3章 ロドリア

第15話 海辺の町で

 セラは大樹に火を放ち、森を出て北へとひた走った。

 誰かが追いかけて来るに違いない。始めはその恐怖心でいっぱいだった。休むことなく一晩走り続け、ようやく追手がないことを知ると荒れ野に座り込み涙をこぼした。


 父の魂を燃やしてしまったこと、付随して消えていった多くの命。彼ら自身が望んだこととはいえ身を割かれるように辛かった。肌や衣服は煤で汚れ、手持ちの金もない。涙ばかりが枯れてゆく。それでもと打ちひしがれる心に鞭をうち、北へと歩いた。


 森に一番近いのは数十キロ先のロドリアという港町だということは父から聞いて知識にあった。真っ直ぐ歩き続けていればそのうち辿り着く。だが、ロドリアは存外に遠かった。


 そのうち歩く力も尽きて、空腹で立ち上がれなくなりへたり込んだ。最後の食事から四日、腹は膨らむことを忘れ、喉は乾いて水を求めた。


 棒になる足を奮い立たせ、粉骨砕身でやっとロドリアに到着したのは五日目の夜だった。


 生まれて初めて見る町という場所に心が明けるのを感じた。

 活気にあふれ、夜だというのに松明がそこら中で明々と燃えて人々の笑顔が輝いている。見たこともない石造りの頑強そうな建物が通りにびっしりと建ち並び、石窓から室内の明かりがもれて酔った男たちの野太い笑い声が聞こえてきた。


「あんたたち、いい加減にしてくれよ。さっさと帰ってくんないとアタシが寝らんないんだよ」


 低い中年女性の声がする。しばらくして建物の中からエプロン姿の恰幅のいい女性が出てきた。


「酔ってそこで寝るんじゃないよ」


 肩を組んだ男たちはひらひらと手を振ると女性に別れを告げて、夜の街へと消えた。

 女性が建物に入ろうとした時、ふと目があった。女性は一度目を逸らしたけれど、もう一度視線を合わせると「おいで」と手招きした。




 何しろ初めて見る物が多かったので、セラはそこが酒場と理解するのに多少の時間がかかった。知識と現実を結び付けるのに時間を要したのだ。


 棚に並ぶ大量の酒とたくさんの丸テーブルに乗ったままの食べ終えた皿。普通のイスに混じって間に合わせの酒樽のイスもいくつかある。女性が「手伝ってくれよ」といったのでセラは従順して皿を運んだ。


 二人で手分けして机をふき終えると女性は「そこに座りな」といって温かい料理を出してくれた。セラは突然の好意に戸惑い食べていいものか迷ったが、女性がにっこり笑って「食べな」といってくれたので遠慮なく食べた。

 空いた腹に突然食事を放りこんだものだから胃がきゅうっと苦しくなる。それを我慢しながら、次々と口へ運んだ。我慢しているうちに飢えが満たされていく。


「見かけない子だ。あんた浮浪児だね」


 セラは手を止めた。

 浮浪児という言葉の意味は知っている。だが、自分はたぶんそれに当てはまらない。そう考えて思い直す。いや、家を捨てたのだからもしかするとそうなのかもしれない。

 セラが黙って頷くと女性が笑った。


「あんたたちみたいな子を見ているとアタシゃ切なくなるんだよ。お腹空いていたろう、いっぱいお食べ」


 セラは黙々と食べた。


 たらふく食べて満たされた後、手持無沙汰のセラは立ち上がり石壁に貼られていた大きな古地図を見た。アンティークの世界地図だ。


 命の森がある場所は国名も何も無く緑一色で塗られていた。ロドリアを表す黒点と命の森の北端は地図上でいうと三ミリほどの距離、これほど歩いてやっとたどり着いたというのに地図に表わすとたった三ミリだった。


「船乗りの息子の土産物さ。古物商から買い付けたんだよ。趣味が良いだろう」


 女性がイスをテーブルにひっくり返して乗せながら話しかけてきたのでセラは振り返った。


「息子さん船乗りなんですか」


 問い返すと女性がかっかっと笑った。


「あんた喋れるんだね」


 その言葉で自身が一言も発していなかったことに気づく。食事の礼すらしてなかったのだ。


「すみません。ごちそうさまでした」

「いいよ」


 女性は優しく笑って、地図を差した。


「ここロドリアは世界の南端。北方へ向けてたくさん船が出てる。一年前、息子もここから出航したさ。大抵の外洋船は連なる小島へ寄港しながらゆっくりとティエリア海を渡る」


 女性がすうっと指を滑らせた先には濃い青で塗りつぶされた海がある。世界で一番大きな海洋とされているティエリア海だ。


「横切らないのはどうしてですか」


 最短航路を選択するのならば、寄港せずに北上する方がはるかに早いのだ。だが、その言葉に女性は首を振らなかった。


「知らないのかい。海の魔物がいるんだよ」

「魔物……」


 セラは言葉を飲み込んだ。


「ティエリア海の南には海の魔物がいるというまことしやかな噂がある。毎年いくつかの大きな外洋船が沈められているのさ。そこで慣れた航海士は大海を横切らずに安全な小島を辿りながら北上する」


 女性の指先がつつっと小島を経由した。辿り着いたのは北の大陸ノーザンピークだった。


「もうじき息子が帰って来るから、たぶん船は今はこの辺だね」


 女性が差したのは地図の南東で、大陸こそないけれどそこにも幾つか連なる島があった。


「あちこちに寄港しながら、人と積み荷を載せたり下ろしたりするんで時間がかかるんだよ。一年仕事さ」

「寂しくないんですか」


 女性は両手を広げて、店内を見ろと示した。


「繁盛してるだろう。人には退屈しないよ」


 そういって笑うとイスを乗せる作業に戻っていった。

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