二幕その四:二〇一二の三歳牝馬
自分で言うことではないのかもしれないが、俺は責任感のある男だ。
かつて一度たりとも赤羽との打ち合わせに遅れなかったし、締め切りも全て守ってきた。それはある意味、一作家としてのプライドを守る為の意地だったのかもしれない。与えられた仕事を全う出来る人間なのだと証明したかったのだ。彩度〇の学生時代、両親からも人並みに愛されているとは思えなかった少年時代を思えば、真っ当な社会人である己が人格を保ちたかったのだ。
だからこそ、俺は期待に応えようと決めた。「何故俺が」などという感情は、案外易々と捨てられた。そも、相手は一〇も歳下の子供なのだ。
アイデアはある。不確定要素もある。むしろ、それを確かめる為の実験に最適の機会だとさえ思えた。
「どうした遊葉朝っぱらから、ベンキョーなら教えねえぞ」
「それが教育者の言葉ですか」
始業前の職員室。髭面の男の前に俺は居た。
標的は担任の青木である。正史に於ける一年次の担任も青木だった。歳は五〇を手前にしたミドルエイジ。不精髭と髪にはところどころに白毛が見えるが、ロマンスグレーとはお世辞にも言ってやれない風貌だ。ヨレたシャツからは煙草の匂い。週明けの月曜日の朝はいつも二日酔いで教壇に立つ。更には大の競馬ファン。煙草・酒・ギャンブルと、三拍子の揃った三冠駄馬男である。
「今週末は確か、桜花賞でしたよね」
桜花賞。競馬界で最も権威のあるレースを並べるG1レースの一つ。中でもこの桜花賞は、三歳牝馬の中で獲得賞金順上位の馬しか出場できない特別なレースだ。また、競馬ファンにとっては牝馬三冠の一戦目というスペシャリティのある位置付けともなっており、多くの競馬ファンが注目する大レースである。注目が集まるとはつまり、賭け金の総額も高く昇る。そういう意味でも競馬ファンにとっては外せない大事な一戦なのである。
「お前、ウマやんのか」
「まあ、嗜む程度には」
二〇二一年の有馬記念を赤羽宅のテレビで観た。エフフォーリアの快勝とクロノジェネシスのラストランに胸を打たれた俺は競馬に関心を持った。その時ばかりは仇敵たる赤羽に感謝したさ。「俺に競馬を教えてくれてありがとう」と言った俺を見て、赤羽は俺に対し流行り病の罹患を疑ったほどだった。思い返せば、まったくもって失礼な奴だ。
「桜花賞は誰に賭けるつもりですか?」
「んあ? そりゃお前、ジョワドヴィーヴルだろ。ジュベナイルで阪神一六〇〇右は二馬身以上の差を付けて勝ってるしな。同条件チューリップ賞の負けが気になるところだが、末脚伸ばせるだけのスペースが無かったんだろ。それさえ無きゃ勝ってたレースだったな、ありゃ」
「なるほど」
記憶を手繰った。競馬ファンの記憶力には凄まじいものがある。リアルタイムで観戦していたなら当然、そうでなくてもレース映像を一度でも視聴すれば、勝ち馬くらいは覚えているものだ。かく言う俺も多分に漏れず。特に、日本ダービーを含む
二〇一二年を代表する三歳牝馬と言えばどの馬か。競馬ファンなら誰もが口を揃えて同じ名前を口にするであろう。残念ながら、それは青木の言ったジョワドヴィーヴルではない。
「俺が勝ち馬を的中させられたら、お願いを一つ利いてもらえないでしょうか」
「勝ち馬を当てるだぁ? 競馬歴何年だお前、舐めてんのか」
「何とでも言ってください。で、利いてくれるんですか?」
「内容によるわな」青木は少々、怪訝がった。
「新たに設立した部活動の顧問を引き受けてほしいんです」
「ンな事かよ」青木は少し考えた後「良いぜ」と言った。
「ジェンティルドンナ。三冠獲りますよ、彼女は」
俺基準ノストラダムスさん顔負けの絶対的中大予言を残し、職員室を後にした。
