一幕その六:ジンジャーエールは甘すぎる

 懐かしの名曲を歌う高校生とは、案外に趣のある光景であった。


 入学初日、連絡先交換合戦の先駆けとなった男子が企画したクラス懇親会。クラスメイトの大多数が参加したそれは、カラオケ館新宿大ガード店の大部屋でさえ窮屈だと思わせる大所帯を成した。改めて言うまでもないだろうが、山覚ツヅキは欠席である。ヤツに斯様な協調性など無い。


 アイドルに興味は無いが、この年代の曲なら聞き覚えはある。流行りのJ―POPも口ずさめる程度には覚えていた。


 男五人が一段上ったステージ上で人気アイドルの楽曲を歌っている。そういや嵐は活動休止前か。それを女子達は掛け声を挟んだり、片手にスマートフォンを弄りながら聞き流している。他の男子も思いの外盛り上がっている。他には、そいつらだけ隔絶した空間に居るかのように、近すぎると言わざるを得ない距離で言葉を交わす男女のペアも居た。クラスメイトは十人十色の楽しみ方をしながら、皆一様に浮かれていた。


 これぞ青春。疑いの余地も無い。同年代の男女で集まり、ノンアルコールドリンクを飲みながらキャイキャイと騒ぎ立てる。


 俺も一曲だけ歌った。正しくは、歌わされた。さほど上手くも無い歌唱を無理やりにでも盛り上げてくれるのは男子であった。友情の芽生え、その予感を感じないでもない。しかし精神年齢二五の俺には、一曲が限界であった。肉体的疲労には遠かれど、精神的疲労は凄まじいものがあった。


 一人、物静かな女子が居た。覚える限り、一度たりともマイクを握っていない。その代わりに常にタンバリンを手にしており、メトロノーム顔負けの正確無比なリズムを刻んでいた。


 漆の如き艶やかな黒髪は狭い肩を通り過ぎ、髪の先端がソファーに届いているほどのウルトラロングヘア。手入れには苦労するだろうに彼女の黒長髪は毛先まで瑞々しく、あるいは人工物のような清潔感があった。


 はたと立ち上がった彼女が気配も薄く部屋を出た。片手に空きグラス、行き先はドリンクバーだ。俺はそれに続いた。丁度グラスも喉も乾いていたし、いい加減に若者の加速度的な盛り上がりに置き去りを食らっていたからである。



「疲れましたね」



 ドリンクバー前にて捻り出した一言目は、相手の気持ちを察しているようで察していない、独善的な決めつけ発言だった。その証拠に、彼女の顔は健康的な薄橙の真顔だし、続けてこうも言った。



「いいえ」



 機械的な透明感のある声で発せられたその三文字は、続きの文字を持たなかった。



「えっと、何さんだっけ。ごめん、まだクラスメイトの名前を覚えきれてなくて」



 半分本音、半分嘘。


 覚えきれないではなく、もう覚えていない、の方がニュアンスとしては正しい。



奇如月ききさらぎ末路まつろ



 記憶の中の高校時代にそのような名前はあっただろうか。しかし暗黒グレースケールの学生時代を送ったの記憶だ。同性どころか異性の名前まで正確に覚えているほど、人と交わりを持ってはいなかった。……これほど特徴的な名前であれば絶対に忘れん、とはおそらく、かつて高校時代の俺も通った思考の道なのだろうな。



「奇如月、奇如月末路さんね。俺は──」


「遊葉さん」食い気味だった。


「そう、凄いな。俺みたいな目立たない奴の名前まで覚えてるんだ」


「貴方は特別だから」



 純な瞳で見つめられる。中身は大人の俺が初心な女子高生に視線を送られると、些か緊張もした。緊張の理由は好感ではない、危機感の方だ。


 ドリンクバーで新たにジンジャーエールを注いだ。すぐにあの祝祭会場に戻るのは精神衛生上憚られ、進んでロビーのベンチに腰を下ろした。奇如月さんもまた、俺に続いてベンチに座った。


