一幕その三:紫空の下で胸を揉む

 原作者でありながら、エンドロールにも名を連ねながら、どうしたことかな……チケットは新たに自腹で購入して観賞した。思いの外厚みがあるパイソンレザーの財布を見て、いつかの赤羽の言葉が突然に、湧いて現れ思い起こされた。





「平穏の為に夢を捨てるか、夢の為に安定を捨てるか」





 この蛇革の手触りが、平穏か。


 彼は俺が「学園ラブコメ」の企画書を持ち込むと決まって言う。最近は言い飽きたのか、それとも言っても無駄だと考えたのか、今日など、いつその言葉が彼の口から飛び出るか戦々恐々としていたが終いまで出てこないで送り出されたから覚悟のし損だった。安定志向の会社員の言葉とはいえ、いざ面と向かって言われると胸が傷むものだ。


 映画の出来に触れるとすれば、やはり傑作であった。原作には無い空白期間のエピソードを原作者の俺がわざわざ書き下ろしてやり、令和四年の今もっともアクションシーンの作画演出に定評のあるアニメーション制作会社が映像化、音楽監督はテレビシリーズから引き続いて業界の大物が担当。言わばアニメ制作界のアベンジャーズがアッセンブルしたようなものだ、そりゃ傑作が生まれるわな。スタッフ一同、三〇〇〇回愛してるぜ。


 上映が終わり、劇場を去る誰もが、心の熱を九州は大分、火山地熱様々の天然温泉が如く湧かせ溢れさせている様子が嬉しくもあり、また悔しくもあり、どこに故を置いたものか判断がつきかねる涙が溢れていた。笑うが良いさ、大の大人が感情溢れて泣くだなんて滑稽だってな。


 目を乾かしてから、TOHOシネマズの降りエスカレーターに乗り地上へ。

















 ここからだ。

















 ここから、作家遊葉の人生は狂った。


















「きゃア!」と叫ぶ女性の声が視線の真正面方向、つまり新宿東口エリアのメインストリートである靖国通りから聞こえた。


 叫び声のした方向から人々がわらわらと、さながら将を討たれた敗戦兵の様相で新宿駅から離れるように東へと流れ往く。


 今にして思えば不謹慎にも、非日常的事件の気配に作家遊葉の心は跳ねていた。


 一目散に逃げる人ごみを逆行し、俺もまた一目散に走っていた。



 ──ギャリンッ!



 と大きな破砕音を立てて表の巨大広告液晶モニターユニカビジョンが崩落した。その破壊と同時に汚泥でも餌にしている妖の吼え声のような、兎にも角にも耳に不快な嘶きが聞こえた。俺が敢えて文字に表すなら「」と書くだろうか。


 その咆哮をあげたのは見るにまさしく、この世の者とは思えない怪物然とした、幼児が泥を固めて模ったような、巨大な獣の姿であった。どこか寂しげで、どこか愛嬌のある、されど憎しみに侵された獣なのだ。





「噫、ロ―ファンタジーだ」





 呟く俺は紛れもなく、頭をおかしくした作家の端くれだ。何せ既に、のだから。


 いつの間にか人の流れは、先ほど後にしたTOHOシネマズすらも始点としていた。


 ゴジラが負けた。あっけなく、それはもう容易く、泥獣の鋭爪に砕かれ破片となった黒色がビルの足元に落下し、ぶちゅっと汚い音を立てて人を潰した。


 新宿東宝ビルの中腹に、身を乗り出す泥獣の怪物が在った。俺含む一般小市民観測史上二頭目の怪物だ。


 気付けば空は暗んでいた。陽が沈んだなどという平々凡々な理由からではない。それはネイビーブルーのロマンの欠片は無くとも少々の色気は残す都会の夜空ではなく、絵具のむらさき色を水分の一滴も与えず強引にキャンバスに塗りたくったような紫色である。空は雲一つない紫の快晴へと姿を変えていた。


 ゴジラさえも堕とした正真正銘の怪獣から人々は逃げる。男も女も老いも若いも関係無く、ただ逃げる。誰もが自らの生存のみを第一に考えていた。転ぶハイヒールの女は足蹴にされ、間も無くして怪物の餌食となった。


