第70話 逡巡
本当は迷っていた。トニヤには共に帰ると断言した。でも、それは本当に正しいことなのだろうか。枯れゆく世界で自分自身の幸せを求める。世界の窮状に目を背け、知らないふりをして己だけが満足のゆく人生を送る。
本当に正しいこと? 許されることなのだろうか。
意識の落ちた暗闇で招くように待っていたのは荒廃した世界だった。
かつて森のあった地には木枯らしが吹いて、無情に大地を傷つける。空を黒い雲が覆い、死の雨が降り注ぐ。悲しみを招く雨が轟々と地表を叩き続ける。
河川は氾濫し、荒涼の大地を侵食して人の文明そのものを大きな渦へと飲み込んでゆく。
水難から逃れた人々は高台で手を取り合い、空に慟哭を放っている。
トニヤと母の姿もその中にあった。
――お腹減ったよう。暗いよう。
――こわいよう。
――どうしてセラは助けてくれなかったのかな。皆困ってるのに。
――助けられるのにどうして助けてくれなかったのかな。
やがて人々は生き延びるための殺し合いを始めた。飢えをしのぐための凄惨な殺し合いを。泣き叫びながら殺した愛するものの肉にかぶりつき魂の雄たけびを上げる。
トニヤが口元を血だらけにして空を仰いで泣き叫んでいる。
――セラ、セラ。セラはどこにいるの。
これはおそらく幻。でも息がつまりそうなほど苦しかった。こういう未来が直ぐそこに大口を開けて待っているのだ。
それを分かっていて自分だけ救われるのは正しいこと? 本当に許されることなのだろうか。
「セラ」
景色が声とともに消失する。暗闇にあの男が立っていた。
「あんたがこれを見せたのか」
「違う。それはお前の恐れが描いたものだ」
「オレが悲観しているといいたいのか」
「違うのか」
精霊王の言葉に何もいえなくなった。
「本当はお前は精霊が失われることの怖さを知っている。世界の誰よりも悲観しているはずだ」
唇を噛んで思考を巡らせた。
「大事な弟、大事な母、旅の道中で心を通わせた友。そのすべてが失われるのだぞ」
「オレの思考を読むな! あんたに何が分かる。オレの大切な何が分かる」
セラは耳を抑えて、地面に向けて叫んだ。
「お前が跡を継がねばおのずとそういう未来は訪れる」
「勝手じゃないのか、あんたはどうして永遠の命を枯らしたのだ。一人生きることに飽いたからではないのか」
「無気力がそうさせたのだと理解している」
「あんたがもう一度やる気を出せば世界は救われる」
精霊王は世界という言葉に瞬刻考えた様子だった。
「世界を知らないものが世界を語るか」
「馬鹿にするな」
精霊王は目を眇めてセラを見た。
「残念だが、細部からもう壊死は始まっている」
セラは信じられない思いで精霊王を見た。
「私はもうすぐこの世を去る。その時にお前は本当に知らないふりを貫き通せるのか。精霊のいない大地でそれでも幸せと笑えるのか。大切なものたちの幸せを願えるのか」
「寂しさを押し付けるな!」
全力で叫び、その勢いで目を覚ますとまっさらな氷の天井があった。どうやら現実でも声が出ていたらしい。
心臓は激しく波打ち、どうしようもない圧迫感が残っている。そうとう息をつめていたらしい。静かに呼吸を繰り返して苦しさが抜けると隣のトニヤを見た。セラの指を大事そうに握り締め、すやすやと寝息を立てて眠っている。
ふと夢の余韻が静かに言葉を残してゆく。
――世界の真実を教えよう、会いにおいで。
不思議な気分だった。描いてきたすべての夢が今ここで終ろうとしている。
セラはトニヤを起こさぬよう慎重に指を抜くとトニヤの毛布をそっとかけ直して、氷の部屋を出た。
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