第55話 在るべき場所へ
次の日の昼方になっても王女の言葉がずっと心に残っていた。彼女は何を感じているのだろう。大切な人とは一体誰のことだ。トニヤじゃないのか、母じゃないのか。それともそれ以外の肉親が生きてまだ北の地にいるというのか。
一つの可能性が浮かぶ。ブーア、北に住む混血児の一族だと王妃はいっていた。彼の人もまたそういう存在なのだろうか。
漂泊する思考は死んだ顔も知らぬ母を思い出し、それからまだ見ぬ父を想像した。夢で眠っている男は父なのか。どうしようもなく拍動が大きいのはそれほどに父を恐れているからだろうか。
彼は再会を望んでいるのか。
取りとめのない思考に精根尽きて、渡り廊下の欄干から箱庭を眺望した。王女が輝きの中で精霊と戯れているのが見えた。王女は笑っていた、見たこともない表情だった。
長閑なこの国で終生暮らせたら。そう願っているのに、どうしようもなく心が北へと駆けてゆく。望んだ物に囲まれているのに、その恵みを心から享受出来ないのはこの地がまだ自身にとって安住の場所ではないからかもしれない。
ずっと以前に森で読んだ本にはこうあった。
――生き物には在るべき場所があって、どんなに気に入ろうともどんなに気に入らなくとも、自分がそこにピタリと当てはまればそこがその者にとっての在るべき場所となる。
そして、この国はどんなに気に入ろうともセラの在るべき場所ではないのかもしれない。
セラの人生にはまだ大きな課題が残っている。自身の出生のこと、受け止めなければいけない真実。それを彼の地の男は知らせているのだ。
己の正体など知らずとも生きていける。でも、それでは今後の人生で一生虚無が続く。満たされないまま生きてゆくことになる。
何より真実を追求しないのは自分らしさでない。自身は非常に探究心が強く、元々知りたがりなのだから。
世の中には知るべきことと知らざるべきことが存在する。自身のルーツを知るというのは知るべきこと。自身を知り、理解する。少なくとも自分の一番の理解者は自分でなくてはならない。
そして知ることは生きるということに繋がってゆく。たとえ呼吸をしていても、食事をしていても、笑っていても、泣いていても、そこに魂が宿らなくては生きているということにはならないのだ。
交わりたいと望んだ箱庭は自らの生を生きて幸せを見つけ、在るべき場所を掴んだものの場所だ。どんなに焦がれても自身を知らぬものにそれに加わる資格はない。
ならば自身の為すべきことは――
伸ばした視線の先でまた王女が笑った。精霊ととても楽しそうにしていて、彼女のそういう姿は見かけたことがなかった。
眺めているうちにハッとした。それの示唆する真実にようやく気付かされたのだ。
(そうか。幼い自身が森の人々にはこんな風に見えていたのか)
これまでの人生の解が一つ解けた瞬間でもあった。
揺れていた心が定まる。知るべき事実はまだ残っている、今はまだ立ち止まる時ではない。
セラはそう心に誓うとイーリスに願い出た。
「そう仰ると思っていました」
謁見するとイーリスが優しく頷いた。
「ここでの暮らしはとても心休まるものでした。ですが、自身を知ることを諦めることはやはり出来ません」
「当然です。生まれた意味を知りたくないものなどいませんから」
そういって傍仕えしていた召使いに声をかけた。召使いが書状をセラへと渡す。王妃はこのことを見抜いて準備していたのか。
「心に正直にお生きなさい」
心に染み入るような言葉だった。
「この国のはるか北にイリディグアの滝という七本の白糸の滝があります。その裏を通り抜けるとルースの湖という大きな湖があり、それを渡ると極地へとたどり着きます。とても寒いところなので身支度をするといいでしょう。衣服は城のものに用意させます。ヴーアの人々は基本的に他者を寄せ付けませんが、精霊の血を含むものであれば違うかもしれません。あわよくばあなたの真実を教えてくれるでしょう」
「湖はどのようにして渡れば良いですか」
「湖岸に小舟をいくつか置いています。それをお使いなさい」
深く礼をして立ち去ろうとするセラに王女が駆け寄った。彼女の目を見るとすでに笑顔はなく、いつもの無表情だった。
「すみません。ちっとも旅の話をしていませんでしたね」
「ううん、いいの」
そういって首を振るとセラの耳元に唇を寄せて、手で覆いかくすとこう囁いた。
「お願いされても引き受けてはいけないよ」
セラは意味が分からず、でも頷いた。きっとまた精霊に告げ口されたのだろう。
「ありがとう、気をつけるよ」
そう微笑むと王女は満足した様子で頷いて、初めて笑顔を向けてくれた。
「セラ、時に知ることは辛くもありますが、それ以上に感動に満ちたものであるとわたしは知っています。あなたの人生に虹の加護がありますように」
セラは身に注ぐすべての言葉に感謝するように、美しき精霊と王に深く一礼した。
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