二幕その一三:万年筆
梅雨と共に六月が終わった。
一足先に夏休みを満喫していた俺もそろそろ、退屈に嫌気が差してきた。断言したって良いさ、休日は平日あってのモンだ、って。いつまで経っても堕落を許容される無間地獄は文字通りの地獄って訳だ。
そんな俺がさて、何をしてみただろうか。
執筆だった。
珍しく早朝に目が覚めた俺は、ベッドの上で寝息一つ立てずに──死んでやいないだろうなと疑いたくもなる──まだ眠っている奇如月さんを起こさぬよう細心の注意を払い静かにデスクに就いた。バッグから原稿用紙と万年筆を取り出し広げる。
昨年からちまちまと自作小説を書き連ねている。誰に見せるでもない、どこぞのレーベルの新人賞に応募するでもない。ただ書く為に、書いていた。執筆という行為そのものに楽しみを見出していたのだ。これに締め切りや他者からの評価なんて付いてもみろ、すぐさま原稿用紙をビリビリに破り捨て、祖父から貰った古めかしい万年筆を大事に包んで駅前の質屋に入れてしまうだろうさ。もちろん、大した臨時収入にもなりやしないだろうからそんな愚行は冒さないのだが。
さて、夏の大分で起きた小さな小さなファンタジーはここからである。
万年筆が、二本あった。
どうしても気に掛かり記憶を手繰った。検索ワードは「二本目の万年筆 入手 いつ」だ。検索結果が〇件だから「いつ」を「どこ」や「誰から」に置換する。……も、やはり求める答えは見つからない。
いつ、どこで、誰から、俺は二本目の万年筆を入手したのだろう。少なくとも昨年の俺はこれを持っていなかったように記憶している。幼少期に祖父から半強制的に押し付けられた一本目の万年筆、それが俺の唯一の愛筆であった。少なくとも他に万年筆を自ら購入したような記憶は無い。だって万年筆だぜ? 仮にストックを用意していたところで、それが役に立つのは万年先になるじゃないか。
覚えちゃいないが、二本目の万年筆はここ最近手に入れた物なのだろう。そしてどうも俺はこの万年筆を大事に思っているらしい。何故なら、ペンケースに裸で入れられていた一本目と違い、二本目はバッグのポケットの奥の方にハンカチに包まれてしまわれていたのだから。自分の知らない自分が居たような気がして、何だか気味が悪い。もしや新宿ガス爆発事故の時に頭でも打って記憶の一部が欠損でもしてるんじゃないか。幸か不幸か、この二本目の万年筆周りの記憶だけをピンポイントに……馬鹿々々しい。頭に傷の一つも無いんだ、記憶の欠損なんてある訳が無い。
「最悪だ」
二本目の万年筆に向かって悪態を吐いた。
書こうと思っていた物語があったのに、万年筆の出所について思考を巡らせているうちに忘れこけてしまった。何だか大層大仰な風呂敷を広げた物語だった気がする。普通の高校生が特異な何らかの性質を持ったヒロインと出会い、何か可笑しな部活動を設立し、更にサブヒロインが増えて何やかんや大事件が起こり……みたいな、な。どこにでもあるどころか世のラノベファンに言わせれば何かのパクリのような、そんな話を書こうと思っていた。
が、俺はそのアイデアらしき物を脳内に立ち込める霧の中に落としてしまったらしい。アイデアというのは目に見え手に触れられる物ではない。だから一度失くしてしまえば二度と思い出せないか、あるいは霧中散歩の最中に偶然光明が射し「思い出したッ!」なんて狂喜乱舞するか。
茶でも淹れてこようと思い立ち──祖母が既に淹れてあるかもしれないな──万年筆を原稿用紙の上に寝かせ、デスクを立った。
その時である。
────二本目の万年筆が独りでに文字を綴った。
「は?」
理解に難しい光景であった。まるで誰かが万年筆を糸で吊るし、糸の逆側を動かして器用に踊らせるマリオネットの如く。もちろんそんなトリックは無いし、俺にもベッド上の奇如月さんにもそんな特技は無い(無いよな?)。
とすれば信じ難くも、万年筆が勝手に動いているのだとしか言いようが無かろう。
入手経路も謎なら、その機能さえも謎が深まるとはいやはや────こっちは質屋に入れたら想像以上の値が付くんではなかろうか。もちろんそんな愚行は冒さないが。
万年筆はこう綴り、ピリオドを打つなり糸が切れたようにポテンとその場に倒れ、二度と自律行動を取る素振りは見せなくなった。
『約束の場所へ、特異点を』
………………何を言っとんだこの万年筆は。
約束の場所? どこだそれ。特異点? 知らんな、仮に中学課程物理の教科書にその文字が記されていたとしても、だ。
忘れよう。今見た光景は俺の非日常への渇望と変化の乏しい日常への不満が生み出した幻覚だ、そうに違いない。そうでもなければ説明が付かないからな。万年筆は人が握らねば文字を綴らない。例え万年受け継がれた超古代文明からの時を越えた贈り物であろうと、一七世紀のイギリスにリンゴが落下していなかろうと、物理法則はずっと絶対だったのだ。
一階台所にて、茶を淹れた。祖母は老眼鏡を掛けて新聞を読んでいた。紙面をチラリと覗くと、ガス爆発事故について書かれていた。
「お茶淹れたよ」
自分の分だけ淹れるんでは忍びなく、祖母の湯呑にも注いでやった。「ありがとなぁ」と言う祖母は、新聞を手に持ったまま言った。
「またガス爆発事故やって」
「東京?」
「いや、名古屋と大阪らしいわぁ」
ガス会社も不用心だな。いや、不用心なのは消費者側か。まあどちらにせよ、二度とそんな事故が起きぬよう気を付けてほしいもんだ。
祖母は目が疲れたのか、新聞を閉じ、老眼鏡を外しテレビを点けた。すると、まるで我が家でのテレビの点灯を待ち構えていたかのように速報が流れた。
福岡県福岡市博多区で大規模ガス爆発事故が発生。
けたたましい効果音と共に、液晶上部にその文面が表示された。
「おじぃわぁ……」祖母がか細く呟いた。
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