第16話 痕

 セラはしばらく壁際にぼうっと立って地図を眺めていた。脱力気味に世界を俯瞰している。自身はすでに森を捨て何者でもなくなった。帰るべき場所もない、向かうべき場所もない。自らの手で小さなたった一つの宿り木を燃やしてしまったのだから。


 不安な心に森の人々の渋面が浮かんで消える。苦境ばかりでは無かったはずなのに今はイヤなことしか思い出せない。

 疲労困憊の身にのしかかるのは漠然とした虚しさだった。


「今夜泊って行くかい?」


 片付けを終えた女性が隣に立って問いかけてきた。

普段なら遠慮し警戒すべきところだが、疲れ果てたセラにその神経を張り巡らせるだけの余裕は無かった。


「いいんですか」

「行くあてないんだろう」


 快活に返事をしてくれるのできっと好意だ。大して反論する頭も働かないので、セラはその申し出を素直に受け入れた。


 女性の宅は店に隣接していた。店の裏口から出て目の前の石階段を十数段上り、二階の木製の玄関から入る。独居で家族はいないらしく部屋は真っ暗だった。

 入ってすぐ女性は離れた二つの燭台に火を灯した。すると暗闇に黄色い小さなガラス玉が二つ浮かび上がる。女性は黒色の猫を一匹飼っていた。


「あんた風呂に入りなよ。お湯張ったげるよ」

「えっ、いや」

「ちょっと待っとくれ。湯船を洗ってくるから」


 有無をいわさず女性が準備を始めたので、吐息してセラは大人しく布張りのソファに腰かけた。

 家探しするのは失礼なので大人しく待つ。猫が人懐こく寄って来たので背やのどを柔らかく撫でた。


 それにしても、と部屋を見渡した。小さな部屋だけれど、この簡素さは嫌いではない。ベッドとテーブルとソファ、あとは生活に必要なものと少しだけを置いている。


 ただ、木のテーブルの上で燃えている銀細工の燭台は凝った作りだ。一見しても上等なもので、壮年の女性の一人暮らしには浮いているが、もしかするとこれも海の向こうのものかもしれない。隣には極太の縄で石包みした淡い飴色の浮きガラスがあって、これはおそらく海で漁師が使用していたものだろう。ほの明かりが暗闇に美しく揺らめく影を作っている。


「もうじき温まるから適当に入りなよ。狭いけれどくつろげるよ」


 親切にしてくれる女性に礼をいって、素直に甘えることにした。

 衝立の向こうから流れてくる久しぶりの湯気に心が解ける。森の自宅にも風呂はあったが、大雨の次の日など、時々しか入れられなかった。


 有難いことと思いながら、脱衣所で大きな鏡を見た。映る自分は本当にひどい有様で、これじゃ浮浪児と思われても仕方ないと辟易とした。紐を解き、薄汚れた服を脱ぐと、白い素肌が露わになる。薄い胸板も何だか情けない。


 そこで思考がぴたりと停止した。


 鏡に映ったのは大きな文様が現れた半身だ。黒い百合のような文様が胸部を大胆に這っていた。刺青とも見紛うほどの立派な物だった。


 世界には体に刺青を施す部族もいて、丁度このような形状をしているということを本から学んでいた。しかし、セラのこれは掘った物ではない。先日までは無かった物だ。

 いつの間にこんな模様がついたのだろう。恐々と指でこすったが取れる気配は無い。


(どうしてこんなものが体に)


 ふと考える。記憶を辿り、唯一考えられるのは、あの時。

 エルダーの実を飲んで体が光った時だ。


 思考を深くしていると立てつけの悪い木戸の向こうで女性の声がしてドキリとした。


「ドアの前に着替え置いとくよ、息子の物だけど使っとくれ」


 女性の気配が消えるとセラは身を包むように風呂へと入った。




 結局、風呂でしつこく洗っても文様は消えなかった。


 女性の用意した寝間着はぎりぎり文様が見えるか見えないくらいかだったので、隠すように薄布団に潜り込んだ。女性がベッド、セラはソファだった。


「あんたどこから来たんだい?」


 暗がりで女性が話しかけてきた。セラは答えるのを少し戸惑った。


「南から来た、それ以上はいえません」

「南っていうと森しかないけれど」


 女性が可笑しそうに笑っている。たぶん森の集落のことをこの町の人間は知らないのだ。


「あんまりいえないんです」


 重ねていうと女性が優しく答えた。


「詮索するつもりはないよ。この町には流れ者は多いから」


 女性が寝がえりを打ってセラに顔を向けた。


「あんた金は持ってるかい」


 唐突な問いかけに、セラは一瞬、金銭を要求されているのかと思った。


「持ってません」


 本当は持っていると答えたら待遇が変わるかもしれないが、無いものは無かった。


「金がなきゃ生きていかれないだろう。あんたは顔もいい。女性客が喜ぶ。どうだい、少しうちで働いて行かないかい」


 セラは逡巡した。長居をするつもりなど微塵も無かったのだ。でも、女性がいうとおり金は必要だ。生きるのに金が要るというのは世界の常識で、親の庇護を受けていた森ではその意識が希薄だった。森に帰れない以上、一人で生きていかなくてはならないのだから。


「あまり役に立たないかもしれませんよ」


 セラの言葉に女性は笑いながら頷く。


「ホントに使い物にならない子はそんな心配しないものだよ」


 そうかもしれないな。あっけらかんといってしまう態度に安堵して天井を見た。穏やかな木目に深呼吸する。すべてがうまく運んでいるのはきっと巡り合わせだ。いい機会なのだろうと瞳を閉じる。


「本当に知らないんです」

「しつこいよ」


 女性は笑っておやすみと告げる。

 セラはそれから結局女性の店でふた月働いた。


 女性は名をオミールといった。大変慕われる好人物で彼女の店はいつも酔った船乗りたちで満杯だった。皆、二の腕が逞しく盛り上がっており、日に焼け、豪快に良く笑う。酒を浴びるほど飲んで、夜が深くなると連れ立って帰って行った。


 店は毎日パーティをした後のように散らかったけれど、オミールはそれを愚痴ることなく片付けた。セラもまた黙ってそれを手伝い、そうしているうちにオミールの人柄をだんだんと理解した。


 簡単な料理の仕方や人との関わり方を見よう見まねで学び、酒も少し覚えた。

 オミールからそうして学ぶことは多かった。きっとこれらは本ばかり読んでいては学べない知識だろう。


「あんた仕事は丁寧だし、客の評判もいい。もうちょっと笑えばいい男だよ」


 セラは苦笑する。自身が笑顔が得意でないのを見抜かれているのだ。

 きっと前の自分ならば、こう答えていた。必要ない、と。

 でも、自分は関わり方を知っている。それをオミールに教わったのだ。


「もう少し笑いますね」


 布巾で机をふきながら、口元に笑みを作った。


 セラは繰り返しの日々に楽しさを感じていた。森を出て以降精霊の姿は見ていない。ふと、癖で姿を探すことはあったけれどこの町に精霊はいなかった。ずっといるのが当たりまえの日々はもう遠い過去だ。


 森ではずっと人が嫌いだった。陰湿で、何かに脅え、自分と違う者を差別する。でも、今は違う。笑い声や笑顔に心が動く。

 セラは働きながら人生で初めて感じる人間と触れ合うことの喜びを深く噛みしめていた。


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