週明け、職員室前で青木を待った。
「遊葉ァ!」
出勤するなり開口一番、青木は酒の匂いが残る五体で俺を抱きしめた。臭っ。
「納得していただけましたか」
「ッたり前だろうが! 顧問だろうが何だろうが引き受けてやるぜ! ツヅキと一緒に立ち上げた部だろ? ああいうワケの分からん部なら大歓迎だぜ! 何せ週末の試合とかしち面倒くせえ遠征なんかも無えしな!」
とことんまで青春にはそぐわない教師だ。
だがこれで良い。無事顧問も獲得できた。俺の知る未来で起きた出来事は繰り返されるとも確認出来た。ミニマムスケール二正面作戦は成功したのだ。
しかし今にして考えれば、俺が馬券を買えば金も稼げ、故にわざわざ顧問を捕まえ部費を貰う必要も無かったのでは。そう思った遊葉の微々たる反省である。
「アンタ、自分が何をしでかしたか分かってんの!?」
朝っぱらから怒涛の勢いで怒鳴られた。俺と山覚さんは、教室に点在するクラスメイト達から横目に注目を集めてしまっている。直視してこないのがまた、山覚ツヅキという女生徒とクラスメイトの心の距離を感じてしまう。……端的に言って不快である。
「おいおい山覚さんよ、何でまた怒られなきゃならないんだ。約束通り顧問を見つけてきたんだ、今度こそ褒められて然るべきじゃないのか」
「手段に問題アリだって言ってんのよ! アンタ、やって良いことと駄目なことの区別も付かないの?」
「分からないな」
「時間移動五原則、それくらい二〇二二年にもあったでしょうに……」
「だから何なんだよその原則、知るワケ無いだろ。言っておくが、二〇二二年にタイムリープ技術なんて無い。ドラえもんだってSF作品として親しまれてた頃だぞ」
「タイムリープじゃなくてタイムヴォヤージュ! ……でも、そうよね。少し期待し過ぎてたみたい。所詮アンタも昔の人だもんね」
カチンと来る物言いだった。一言多すぎおばさんか。
「でもこれくらい分かるでしょう、普通に考えて!」
「何が普通だ。未来人の普通が二〇〇〇年代に通用すると思うな。一九〇〇年代にネットリテラシーの重要さを説いてるようなもんだぞ」
俺の言葉が腑に落ちたのか、山覚ツヅキの激昂は鎮まった。
「……それもそうね。まったく、時代が時代ならアンタお縄よ?」
「それを言うなら山覚さんよ、クラスメイトに向かって堂々と自分は未来人だって明かしてたじゃないか。それどころか未来で第三次世界大戦が起きてるとまで言ってさ。タイムパトロールか何か知らないが、捕まるんじゃないのかよ」
「覚悟の上で来てんの、舐めんなよ」
山覚ツヅキの瞳は燃えていた。ただでさえ青い瞳が更に蒼く滾っていた。その視線一つで彼女の覚悟が伝わってくる。そのせいか、己の浅はかな行動に幾ばくかの罪悪感を覚えないでもなかった。
しかしそれは彼女の覚悟も知らずに叩いた軽口に対してであり、顧問を獲得する為に俺が起こした行動の善悪を問うものではない。俺のやり方に文句があるなら自分で探せってんだ。
「……謝りはしないからな」
「……こっちこそ、感謝なんてするつもりないから」
バタフライエフェクトの恐ろしさなんて現代人が知るものか。たかだかギャンブル一つ勝たせただけではないか。むしろこの蝶の羽ばたきが、やがて第三次世界大戦を止めるかもしれぬではないか。
青春の本質とは交友である。すなわち相互理解によって青春は色づいてゆく。
二人の小さな衝突も、マクロな視点で見れば案外〝青春〟なのかもしれない。
そう思えるほど齢二五の青年はまだ、成熟しきってはいなかった。
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