 各部屋から漏れる音は数あれど、我がクラスメイトがかき鳴らす音は何よりの騒音だ。光の失われた瞳を浮かべ受付に立つ店員が目に入り、一欠けらの罪悪感を覚えた。



「奇如月さん、部活とか考えてる?」


「いいえ」


「もしかしてバイトしてて忙しいとか」


「いいえ」


「そう。じゃあ勉強頑張るつもりとか」


「いいえ」


「実は不良?」


「高等学校次で学ぶ知識は全てインストールされています」


「ははっ」



 不思議な子だ。言葉遣いは勿論、どこか浮世離れした雰囲気こそすれ、嫌悪感は感じられない。山覚ツヅキとは反対の印象である。人間らしい傲慢さによって第一印象に優れなかった山覚ツヅキ、対して人間らしい生々しさをおくびにも出さずにどこか好奇心にそそられる奇如月末路。未来人たる俺の、覚えていない超個性的クラスメイトが二人も居たとは、痴呆にゃ二五は早すぎるぜ。まあ、未来人の方は正真正銘の新参者であるからして、覚えているはずが無いのだが。



「だよな。青春を謳歌したいからって部活に入らなきゃって決まりは無いよな」



 それは自らを強引に納得させるかのようで。頭上には、窓ガラスに油性ペンで落書きをする山覚ツヅキの姿が浮かんでいた。



「執筆で十分かと」


「えっ」驚嘆が口から漏れた。続けて、


「俺、執筆してるって言ったかな」


「いいえ」


「だったらどうして」



 奇如月さんは小さく細い指で、俺の右手の親指を指し示した。視線はまっすぐ、俺を見据えたまま。


 現代二〇一二年に於いても既に少数派であろう。作家遊葉は生粋のアナログ作家であった。必要に駆られねばPCやワープロソフトには向かわず、相棒は祖父が遺した万年筆と原稿用紙である。中学生の頃より、俺は本格的に筆を握り始めた。と言ってもそれはお遊びの延長。作家なる職業が現実的に見えるようになったのは、今から数えて九年と一〇ヶ月前、もしくは二ヶ月後、二〇一二年六月からである。されどその時点で以前から変化したのは、行動ではなく思考の側。それまでずっと続けてきた執筆活動を、職業に据えようという意識の変化だ。ゆえにペン胼胝の一つも出来よう少年期を俺は過ごしてきた。



「推理遊びをしよう。確かに俺の右手にはペン胼胝がある。だからって、文章を書いているとは断じられないのではないだろうか。それは絵描きかもしれないし、ただ愚直に学業に打ち込んだゆえの症例かもしれない。その上で奇如月さんの考えは如何かな」


「教室で聞いた」


「何をだね」


「貴方と山覚ツヅキの会話」



 なるほど、あっけない。遊びにもならなかった。



「参った、俺は小説を書いている。このペン胼胝もそれで出来た物だ。俺の負けだよ」


「末路と貴方は戦っていたのですか?」コテンと首を傾げ、上目に俺を見つめてくる。二五の青年にはとてもとても、九九式狙撃銃で左胸を撃ち抜かれたと錯覚してしまいそうなまでのインパクトがあった。



「じゃあ、未来があーだこーだってのも聞いてたのか」


「はい」


「信じるか?」


「どちらを、でしょうか」


「どっちもだ」



 俺のタイムリープと山覚ツヅキのタイムリープは別問題であるからだ。例えば山覚ツヅキが正真正銘の未来人で俺は頭をおかしくしただけの現代高校生かもしれない。はたまた、俺が本当に未来から──意識だけだがな──やって来た未来人で山覚ツヅキは妄想癖が激しいだけの、未来で見た銀髪少女のそっくりさんなのかもしれない。……それは無いか。あれほどの美少女がたかだか一〇年の間に二人も遭遇できるとは思えん。



「判断材料が充足していません」


「そりゃそうだ。第三者の視点を忘れるなって、未来で散々言われてきたのに忘れてた」


「ですが」


「ですが?」


「如何なる戦争闘争も、末路は好みません」


「……俺もだよ」



 ジンジャーエールに口をつけた。胡椒ジンジャーの名を冠するくせに甘すぎるんだよな。



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