 無情な咆哮が東からも轟いた。三頭目の怪物のお出ましだ。新宿駅東口辺りに現れた怪物を背に逃げる人々を、三頭目の怪物が正面から道を阻んだ。幸いにして新宿にはいくつもの横道があり、逃走経路には困らないが、それはそれである。


 やはりと言うべきか、恐れ戦き逃走の意志さえ失う者は少なくなかった。


 逃げないというのは、理由はさておき俺も同じだが。


 一頭目の怪物を目にした時、俺の脳裏に過ったのは「逃げろ!」でなければ勿論「救え!」でも無かった。





 ──死ねば終われる。





 俺の脳内には、こんな時まで拙作『転生王家』の未来があった。



「たすけてユースケっ!」



 新宿東宝ビルの方向、つまりは後方より少年の叫びが微かに聞こえた。


 チケットを譲った彼だった。


 不思議なもので、恐怖は無かった。まさかまだ、俺の血管内部のアルコール濃度は薄まっていなかったのだろうか。いや違う。酔ってはいよう、されどそれはアルコールにではない。正義への陶酔だ。得てして作家とは、自著の登場人物に影響されてしまうものだ。というのは誰から聞いたでもない作家遊葉の考えでしかないが、確かにその瞬間の俺は、自著『転生王家』のヒーローたるユースケに憧れるただの男の子であった。ユースケは自分の命を投げ打ってでも、そこに一切の見返りも求めず、ただ平然と人を救う。それはユースケの幼少期の経験からなる(そういう設定があるんだ、詳しくは説明しないぞ)行動心理であって、作家遊葉の過去にそれを裏付ける経験など無い。


 だったら走るなよ? ごもっとも。


「ヒョオ」と唸り、今にも逃げ遅れた人々を殺害せんと腕のような部位を振り上げる泥獣。直下には少年。目掛け走る無計画で非力な俺。


 さあ残り三メートルだ────そこで俺は躓いた。











 が、これ幸い、僥倖。転んだ俺は老いた運転手がブレーキと間違ってアクセルをベタ踏みしてしまったフェラーリ顔負けの勢いで少年に突っ込む形となり、そのまま少年を抱いて地べたを転がった。砕けたコンクリートやガラスの破片が背に刺さって痛い。



「オジサン……?」


「お兄さんな」とは、訂正する余裕も無かった。いざ現実ともあらば、嘘みたいな化け物を正しく認識し恐怖できるものである。至極真っ当、作家遊葉は未だ人の心を残していた。……ボツの権化・赤羽とは違ってな。



「○※△×───ッ!」



 刹那、劇場版『転生王家』のクライマックス戦闘シーン以上に臓へ響き渡る低音。後、砂煙を引き連れ熱風が真横を吹き抜けた。


 軍隊だと、すぐに思い至った。そりゃそうだろ? 平の国民でも銃火器をぶっ放せるような海の向こうの大国と違い、我が国は事なかれ平和主義なのさ。


 日本の軍事組織もまだまだ捨てちゃおけないなと、そう見直したのも束の間──それ以前に違和感があった。司令を下した一人を除き、その他は集団行動訓練の行き届いていない一般人のように見えた。……生命の危機を前に冷静に分析してんじゃねえよ俺。下っ端兵共は思い思いにうろつき回ったりその場に震えながら立ち尽くしたりしながら、命令されたら砲撃する。むしろ指示役の男を恐れているようでさえあった。少なくとも信頼し合った部隊員同士の空気感には、素人の俺にさえ見えやしない。ハリウッド俳優の方が余程軍人ごっこのクオリティが高かろう。


 次弾発射、破壊されたのは怪物の身体ではなく──誤射であってほしいが違うんだろうな──新宿の街並みと人の群れであった。瞬く間に歌舞伎町一帯が瓦礫と化し、新宿東宝ビルから東の方角三〇〇メートルあたりにある新宿区役所までもが一望できる始末。そして次には区役所まで爆破。そいつはどうやら別所からの砲撃らしい。……世も末だ。



