二幕その一一:シャワーを浴びる間に、

 九州の春は最早、初夏の気温へと至っていた。



「あっくん、ご飯どうするん?」



 自室の扉越しに廊下から祖母が語り掛ける。遊葉の頭文字を取って、あっくんとは俺を指す。



「冷蔵庫入れといて、そのうち食べる」


「そう? 末路ちゃんは?」



 部屋の隅にちょこんと正座の形で座る奇如月さんに視線を送る。彼女は俺を見つめ返すだけで、肯定も否定もしなかった。


 俺は一つ溜息を吐き「やっぱ食べる」と答えた。


 俺がデスクチェアから立ち上がると、奇如月さんも立ち上がった。


 階段を降りて一階の居間に出た。炬燵布団を外された低いテーブルの上に、茶色いおかずが何種類も並べられていた。揚げ物、煮物、焼き物など、様々ではあるが一つの共通点を有している。



「好きやったやろ、久しぶりやけんいっぱい作ってしもうたわぁ。末路ちゃんの舌に合うかねぇ」



 実家に帰ったのはいつ以来か。正史に於いては高校卒業の春以来だから、精神体たる二五の俺にとっては一〇年ぶりの帰省になろうか。それだけ間を空けたからか、あるいは並べられた品々が俺の好物ばかりだからか、それらが世界最高峰の馳走に見えた。


 あるいは、最後の晩餐にも。



「おふくろは?」


「あん子はなぁ、どこに行っちょるんかもう分かりゃあせん」


「ばあちゃん」


「なぁに?」


「迷惑掛けてごめん」


「何を言いよんかえ。ばあちゃんなぁ、あっくんに会えるのが一番嬉しいんよ」



 唐突に、しかもクラスメイトの女子を連れて帰ってきたことがじゃない。俺達のせいで危険な目に遭わせてしまうかもしれないことに対して謝ったのだ。


 今の俺は、終末を望む狂信者の如き精神状態にあった。何もかもがどうでも良い。どうせ助かりやしない。それなら世界最後の日までは安らかに過ごしたい、そう思うようになっていた。


 ツヅキなら「なんて無責任なっ!」と怒るだろうか。それとも「意気地なし」と言って蔑むだろうか。


 しかしそのツヅキはもう居ない。俺の隣にも、この時代のどこにも。



「これが美味しいです」



 隣に座り綺麗な手つきで箸を操る奇如月さんが言った。カロリーバーやゼリー飲料しか口にしないほど食に関心の無い彼女が料理の感想をこぼすとはな。もしや俺の暗い表情を気遣ったんじゃあるまいな。……考えすぎか。



「あら良かったわぁ。その煮つけなぁ、あっくんの大好物なんよ」



 話題に上がった煮つけに手を付ける。懐かしい味だ。社会の残酷さも夢の行く末も知らなかった頃の、思い出の味である。



「東京大変やったらしいなぁ」



 最近の東京のニュースと言えば先日の事件しかない。それがこんな僻地まで情報が届いているとは、流石情報化時代真っ只中だ。



「ガス爆発やろ? 人がいっぱい居る所で……おじいこわいなぁ」


「ガス爆発?」


「ニュースで言いよったで。あっくんが巻き込まれてねぇやろかっち思うて、ばあちゃん中々眠れんかったんよ。無事になぁ、怪我もせんで帰ってきてくれて良かったわぁ」



 祖母は涙ながらに語った。箸を置き、指で涙をぬぐっていた。



「魔法少女を取り仕切る機関が情報操作を行ったと、鶴見さんかくから聞きました」


「なるほどな。そりゃ未来の軍人が怪物従えて侵略に来たなんて言えるワケ無いか」



 魔法少女も殊勝だ。こうして市民は何も知らぬまま、ある日攻め入ってきた未来からの侵略者に為す術無く殺される。それが決められた未来なのだ。その情報統制が果たして良心的であるかは、今の俺には重苦しい問答であった。


