第53話 消えぬ過去

 セラは次の日から王女の家庭教師を始めた。彼女にはセラの他に教えるものが二人いて、算術を教える教師と芸術を教える教師。新たに着任したセラには国語を教えることが所望された。


 王女は基本の読み書きが出来る。言葉などもずいぶん上手に話す。その上での国語、と考えてセラは迷った。森の授業なども思い返してみたが、自身は講師に隠れて本を読んでいた記憶しかないのだ。それでも学業という本筋から遠ざかった記憶はない。


 人はいつも一人で学ぶもの。必要なことと必要でないことを見極めながら大人になってゆく。そのために経験が必要なのだ。


 ならば、と城下町で一番大きな本屋に足を向けた。


 二階建てのなだらかなスロープ階段が美しい美術館のような店内で、たくさんの書店員が本を忙しそうに運んでいた。今日入荷したばかりの本を棚に振り分けているようだ。カウンターでは、学者が自身の執筆した本を取り扱わせようと身ぶり手ぶりで大げさに交渉している。それらの姿に精霊もいくつか紛れていた。


「本をお探しですか」


 本の背表紙を目で撫でていると、老齢の天眼鏡を持った品のいい書店員が話しかけてきた。セラは一つ手に取り応じた。


「スタックリドリーという学者の本を探しているのだけれど」

「ございますよ。先日入荷した古本です」


 書店員はすぐさまそう返事すると店の奥に案内した。

 歩きながら店内の小階段をいくつか上り下りして人気の少ない場所にたどり着く。それにしても目が回るほどの本棚だ。いったいこの世にいくつ書籍があるというのか。


「とても状態が良くて値段も良いのですけれど、読む価値はあると思いますよ」


 それは期待した精霊学ではなかったが、なだらかな筆致と瀟洒な字体を見るに師の書籍に変わりなかった。


 タイトルは『精霊って知ってるかい?』とある。聞いたことがないタイトルだが、捲ってみると覚えのある丁寧な挿し絵があった。師の宅でも見たことのある絵だが、これはそれを特別に子供用に編著した精霊学の入門書だ。初版は十三年前、研究初期の作品だ。


 それを手に取り、他に五冊くらい欲しいんだと伝えると老人の彼は木床を鳴らして快活に案内し始めた。


 タイトルで選び取り、最初の数ページを吟味し、王女が理解できそうなものから少し難しいものまで選んでゆく。教育を押し付ける意図では決して無い。自分が学んできたように静かに大人になって欲しいのだ。司書である父はこんな気分で森の子供たちの情緒を育んでいたのかもしれないと思うと懐かしい気持ちになった。


 ようやく七冊選び終えて振り向くと店員は霞のように姿を消していた。今しがたまで隣にいたのに、と姿を探し階下を見ると客の傍で薄霞のように笑っている。客に彼の姿は見えていないだろう。


 本好きの精霊もいたかとほくそ笑むと会計に向かった。




「本は嫌いじゃないでしょう」


 セラはそう問いかけて手に入れた七冊を王女の机に置いた。

 王女は不思議そうな顔でセラの顔を見上げる。


「ううん、嫌い」


 能面のような顔で答えた。表情の奥の感情が読みとれない。でも、とセラは笑う。


「読んでるうちに好きになるよ。好きなものから開いて」


 そう伝えると王女は背筋を伸ばした綺麗な姿勢なままスタックリドリーの本を手に取り捲った。


 黙々と読み始めたので、セラ自身も部屋の角で読書を始める。買ってきたうちの一冊だ。読みながら、ちらりちらりと彼女の様子を確認したが一糸乱れぬ姿勢のまま本に没頭している。嫌いといいつつ受け入れられてしまうもの。読書ってそうなんだよな、と独り言ちると自身もまた視線を落とした。


 どのくらい時間を忘れ読んでいただろうか。夕方になり、王女はようやく裏表紙を閉じた。


「面白かったでしょう」


 そう問いかけると王女は頷いた。さして楽しそうじゃないけれど、そういう訳でもないのだろう。相変わらずの読めない表情だった。


「欲しいならこの本も全部置いていくけれど」


 買ってきた残りの六冊を見せると王女は「いい」と拒んだ。

 セラが少し笑んで部屋を暇しようとすると王女が凛とした声で話しかけてきた。


「森ってどんな場所?」


 脈絡のない会話に、心臓を鷲掴みにされた心地になった。抱え込んでいたすべての感情が潰れる。


「……森って?」


 セラはうろたえをはぐらかすように問い返した。彼女は何を知っているというのだろうか。


「セラはずっといってる。森、森って」


 瞬間、脳裏に緑の景色が巡る。忘れようと押し込めていたはずなのに、ぬぐい去れない森の記憶が鮮やかに蘇った。


 蔑まれた過去、愛しかった日々、大樹を焼いた日のこと。


 二年も経ったのに自身はどうしてこんなに悲しいのだろう。どうしてこんなに追慕するのだろう。

 無垢な目を見返すことが出来ず、破損だらけの感情が剥き出しになり涙が出そうになった。この焦燥を見透かされているのだ。


「今日の勉強はおしまいだよ。次は明後日だ。やっぱり一冊置いていくから暇なときに読んで」


 それを伝えると王女は何もいわずに本を抱えてベッドに飛び乗った。




 居室の窓辺で月夜に不安な心をさらけ出していた。王女の先日のあの言葉が頭中に渦巻く。



――森はセラを忘れたの?



 自身の心内には確かに森がある。どんなに包み隠そうとしても今でも判然と存在している。王女のいうことは決して否定出来なかった。

 二年前のあの日、自身は千年生きてきた精霊の魂を焼いた。悠久の加護を失った森はどうなったのだろう。命の森は今でも生きているだろうか。母やトニヤは健在か。居場所を無くしてはいないだろうか。


 次々と浮かぶ煩悶が心を揺さぶる。もうあの夜を乗り越えたはずなのに。燃やしたあの夜を乗り越えたはずなのに。どうしようもなくなって顔をベッドに押し付けた。

森はセラの罪を忘れたのだろうか。本当に忘れたのだろうか。


 静かな問いかけが暗闇に落ちていく。


 セラは知っている。ほとんどの絆は切ろうとすれば切れるのだ。でも、望んでも切れない絆はこの世に存在する。


 セラはこの日から一つの夢を見るようになった。


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