第73話 大好きなあなたへ
「力を望みなさい、セラ。大切な人たちの暮らしを守りたいのであろう」
誘われるように差し出された手にそっと手を伸ばす。
――セラ。
瞬刻、耳に蘇ったトニヤの声に指が止まる。精霊王が迷い震えた手を力強く掴んだ。
「永久に」
手を重ね合わせると髪を巻き上げる程の旋風が足元から吹きあげた。旋風に乗って吹きあげるのは人々の崇拝。精霊王がこの地で見てきた世界の祈りだった。
花や実を祀り、像を拝みながら、明日も良い日でありますようにと願う。家族に幸せが訪れますようにと祈る。世界が願いの力で澱みなく回り続けること、すべてが精霊王の加護の元にあること。それを信じて疑わない人々の祈りを精霊王は孤独の生の中で大切に抱きしめて来たのだ。
「一つ約束してほしい」
精霊王が真っ直ぐな目を向けた。
「世界を幸せにする以上のことは望まないで欲しい」
セラは静かに頷く。精霊王はふっと表情を柔らかくすると優しい目を向けた。
「ありがとう」
精霊王はセラを引き寄せると抱きしめ、祈りを込めてそっと呟く。
――『融合』
言葉と共にセラの文様から光があふれた。体で抱えきれぬ程の迸る強い命の光だった。胸から指先、足先、頭、やがて全身にまで広がった光が精霊王の湛えていた光と交わる。二人は油膜同士が交わるように緩やかに繋がっていく。セラの胸を恐怖と安堵が包み込む。怖いのに抗いようもなく体がそれを受け入れていく。
「嫌だ」
堪え切れなかった言葉がこぼれ落ちた。精霊王は手に力を込めて、セラの頭を抱く。
「大丈夫、怖くない」
セラは精霊王の肩で涙を流す。
大切な思い出が押しとどめることも出来ぬ程広がり、それが順に解けてゆく。
「人を愛したことを忘れるな」
精霊王の腕の中で光がよりいっそう強く輝き、精霊王の体と共に強く光る。一体となった光はとても温かく、生まれたての命のようにあどけない。セラはそっと目を閉じた。また筋が落ちる。優しさの中、意識が薄れていく。築いてきた思い出が溶けて心をそっと包んだ。
家族で暮らした森の日々、読み漁った本、父の顔、母の顔、そしてトニヤの顔。すべてが優しかった。すべてが大好きだった。
――ああ、この思い出を抱いてゆくのか……
その瞬間、世界に輝きが満ちた。
新たな命から流れ出た血が細った経脈を押し広げ、大地に恵みを潤す大河のように世界の隅々に行き渡った。その瞬間を知らず眠る人々、働きながら手を止めた人々、海を渡りながら地平を眺めた人々。目にしたすべてのものが、神々しいまでの光に感銘し、手を取り抱き合って「奇跡だ!」と喜んだ。
大地に力が漲り、あふれた精霊は再びこの星の力となっていく。精霊は永遠に絶えることのない森という名の愛情を築く。すべての中心に有るのは精霊王。唯一無二の精霊王なのだ。
尊父として君臨する辛さを誰も知らない。命を育てることの幸せを誰も想像しない。ただ、彼がそこにいるだけで人々は安心してまた暮らしていける。時が流れ、生を終える時、人々は気付くだろう。ああ、自分は大きな力に見守られていたのだ、と。
精霊王は彼の地で豊かな時代を願う。最初の精霊王がこの地に誕生して以降変わることのない願いだ。そっと、そっと柔らかな手を抱きながら……
◇
トニヤが目覚めた時、通路が騒々しかった。隣を確認すると握りしめていたはずのセラの手は無かった。途端に心が焦る。何かがあった。何かがあったのだ。
セラが何かに関わっているのではないかという不安が心を駆けあがる。急げ、急がないと。トニヤは走って通路を歩く人々を押しのけて、喧噪の中心へと向かった。
掻き分けた先にあったのは精霊王の間だった。
目にした途端トニヤは目を見開き、大粒の涙を零した。
死に絶えた心臓を覆っていた全ての氷が溶けて、世界の心臓が力強く胎動していた。
トニヤは泣きじゃくりながら心臓へと歩み寄った。
「セラ」
涙声で縋りつくように声を上げる。いわれずとも分かった。これは自身の敬愛する兄なのだ、と。自身を呼ぶ優しいセラの声がやにわに耳に蘇る。目を閉じその感触を確かめるように耳を塞ぐ。また、セラの呼ぶ声が一つ。声を蘇らせながらセラの優しさをそっと思い出す。涙と呻きが一緒になる。
「セラ。約束したじゃないか、セラ」
悲愴なトニヤの涙を気に留めるものはいない。ヴーアは歓喜の声を上げ、新しい王の台頭を喜んでいた。
「王が蘇られた。こんな素晴らしいことはない」
「慶事だ。民を上げて祝わなくてはならない」
トニヤはふらつくように精霊王に歩み寄り、眼前に座り込むとそこに落ちた衣服を強く抱きしめた。
「大好きなんだ、ボクはセラが大好きなんだ」
トニヤの嘆きは歓声に消える。
涙に暮れるトニヤに老人がそっと近づいた。
「精霊王がそなたにお願いがあるといっておられる」
トニヤは首を振る。
「聞こえないよ」
愛しさを抱きしめるように服に縋りつく。
「ボクにはセラの声はもう聞こえないんだ」
トニヤは天を見上げ、涙枯れるまで泣き続けた。
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