第72話 世界の幸せ
世界を象る背景が一変して、映し出されたのは山岳地帯だった。
枝でヤギを追いながら放牧地を歩く、十二、三歳くらいの少年がいる。
少年は一匹の仔山羊のあご髭に触れ、ワサワサと撫でる。目を細め嬉しそうにするヤギの背を撫でていると遠くから声がして、少年が振り向くと祖父が呼んでいた。搾乳の手伝いをしてくれといっている。
少年は細い指先で右の乳房と左の乳房を交互に引っ張りながらバケツにミルクを溜めていく。
――ずいぶん上手くなったなあ。
――美味しいチーズを作るんでしょう。
家族は夜になると団欒を始める。ガラス窓からはオレンジ色の明かりがもれて楽しそうな家族の笑顔がのぞく。今日一日の労をねぎらっているのだ。
景色が変わり、映し出されたのは小舟に乗る日焼けた漁師の姿。櫂を使って器用に舟を操り、ポイントを見つけると使いこまれた網を投げる。
獲れたのは小魚ばかり。漁師はそれでも愚痴らない。大事な海の恵みだ、命を頂いているのだ。静かに海に感謝すると陸へ持ち帰る。
漁師は魚と引き換えに手に入れた少しの金で、家族への土産物の食材を買った。
帰宅した父を待っていたのは幼子だ。走り寄った三人の幼い兄妹に食材を渡す。子供たちは嬉しそうに声を上げる。
――ありがとう、お父さん!
今日も一日暮らせます。大地の恵みに感謝して暮らしましょう。
景色が強く光り、見慣れた景色が映った。ジュナの木に埋もれそうな二階建ての小さな家があった。
ドアを潜り進むと、母が台所で食器を洗っていた。夕食の片づけをしている。家族は居間におらずどこへ行ったのか。あの不格好なエプロンはセラとトニヤが二人で誕生日プレゼントに手作りしたものだった。
廊下に出て階段を上がるが手前のトニヤの部屋にも誰もいない。そっと奥に進むと声が聞こえてくる。ゆっくりと深い声で物語を奏でている。どうやら絵本の読み聞かせをしているようだ。
両親の大きなベッドの真ん中に父が寝転んで、左右に幼いセラとトニヤがいた。絵本を見上げながら好奇心に満ちた目を向けている。
お化けのヘッチはいいました
ボクのおへそは曲がってるよ、だからヘッチなんだ
見せてもらえる?
カミナリさまにとられちゃったから見せられないよ
ヘッチなのに?
そうヘッチなのに
そういってヘッチはお腹をかくします
これからボクはおへそを取りもどす旅にでようと思うんだ
いっしょに行くかい?
そこまで読むと父がもう一度「一緒に行くかい?」と繰り返してセラとトニヤをいたずらな視線で見た。
「行く!」
二人は満面の笑みで手を突き上げる。父は「じゃあ出発」と笑うと続きを読み始めた。
「おへそのあるものは隠して。カミナリさまに盗まれちゃうからね」
絵本には書いていない父の即興のセリフにセラとトニヤはいそいそと布団を引き上げすっぽりと収まった。さあ、いざ冒険の旅へ出発!
ああ、これは。セラは瞳に涙を溜めていた。大好きだった絵本の読み聞かせだ。大好きだった父、大好きだった母、大好きだったトニヤ。
やがて眠りについた二人の額にキスをして父は部屋を出る。兄弟頭を並べて仲良く夢の中。
もう二度と取り戻せないあの時間がどうしてこんなにも愛しいのか。すべてが幸せだった頃。自身は何者でもなく、ただのセラだった。本当にただのセラだったのだ。
――生まれてきた日のことを覚えていますか。すべてが幸せに包まれていたあの頃を。
――あなたはいつも幸せだったのです。
セラは流れ込んできた大きな感情に言葉を無くした。幸せの記憶が胸を突く。ずっとずっと心の中にあった人生の根幹となっていた記憶だった。この思い出があったからここまで歩いてこられたのだと思うと涙がこぼれた。
自分が見捨てようとしているのはまさにこういう世界なのだ。
精霊王が涙に濡れたセラの手を掴み込む。病に冒された男の手とは思えぬ、愛惜を受け止めるような逞しく優しい手だった。
「お前のこの手には人々の未来が託されている」
「未来?」
「この地からは世界がよく見える。世界はわたしの子供たちだ。ちゃんと笑えているだろうか、日々を幸せに送れているだろうか。お前は人の生を送り、守るべき大切な物を知った。大切な物があるお前だからこそ、世界を育むことの重要性を分かっているだろう。お前は人生という大きな海路を経て、心の底から人々の幸せを願える人になった。慈愛の中にこそ、人生の喜びがあることを知っている。
愛する意味を世界に教えられた今だからこそそれをお前に望む。慈愛の心を忘れず、高潔な魂を以って世界の命になりなさい。この地から愛すべきものを見守りなさい。偉大な王にならずともよい。細部に宿る幸せを大切に、愛する人々の世界を守りなさい」
「それは……オレの役目ではない」
弱く頼りない声に自身でも驚いてしまうほどだった。
「お前にしか出来ないことだ」
精霊王は強くいい放つ。セラの唇から滑り出たのは悔しさと憤りだった。
「あんたは勝手だ。長大な命を与えられながら、どうして永遠の王を貫けなかった」
「わたしは孤独だった。見守ることで得られる愛を知らなかったのだ。死に焦がれたことを今では恥じている」
セラは拳を握りしめて怒りを精一杯抑える。どうしようもない怒りだった。
「その孤独を今度はオレに押し付けるのか。永遠に生きてこの地を見守り続けろと言うのか! 母や弟が死に、大切な者たちが居なくなった世界でも安寧を祈り生き続けろというのか」
堪え切れず、セラの目から涙が零れた。王は顔色一つ変えずに自身の望みを告げる。
「彼らから与えてもらった幸せを忘れずに生きなさい。心の灯にして生きなさい」
「一人で生きる覚悟は無い。一人は辛い、もう嫌だ」
言葉が震え、トニヤの笑顔が頭を過る。自分を求めてこんな所まで来てくれた。大好きな弟だ。大切な弟だ。故郷で待つ母の笑顔が、旅で出会った人々の笑顔が次々に脳裏に浮かぶ。自分は最早、生を諦められない。一人ではないのだ。
「混血児の命は人より長い、一人で生きる未来はおのずと訪れる」
「それでも今ある幸せを捨てることは出来ない。もう少しだけ、もう少しだけでいいんだ。一緒に暮らしたい。どこでもいいんだ。森でも、ステラでも。一緒に生きると約束したんだ」
精霊王は縋るような思いさえ切り捨てる。
「わたしの命が枯れれば、力を引き継げなくなる。わたしはもうじき死ぬ」
「そんなことどうだっていい。オレには関係ない」
王は少し考えて優しい言葉を落とす。
「精霊が居なくなった世界でお前は笑えるか。それでも人々は幸せに生きられるか」
セラはその言葉に声を無くす。
セラの幸せは精霊と共にあった。
セラの幸せは周りの人々の笑顔とともにあった。
世界の継続のために自由を捨てる。人々のために生きる。それは自分にしか出来ないことだ。涙と共に絡んだセラの心が解けてゆく。涙は幾筋もの光となって地に落ちた。
(ごめん、トニヤ)
オレはどんなに拒まれてもこの世界が好きなんだ。
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