11章 精霊の大地

第71話 精霊王

 セラは宛がわれた氷の部屋を抜けて、ヴーアの人々に気取られぬよう精霊王の間へと向かった。

 夜で通路には誰も居なかった。嵐の前の静けさのようだった。時折、人々の密やかな声漏れ聞こえたが、もしかすると自身たちの処遇について話しているのかもしれなかった。


 極地の夜は明るく長いと本で読んだことがある。空を染め上げたオーロラの光が氷の下にまで透過して通路を優しく彩っていた。


 自身は精霊王を詰問しなければならない。感情で抗わなければなければならない。生を諦めるなど出来るものか。なのに、自分は。なのに。


 拳を握り締めると唇を噛んだ。己は何を決断しようとしている。


 細長い廊下を抜けた先の王の間で精霊王は寸分変わらぬ姿でセラを待っていた。

 悲しい氷漬けの心臓を見上げると心が空くような感覚を覚える。同情は出来ない。この現実こそが彼の運命だ。


 セラは精霊王の前へ立つと声をかけた。


「オレはあんたの望みを叶えるためにこの地を訪れたのではない。知らないことを知るために来た」


 物いわぬ塊に言葉を投げつける。聞こえていると信じて言葉を継ぐ。


「世界がどうなろうとあんたがどうなろうと凡そオレに関わりの無いことだ」


 返ってくる言葉はない。聞こえているかも定かではない。セラは自身の手のひらを見つめると心臓を睨みつけた。


「あんたはオレが世界を知らないといった。だから世界を見せてくれ」


 するとセラの叩きつけるような意思に反応して沈黙していた心臓が波打つように震えた。その振動にセラの胸の文様が反響し、体が芯からざわめいた。氷漬けの心臓が熱を帯びていく。血流が奔流を巻き、繋がる血管の一本一本にまで魂が宿っている。


 氷漬けの君主が目覚めた。精霊王を覆う厚い氷が宝石のように淡い輝きを放ち始め、胸の文様と精霊王が共鳴し合う。感じたことのない慈しみが心を覆った。


 この温かなもの。ああ、これは紛れもない愛だ。自身に注がれている王の愛とはこれほどに大きなものなのか。どうしようもない切なさに包まれて、これまでの人生を思い返した。情が流れ込み感覚的に悟る。彼は自身の寂しさを離れたこの地でずっと理解していたのだ。


 セラがスッと手を伸すと指先が分厚い氷をすり抜けた。すべては心の赴くに。セラは氷の中へと踏み入った。




 氷の中は極地であることを忘れそうになるほど、温かかった。まるで母の腕に抱かれるような心地だ。宙に浮いた足の遥か下方を埋め尽くすのは緑と青に恵まれた鮮やかな世界、極地であることを疑うほどの温かな景色が広がっていた。


 世界の空に浮かぶように立っていたのは夢で出会った時と寸分違わない姿の精霊王だった。夢の寂しさとは一転、力強いその姿は覇気と王威を兼ね備えた聖人君主のものだ。目前にこの世界の尊主がいる。


 正々堂々と君臨する王を目にして心に浮かぶのは畏怖だ。彼は死に体の老僕ではない。

 精霊王はセラの心を汲んだように静かに微笑んだ。


「この頃起きていられることの方が少なくなった」


 目線を上げながら、しっかりした表情でセラを見据える。視線に温かみは無く、それから感じとるのは研ぎ澄まされた知性。彼は自身以上に賢い。


「初めまして、我が息子」


 セラは差しのべられた手を握れなかった。


「……あんたはオレの父ではない」


 ようやく絞り出した言葉に精霊王は静かに頷いた。


「愛してなかったわけではない。出来ることならば共に生きたかった」


 堂々とした言葉には重みがある。セラはそれを退けるように手を振るった。


「これ以上夢に出てくるのは止めろ。跡を継ぐつもりもあんたの世界平和にも興味はないんだ」

「ではなぜここに来た」


「夢であんたはオレを呼んだ。世界の真実を教えるといっていた」

「救うつもりもない世界のことをなぜ知りたがる」


「無知は罪であると敬愛する父に教わった。世界を知って、その上でオレはオレと家族の為に生きる」

「とても難しいことだな」


 精霊王が心得たというように頷いた。手をかざすと指先が光る。眼下の世界が微かな光を帯び始めた。


「望む通り世界を見せよう。これから見せるのはありのままの世界の姿だ。それを見てお前がまだ見て見ぬふりをするというのであればわたしも考えよう」





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