやら昼休みダッシュの作戦をたてているらしい。片手にある教科書には、「中国語文法」と書かれていた。なんだ、同じ講義受けてる子なのか。




「おう、眠そうだな」

「そりゃそーよ」


何人もいる大教室で先に着いていた友人の隣に着席し、昨日の夜やった課題を広げる。簡単に答え合わせなんかしながら、話はサッカーの話で持ち切りだ。


「すみません、ここ空いてますか…」

「あ、すみません、あいて…」

「…朝バス乗ってました?」


偶然も三回繋がると、なぜか親近感が湧いてしまうものだ。空きのない大きな教室で、荷物置きにしようとしていた席に、ハンバーグステーキの子が座った。


「そうです、すみません、眠すぎて爆睡しちゃって」

「もしかしてサッカーですか?」

「そんな感じです」


昨日は朝方まで友人たちと盛り上がっていたから、正直今日の寝不足の原因はそれだ。彼女は「盛り上がってますもんね」とけろっとしている。


「サッカー興味ないですか?」

「あー…ないというか、野球の方が好きで」

「えっ、本当ですか」

「は、はい」

「ちなみにどこの…」

「…ジャガーズ、です」


控えめに苦笑いしながら彼女はそう言った。その瞬間、僕は今日初めて会うこの人と、友達になるところまで数秒で想像した。




それからは、時間は必要なかった。

「おはよう、また負けたね」

「おはよ、最後に勝ったのいつだろうな」


日本にある球団でブッチぎり弱いチーム、ジャガーを名乗りながら万年最下位の野球チームのファンたちは、街中でたまたま知り合うと、瞬く間に仲良くなるというのは、どうやら都市伝説ではなかったらしい。同じ学年で、学部まで同じで、使ってるバスまで同じなら、自然と大学生活を一緒に過ごすことになるのはおかしな流れではなかった。



「ソラ、今日の定食焼き餃子だったよ」

「ほんと?急いで行かないと」


食べることが好きな彼女につられて、俺も食堂ダッシュをするようになったし、学校終わりはよく美味しいラーメン屋の開拓をしたり、ケーキ巡りをした。



「ハル、また靴紐解けてるよ」

「本当だ、」


たくさん歩くからだろうか、君と歩いていると靴紐がよく解ける。

いつも気づくのは君だった。そのたびに二人道の途中で立ち止まって、また靴紐を結んだ。



「行こう」

「うん」


そうやって、長い長い時間を二人で過ごしたような気がする。

僕は今でも、初めて出会ったあのバスの、どこの席の、どんな天気だったかまで覚えている。あの日はハンバーグステーキ定食で、ジャガーズがまた負けた翌日だった。




ある日、夢を見た。

夢の中で、僕は泣いていた。


心にぽっかり穴があいたような喪失感を感じた夢の中で、戻らない時間と戻らないその愛しさを、離さないように一生懸命に抱きしめていたような気がする。

でも、それがどうしても、今の僕の姿に見えなかった。ぼんやりとしか見えない視界の中で、服装も髪型もはっきりと見えないけれど、なぜかそれは「僕」だと感じた。


その話をソラにしたことがあった。ソラは不思議そうに笑って、「でも、私も昔そんな感じの夢見たことあったな」と話した。


「私も夢の中でずっと泣きながら、旅をしてたの。誰かを探してるみたいな…でも誰を探しているのか、結局わかんなかったんだよね」

「…なんか、真逆だね」

「もしかしたら、前世で出会ってたのかもね、私たち」



悪戯に笑ったソラを見て、僕はその通りかもしれないと思った。


過去か、未来か分からないけど、記憶を失った僕たちは、こうしてまた巡り合って好きになったのかもしれない。君が僕の全てになる運命だったのかもしれない。



「僕が最初に、君に気づけてよかった」

「…私が最初に、あなたに気づいてたかもしれないよ」




二人でそんな他愛ない話をしたのは、それが最後だった。

僕は、その翌日、いつものソラと乗っていた、大学へ向かうバスが転覆する事故で、死んだ。

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