第12話 去る命

 精霊の泉に着くとフィボットが畔でパンを齧っていた。まだ昼食の時間ではないけれど、早朝から森に潜るフィボットはこの時間空腹になるらしい。トニヤの顔を一瞥すると視線を外してまたパンを齧った。


 トニヤはフィボットの横に腰かけると黙って泉を見た。泉は濁っている。


 セラは以前、この泉には精霊がたくさんいるといっていた。森で一番多いともいっていた。でも、結局トニヤは一度も精霊を見たことがなかった。精霊というのがどんな生き物か非常に興味あったし、絵本の挿絵で何となく理解したけれど、セラにいわせれば――それは見たことがない人が空想で描いたもの――とのことだった。


 羽が生えている精霊はほとんどいないし、顔色はあまり良くない。人型でないのだっているし、とにかくみんなフワフワしている。


 説明しようとささっと絵を書いてくれたこともあったけれど何しろセラは絵がヘタで、結局、精霊の正体が分からず仕舞いだった。


「水濁ってるね」


 トニヤはポツリと呟いた。


「精霊が居なくなったからだ」


 フィボットは低い声で抑揚無くいった。それがとても悲しい響きに感じられて唇を噛んだ。


「フィボットさん精霊が見えるの」


 何気なく呟いたひと言にフィボットは変わらぬ口調で答えた。


「以前一度だけ会ったことがある」


 トニヤは驚きのあまり目をくりりと開けて顔を上げた。


「それ本当?」

「ああ、本当さ」

「聞かせて」


 フィボットに向き直ると足をくずして顔を少し近づけた。


「若い頃だった。妻に病気で先立たれ仕事も出来ず毎日落ち込んで、この泉のほとりで泣いていたらある時、泉の精霊が姿を現した。最初それが精霊とは分からず、人間の女だと思ったよ。でもよくよく見ると肌は透けて儚く、息を飲むほどのとても美しい生き物だった。精霊はそっと澄んだ声で、妻の髪の毛をこの泉に沈めよ、といった。そうすれば思い出に会うことが出来るといって。半信半疑で自宅に戻り、妻のブラシから髪の毛を一本とってきた」

「それで?」

「沈めるとしばらくして泉に花壇が映った。妻の大切にしていた花たちだった。わたしの顔も映った。妻の誕生日を祝った時の思い出だった」


 トニヤは黙って頷く。


「心救われる思いだったよ。悲しみを受け止める暇すらなかったのだと気づいた。精霊に会ったのはそれが最初で最後。精霊というのはもともと人には見えない。格の高い精霊だけが自らの意思で人前に姿を現しその思いを伝えることが出来るという」

「この森に精霊はもう居ないのかな」

「大樹が燃えてこの森を支えていた精霊は死んだと誰もがウワサしている。周りの精霊もこの地を去ったに違いない。精霊のいる森は緑豊かで流れる水は皆美しいと聞く。この森は精霊の加護を失った」


 トニヤは少し考え込んで、この二年誰にもいえなかったことを口にした。


「セラは悪いことをしたのかな」


 のどの奥がつんと痛んで声が震えてしまう。ここで否定されねば、セラを認めるものはもう森にない。それはとても怖い気がした。

 フィボットは少し返答に困った様子で笑った。


「精霊は大地を巡るもの。新たな地を求めて旅に出たのだよ。セラはこの森の人々を救ったんだ。お前の兄を信じなさい」


 フィボットの優しく大きな手がトニヤの頭を包み込んだ。トニヤはその温かさに泣きたくなって顔を伏せた。



       ◇


      

「セラはどうして大樹を燃やしたんだろう」


 何気なく呟いた言葉に母が夕食を食べる手をとめた。ずっと避けてきた話題、長らく話し合ったことが無かったことだった。

 母は難しい顔をせず、優しい表情で応じてくれた。


「燃やしたセラを怨んでいる?」

「ううん、フィボットさんがセラを信じろっていってくれたんだ。でも、不思議で」


 母は黙って耳を傾けてくれた。


「精霊が見えたセラが精霊の宿った大樹を燃やした。大樹にいたのは森を守る精霊だった。セラは森が憎かったのかな」

「一度聞いてみたかったわね。どんな思いで森で過ごしていたのか」


 母はそういって花茶を注いでくれた。立ち上る芳しさが心をまろやかにしていく。


「セラに会いたい?」


 母の言葉にトニヤは頷くと力を込めていった。


「帰ってきて欲しい。また、三人で暮らしたい」

「そうね、母さんもそう思う」


 母は口元に柔らかい笑みを浮かべて頷いた。


「あなたもそういう歳ね。話しておきたいことがあるの」

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