 食べ終え、食器を洗う役目を買って出た。今日が最後の日になったっておかしくない。家族孝行の一つでもせねば後悔を残すだろう。



「遊葉さんは後悔しているのですか?」


「えっ?」



 奇如月さんも隣に立ち、食器洗いを手伝ってくれている。これまで井戸水に触れた経験も無さそうな体温の見えない真っ白な手で、せっせと食器を拭いてくれている。



「そういう顔をしています」


「そういう顔をしてたか」


「はい」


「そうか」


「はい」


「時々思うんだ。どこかで違う選択肢を選んでいれば、また違った未来があったんじゃないかって。高校でクラスメイトと仲良くしていれば良かったとか、真っ当に就職していれば良かったとか、「ハイファンタジー」なんて端から書かなきゃ良かったとか」



 奇如月さんは何も言わない。



「今更悔やんだって仕方無いのにな」



 奇如月さんは何も言わない。



「悪いな、勝手に連れて来てしまって」


「いえ」



 奇如月さんは否定した。



「奇如月さんは、もっとツヅキや鶴見先輩と一緒に居たかったか?」


「遊葉さんと一緒に居られれば、末路は幸せです」


「それ、何でだ? どうして俺なんかをそうも認めてくれるんだ」


「カラオケボックスで声を掛けてくれたからです」


「変な奴だな」


「末路は変、でしょうか」


「変だろ。そんなくだらない理由でここまで付いてきたのはもちろん、ツヅキの強引な勧誘に乗ったのも」


「〝もう一つの第三次世界大戦〟を阻止することが、末路の唯一の使命です。そのためには、遊葉さんと山覚ツヅキに接触するのは必要不可欠でした」


「それも叶わないんだぞ、俺のせいで」


「遊葉さんに責は無いと、末路は判断します」


「んなわけ。……よし、終わりだな。ありがとう、手伝ってくれて」


「いえ」



 台所を離れ、居間に戻った。自室に帰っても特に娯楽は無いから、適当にテレビでも流し見して時間を潰す。


 夜の全国放映クイズバラエティー番組を観ていると、祖母から声が掛かった。



「お風呂沸いたよ、入るやろ?」


「あぁ、ありがとう」



 自室に戻り、着替えを探す。奇如月さんも付いてきた。何をするでもなく、背後から俺を眺めているだけのようだ。クローゼットを漁ると、薄手のティーシャツとジャージが見つかった。いつからしまい込まれていたのか、懐かしさを覚える匂いが付着している。



