第74話 森の老人
世界の南端に命の森という精霊の住まう森がある。
かつて森は精霊の加護を失い、枯れ枝の森となった。
森がようやく再生し始めたのはもう七十年ほど前、記憶を手繰るのもやっとの昔に森の住民の苦労が実を結んで、初めてダナの新芽が双葉をつけた。トニヤが旅から帰ってきて間もなくのことだった。
それから森は順調に回復を始め、若葉が木になり、木が林になり、林が森になり。今では身を任せ、安らぎ眠ることのできる立派な森へと成長した。
そして、この森でトニヤは恋をした。大切な人を見つけ、家族を作り、共に生きられなかった兄の分まで幸せを育んだ。
「おじいちゃん」
二階のベランダでロッキングチェアに揺られながら振り向くと、お下げ髪の八歳になる孫娘のティナがにこにこ微笑んでいた。
後ろ手に何かを隠している様子だが、当てろということだろうか。
「きのこかな」
「ぶっぶー、お花だよ。おじいちゃんきのこ好きだね」
ティナの手の中にはサンザリゲの小花が握られていた。
「コレ花瓶に飾っとくね」
そういうと家の中に入っていく。それを微笑んで見送ると、再びトニヤはベランダから一望できる森を眺めた。
森の景色はずいぶん様変わりした。緑が濃い、とてもいい森になった。
これも精霊のおかげ、何よりこの恩恵が永続し続けるのは世界に身をささげた兄のおかげだ。
トニヤはポケットから二つの華奢なネックレスを取り出すと過ぎ去りしあの日のことを思い出した。
◇
一週間前にノーザンピークを出立した船舶はティエリア海の東にいた。これから大陸に沿って南下してゆっくり円を描きながら最南部の大陸ドムドーラへと帰る。
漂泊する視線の先にはかもめがいるが、何とも暢気に鳴いているものだ。仏頂面でにべにもない感想をこぼした。
往路でセレス号に乗り込んだ際は乗員として必死に働いたものだった。そのせいか、月日は気に留める間もなく過ぎたように思うが、何もすることがないと海というのはこれほどに暗澹で辛いものかと水面をのぞき込んだ。
飛び魚が集団で海面を滑空している。光を纏う姿に声を上げて感銘している乗船客もいるが、そんな気分じゃなかった。船縁の内側に力なく座り込んで、首筋に触れるとかけているものを取り出した。
極地でセラとの最後の別れの際に服の下敷きになっていた紺碧の石のネックレスだった。
これを見た時にとても驚いた。自身の持っているムルティカで買ったものと偶然にも同じだったからだ。これを見た時に運命的な何かを感じて、ああ、セラも自分と同じ道を歩んだのだなと不思議な気持ちになった。
あの胎動している心臓を見た瞬刻は張り裂けそうな気持ちで悲しみを昇華することすら出来なかったのだから。
「弟君、精霊王がそなたにお願いがあるといっておられる」
涙に濡れた瞳を上げると心臓が力強く打っていた。トニヤは涙声で伝えた。
「訳してもらえませんか」
ヴーアの老人は枯れた声で事細かに兄の言葉を伝えてくれた。
その言葉にやり場のなかったすべての思いが終息していく気がした。これはセラの選んだ道。セラは家族と生きる未来を捨ててまで選んだのだと。
しばらくヴーアの元にいて彼らも良くしてくれたが、悲しみは募るだけ。それならばと、二週間ほど前に決意して極地を後にしてきた。
トニヤは小瓶のふたを開けると中に入った赤い液体を少量そっと海に注ぐ。
これで約束がまた一つ叶った。
こぼさぬよう小瓶に蓋をすると大事に懐に仕舞う。
「うわっ、アレおっきい」
ふいに少年がそばで海面をのぞき込んで大声を上げた。
少年の指の先に銀色の塊がたくさん見えた。見たことのある魚影だ。巨大魚は船舶を上回る高速で泳ぎながら、どんどん勢いをつけていく。最高速に達したと思ったら、ぐんっと力を込めて空へ飛翔した。
ああ、彼は。いつか巡り合った優美な姿が水滴をまき散らしながら宙に光を描く。
――王の血を得た。ありがとう、少年。心からありがとう。
彼らは挨拶に来てくれたのだと理解した。
ハンプトンの集団は前から順に飛び跳ねた後、さらに加速して先頭へ躍り出る。前方に銀色に輝く海の道筋が敷かれた。キラキラと輝き、まるでこれからトニヤ自身に訪れる人生の旅路そのものを表しているようにも思えた。
呆気にとられ言葉もなかったが、周囲の喧騒にハッとする。
「ハンプトンが見えるだなんて僥倖だ」
「お祈りしようね」
「精霊王のおかげだよ」
幼子と親が海へ拝礼した。また周囲の人々も御姿に感謝する。まるですべての人がこの世に生まれたことに感謝しているように思えた。
その時、セラの守りたかったのはこういう世界なのかと自然と思えた。
悲しいことばかりじゃないんだよ、笑って。辛い時は魚を数えるんだ。
誰かが心内に笑顔を振りまいて行く。もしかすると陽気な精霊なのかもしれなかったがその姿は見つからなかった。
トニヤは二つのネックレスを握り締めると静かに一筋の涙をこぼした。これは悲しみじゃない、嬉し涙なんだ。そう思って生きていこう。
――ありがとう、セラ。
◇
「ティナ。まだいるかい」
「うん、いるよ」
部屋から出てきたティナに指先で用事を頼む。
「砂糖菓子を足しておいてくれないか」
「うん、いいよ。玄関のでいいんでしょう」
「ああ、そうだ。頼むよ」
ティナは砂糖菓子の袋を手に取ると階下へ降りていった。
一人になり、手元の紺碧のネックレスを撫でた。セラはティエリア海の旅路で何を思ったのだろう。それすらも自身にはもう分からないが。
「精霊は結局ほとんど見えなかったな」
トニヤはそう微笑むと静かな眠りについた。
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