「アンタ達、助けに来たんじゃねえのかよッ!」


 通じていなかった。作戦装備のゴーグルが外されると、そこにあったのは薄氷に反射する寒空のような青の瞳であった。


 日本人じゃない、米軍か? いや違う。何故新宿に正体不明の怪物が現れながら、射撃砲撃を建造物や逃げ惑う小市民に向けるのか。日本國米利堅合衆国和親条約の締結が偽史だってなら話は変わるが、それもあるまい。


 簡単な話、彼らが敵だからだろう。


 俺の問いに気付いたか、軍人の一人がこちらへ歩み寄ってきた。何語とも知れぬ言語を捲し立て俺に凄む。しばし睨みつけ、俺に言葉が通じないと分かったのか、そいつは通信機器を用いて何者かに通達をやった。


 何故殺さない。たった今、流れ作業のように人を殺したではないか。問うて日本語で答えをくれる訳でも無し、真のヒーローたるユースケではない俺には、あーでもないこーでもないといくつもの憶測を浮かべることしか出来なかった。


 向こうからの返事があったのだろう。軍人は俺の腕を掴み、またしても訳の分からぬ言語で捲し立てた。逆の手では俺の脇に控える少年を同様に掴んでいた。


「訳分んねえよッ!」俺は振りほどいた。俺を掴む腕と、少年を掴む腕の両方を。デスクワークと、月に何度かの赤羽との打ち合わせで出版社に赴くだけの過疎な運動習慣で筋肉量が必要最低限を下回っているんじゃないかと思われる俺の腕力でも、軍人の手を振りほどけてしまった。さほど力を込めていなかったのだろうか。軍人相手に普通なら無理だろ?


 すぐに軍人が激昂したと分かった。怒りの感情は言語の壁を越えるらしい。軍人はゴーグルを装着し直し、リモコンのようなデバイスを掲げ、ボタンを押した。


「ヒョオ」怪物が吼えた。


 嘘だろ?


 偶然であれと祈った。軍人がボタンを押した瞬間、偶然泥獣が吼えただけであれ。俺の祈りも虚しくどうやら違うらしい。ちったぁ宗教にも関心を向けておくんだったぜチクショウ。泥獣は確かに俺と少年の方へ向き直り、呼吸のような気体の吸排を荒立て始めた。今更疑いようも無く、あの泥獣は青目軍人の指揮下にあったのだ。



「オジサン……」



 怯える少年を背に隠した。されどどうにもなりやしない。俺は只の人間で、ここは現実で、ライトノベルの第一巻のように窮地に陥った主人公──便宜上俺ってことにしておいてくれ──に特別な力が発現する、なんて奇跡は起こり得ない。そもそも俺は主人公じゃないし、そう簡単に起こらないから奇跡なのだ。


「ヒョオ」再度、泥獣が吼えた。腕のような部位を一直線に振り下ろしてくる。その動きがスローに見えるなんてミラクルも無く、ただ恐れ、諦めるように俺は目を瞑った。心の中で少年に詫びながら。










「見つけた」










 耳元で少女の声が聞こえた。


 気付けば俺は声の主に抱かれ地面に倒れ込み、コンマ数秒前まで俺が立っていたコンクリート地面が抉れていた。


 隣には俺と同様に抱かれている少年の姿があった。それに何より、安堵した。



ね? 時間が無いわ、アタシに触れて目を瞑って」



 銀の髪は埃塗れの、軍人と比べると軽装ではあるが戦闘装備を調えているうら若き少女が言った。歳はせいぜい……一四、五ってところか。


 まさに美少女と称されようその美貌に、俺はここが戦場だと忘れ、見惚れてしまった。



「今からアンタを過去に飛ばす、説明はしない、時間が無いから」


「ちょっと待てよ、お前は何者だ。あの怪物は何なんだ、どうして日本が軍事攻撃を受けているんだ、これは戦争なのか」


「説明はしないって言ったでしょっ! それに時間が無いともっ!」



 銀髪の少女に手を掴まれ、彼女の左胸へ宛がわれた。



「遊葉先生、これだけは忘れないで」























 ────作家として、エゴを貫くのは美徳よ。




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