「奇如月さんの着替えは……おふくろので良いか」



 母の物らしきティーシャツとジャージ、それから下着を勝手に持ち出し渡した。母も大分帰っていないのだろう、やはりそれらにも同じ匂いが付着していた。



「ダサいなんて言うなよ」


「いえ」


「先に入って良いぞ。俺の入った湯舟なんて嫌だろ」


「いえ」


「そうか? でも客人だしな、気が引ける」


「では一緒に」


「バカ言え。年頃の男女が一緒に風呂なんか入れるか」


「末路は人間ではありません」


「中身はな。でも俺から見りゃ、奇如月さんは立派な女の子だよ」


「……なんと」



 奇如月さんのいつも通りの無表情はどこか恥じらっているように見えた。アンドロイドにも一分の魂ってか。



「分かった。なら俺が先に入る。でもシャワーだけにしておく、それなら構わないか?」


「はい」



 奇如月さんを自室に残して風呂場へ。脱衣所兼洗面所で衣服を脱ぎ、脱いだ衣服はそのまま洗濯機へ放り込む。



「はぁ……」



 頭から湯を浴びながら溜息が一つ。


 もう悩む必要など無いはずなのだ。俺は未来を諦めた。それを表す行動こそ、この急な帰省である。一般人の俺と、戦えなくなった奇如月さんだけで、到底鶴見先輩が駆け付けられないほど遠い場所まで逃げてきた。諦めてしまえば思い悩む必要など無い。今後どうなろうが、その全てを受け入れるつもりでいるのだから。今この瞬間に大分駅前ロータリーに真世界軍と【Ark―E(vil)】が現れようとも、俺は何食わぬ顔で身体を洗う。俺が目を瞑って頭上でシャンプーを泡立てている頃、ガレリア竹町アーケード街を粉々にしながら北上、そしてシャワーを浴び終えた頃にはすぐ近所まで敵の侵攻が及んでおり、心の中で祖母に謝りながら殺されるか、あるいは拉致されるのだ。もうどうだって良い。全ては俺が招いた厄災である。ツヅキには言ったが、冷静になれば責任の所在などすぐに分かる。俺の文才の足らなさと、それでも殺しきれないエゴのせいなのだ。未来の自分に責任を持てとツヅキは言った。ごもっともな言葉だ。未来の自分は他人ではない、今の自分の延長に過ぎないのだ。未来の自分の不徳は、今の自分の至らなさが招いたものなのだから。


 だからと言って。その程度の、などで筆を折りなどしてやるものか。そこはどうにも、作家仕事が性に合っているらしい。


 作家遊葉は脱力した。どこまで行っても己は作家なのだと、苦笑さえ漏れ出、シャワー由来の温水か涙腺由来の涙か、分からない水分が頬を伝った。



「失礼します」


「うぉあッ!? きっ、奇如月さんッ!?」



 風呂場の引き戸が開けられ、俺の背後に全裸の奇如月さんが立っていた。彼女の実在を視認した後、即座に視線を前方へ戻した。が、そこには鏡があり──ご丁寧にくもり防止コーティングまでされていやがる──すぐに下方へ視線を逃がした。



「背中を流しに来ました」


「何でッ!?」


「人は全裸でコミュニケーションを取り仲を深めるものだと、末路は学習しています」



 要は裸の付き合いをしに来たのだと、奇如月さんは言っている。



「それはあくまで同性同士の話だッ! 異性同士だとまたこう……フクザツな関係になっちまうだろうがッ!」


「フクザツな関係……それは遊葉さんと山覚ツヅキの間柄よりも親しい関係でしょうか」


「そりゃそうだッ!」


「であれば問題ありません。末路は好ましく思います」


「思うなッ! お、俺は先に出るッ!」



 目を隠して風呂場を出ようとするも、奇如月さんに腕を掴まれた。引き剥がそうにも俺の腕力じゃ敵わなかった。兵装の展開が出来なくなっただけで、膂力は相変わらずメカニカルに強化されているままらしい。



「背中を、流します」



 俺の腕を掴む奇如月さんの握力が一層強まる。掴まれているのとは逆側の手で加勢しようにも、それでは目を覆う物を失い彼女のカラダを目にしてしまう。



「……分かった。ただし、本当に背中だけだからな」



 バスチェアに座り直し、奇如月さんへ背中を受け渡す。背後でシュコシュコと音がしたかと思うと、ヌルリとぬめる小さな手のひらが俺の肌に触れた。



「何してんだッ!?」


「背中を流します」


「素手でッ!?」


「はい」



 奇如月さんはマジだった。迷いの無い動きで彼女の両手が俺の背中をもそもそと滑る。それを止めさせるには背中越しの位置関係をリセットせねばならない。すると当然あられもない少女の裸体を目にしてしまう訳で、理性主催のシーソーデスゲームは現状維持保守派陣営が勝利を飾った。



「末路は記憶領域を抹消します」



 俺の背を滑らせる手を止めず、美容師が痒い所の有無を聞くが如く平然と言った。



「……いきなりどうして」


「遊葉さんの身を守る為です」


「だからって……消したくないって言ってたじゃないか」



 唯一の家族とも言える同系機との思い出、それだけは守りたいと言っていた。他に心──アンドロイドに心などあるのかは知らないが──を許せる相手など居なかっただろう。それを押してでも記憶を捨てる理由など、少なくとも俺というくだらん男には荷が重すぎやしないか。



「真世界軍が狙っているのは末路の記憶領域に保存されているデータです。末路を基に後継機を開発し、連合国軍に科学力の面でも拮抗せんと企んでいるのでしょう」


「身体そのものだって貴重なサンプルになり得るだろ」心苦しくも言ってやった。


「末路には自爆機能があります」



 自爆すれば直にボディーから設計を知られる恐れは無い、と。しかし飛び散ったボディーの中から記憶領域のパーツさえサルベージされてしまえば秘匿すべき情報が全て知られてしまうのだ、とも。



「奴らの狙いはそれだけじゃない、俺だって標的だ。奇如月さんの記憶を消したって解決にはならないはずだ」


「はい。ですので、遊葉さんの記憶も抹消し、創作に対する義務意識を取り除きます」


「……どういう意味だ」


「遊葉さんの未来に関する記憶、それに付随して知り得た情報を外部より抹消し、更に今遊葉さんが抱えている創作に対する義務の意識を取り除きます。そうすることで、遊葉さんは習慣となり惰性で続けていた執筆行為に対する執着を失います」


「俺の創作が惰性? 義務感で続けていた? それは意欲的な行動ではなく、執着だと言いたいのか。それは聞き捨てならないぞ。俺は作家だ、作家遊葉なんだ。執着じゃない、義務でもない、資質と努力によって勝ち取った権利なんだ」


「いいえ、遊葉さんは執筆を好意的に捉えていません」


「ンな訳あるかッ!」


「いいえ」


「仮にそうだったとして、それを奇如月さんが知るのは何故だ。俺が一度でもそんな事を口にしたか。それとも何だ、奇如月さんも未来人で、未来の俺がそう言ったのか」


「重ねて、末路は否定します。今、末路は遊葉さんに触れています。間接的に脳波を測定しました。これは遊葉さんの口から聞いたのではなく、脳から聞いた話です」


「俺の無意識が? 本当は書きたくないって? そんなバカげたコトを言ってんのかよ」


「はい」


「嘘だな。もしくはぶっ壊れちまったかだ。奇如月さんがじゃないぞ、俺の脳みそがだ」


「いえ、遊葉さんの脳は正常に活動しています」



 だとしたらイカれちまったのは俺の魂か。俺は作家だ、物を書いて金を貰う。そうじゃなくちゃ生きていけない。赤羽が「専業は厳しい」と言うから、これまでに多くのアルバイトをしてきた。どれも長くは続かなかった。就職活動だってしてはみたさ。箸にも棒にも掛からなかった。俺は所詮、社会不適合者なのだ。世間一般で言うところの普通の生き方ができやしないのだ。偶然にも文才があった、それは幸運だった。だからそれを生業とした。もちろん楽しいさ。己の内にしか存在しない世界、物語を実在化させられる。それだけじゃない、それを誰かが観測し、あまつさえ楽しんでくれるのだ。これほど楽しい生き方が他にあるか。


 ……あるだろうよ、いくらでも。だけど俺にはこれしか無いのだ。このやり方でしか生きていけないのだ。


 作家は筆を折る時、魂もろとも砕け散る。







 でもそれも、悪くはないんじゃないかと思えた。







 俺を社会から爪弾き者にしたのは、世界に蔓延る多数派の人種だ────そう思っていた。だが真実はそうではなく、俺自身だったのではないかと。俺の内に眠る、自分は特別だと思いたいエゴなのではないかと。俺は普通じゃない、物を書いてしか生きられない。そんな変わり者の自分にただ酔っていたのだ。だから自然に、無意識のうちに、あるいは意識的に社会のレールから外れた。ある種の自己陶酔と、堕落を望んだ。父親がクズ野郎で、母親は精神を病み、祖母は俺を肯定した。外的要因によって俺は選択肢を狭められ、在り方を固定され、されどそこから脱そうとはしなかった。墜ちていく。社会的重力加速度を、あろうことか俺は心地好く感じてしまった。結局は己に責がある。


 それを奇如月さんは、リセットしてやると言っているのだろう?


 全てを諦めたつもりだった俺は、先の見えぬぽっと出のアナザールートを、少しだけ興味深く捉えた。


 作家遊葉の人生分岐点が、ここなのだとしたら────。



「良いか、それも」



 やはり〝俺〟は泣いていた。


 吐き捨てるように、受け入れよう。

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